二十七日(2)
「都へ帰ったら、東山へ葉餅食いにいこうぜ」
船にだんだんと人が乗り込んでいく時、時文様が私の背後から来て、バンと背中を叩いていった。
「いたっ」
「へっへ」
東山は清水寺という有難い神社があって、連日人が多く、参道においしい餅を売る店もあるのだ。
「忙しいので、そんなことしている暇ないです」
私が言い返すと、時文様は走って行った。
「おおい、早く来いよ。船の用意が出来ているぞ」
思った通り、時文様は船の上ではもう、何事もなかったかのよう。
露ならぬ 心を花に 置きそめて 風吹くごとに 物思ひぞつく
紀貫之様は毎度のようにまた、和歌を口ずさんだ。
(あ、旦那様。私のこと?)
私は頬が赤くなった。
身分の差があるので、紀貫之様らははるか上の身分。身分の下の者が、上の者に関わっていけない。常識的には。だから、恥ずかしくなる。
(私のこと?私のことだよね、きっと)
見たら、紀貫之様はもう遠くの海を眺めてらっしゃった。
紀貫之様は自然に和歌が出てくる体質だ。
(いったい今は何を考えているのかしら)
普段は分からない人だ。
紀貫之様は、国司として土佐に赴任し、五年の任期を終えて、京に帰る。
赴任前に醍醐天皇に命ぜられた新撰和歌集を携えて。
海の和歌や旅の思いをどのように美しい和歌にして作るのか、私も楽しみだ。
赴任した時はいた娘がいなくなり、帰る時に悲しみを感じている。
これから、船旅が始まる。
若い頃に、いきなりヒット作を出したミリオンセラー作家で、有名人。
いつもは何を考えているか、見かけからはよく分からない。
遠い目をした白髪の官吏。
常に目は遠くを見、目に見えないものを探っている。
日中もぼんやりしているようで和歌を考えているし、何かにつけては和歌を口ずさむ。
ある意味、ちょっと浮世離れしたところがある変人。
そして、紀貫之様はのんびりと筆を持ち出し、帖におもむろに文字を書き始めた。
男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。と。