9. 崩壊の日
王都のほど近くにその森はあった。五百年以上昔に古の勇者に屠られた魔王の城があったとされ、世界中を探してもすでに数箇所ほどにしか棲息せぬ魔獣が未だ跋扈する呪われし……禁忌の森。
その年の調査隊の中に、最も若く優秀な王室付魔法師であるカイさまが選ばれたのは必然だったが、魔法省の代表としてバナ伯爵パウルが、王立学園から魔法薬学主席のヘレーネさまが参加することになったのは、まったくの偶然だった。六人の隊員のうち残りの三人はまとめ役である老魔法学者と護衛の騎士たちである。
人数外のわたしが参加したのは偶然として扱っていいかどうか微妙なところだが、荷物持ちというごくごく平凡だが重要な仕事があったからに他ならない。
「でもテア。無理に来てくれなくてもいいんだよ」
出発の前、わたしが参加するための手続きをしてくれたカイさまは、そんなふうに言って、どんな森が持つものより美しい青緑の瞳でわたしの目を覗き込んだ。
「あぶない目にあうかもしれないのに」
「そうしたら、カイさまが助けてくださるでしょう?」
少し難しかったが、わたしはほほえんでみせた。
「もちろんヘレーネさまのあとで構いませんから」
「ん……でもテア」
「でもはしばらく禁止です。わたしが行きたいと言っているのですから、ついて行かせてください。いいですね?」
「うん……わかったよ、テア」
カイさまはこくりとうなずいて「なら、必ず守ってあげる」と約束をくれた。
──森はひどく禍々しい色合いをしていた。灰色の地面、黒い木々、ゴポゴポと毒を吐き出し続ける禍々しい魔の沼。
そこは地獄に住むべき邪悪なものどもに愛された悪しき地というよりも、神に見放された憐れむべき、哀しき土地だった。
捻れた木々に……疲れたように伸びきった枝々に隠された空。
ほかに咲き方を知らぬというように醜く身を飾り毒を吐く花々。
わたしがかばんに入れて持ってきたいくつもの小瓶や箱の多くは、またたく間に不気味な植物や不可思議な生き物でいっぱいになっていった。
瘴気を吸っては血の涙を流す人面の果実、何も見えぬ百目の鼠…。
何かを持ってくるとき、老魔法師は必ずそれについての短い解説を入れ、カイさまは小さく微笑み、ヘレーネさまはわたしを気遣うような視線をくれ、伯爵は実際に無遠慮にかばんを覗き込んで尋ねた。
「重くないのか? テア」
「大丈夫ですよ、伯爵。カイさまが軽量の魔法をかけてくださったので、かさばるだけでどれも重さはありませんから」
「……あいつもよくよくわからないやつだな。そんな魔法があるのなら自分で持てばいいものを。こんなところまでテアについてきてもらうとはな」
「軽いとは言ってもかさばりますもの。それに、カイさまがお望みになったのではなく、わたしが自分からお願いしたんですよ」
そんなことより、とわたしは小声でたずねた。
「どうするのですか」
余計なことなど言わず、黙っていようとも思っていたのだが、愚かにもそうもいかなかった。いくら仕事中とはいえ、三角関係──それもその中のひとりが何も知らないという関係──と知ってしまっている男女三人のそばにいるのはなんとも心臓に悪いものがあったのだ。
「それは……」
笑みを消した伯爵は困惑と警戒を混ぜ合わせて周囲に視線を走らせたあと、沈痛な濃い色の瞳でわたしの目を見返した。表情には葛藤があった。だからわたしは目を伏せて首を横に振った。
「答えられないのなら、いいんです。すみません」
「いや……俺こそ、すまない」
伯爵は魔獣のために腰に佩いた剣に腕を乗せ、息を吐いた。
「ああ、そうだ……ヘレーネがテアと話したいと言っていた。以前話しそびれたことがあるとか。後で時間をとってやってくれ」
わたしはうなずき、ふと近付いてくる足音に気づいて目を向けた。伯爵の後方から現れたカイさまは、わたしたちを見ていつもの品の良い笑みを浮かべ、「きみたちは相変わらず仲がいいね」と言った。
森は気味の悪いところであったが、幸いわたしたちは魔獣にはほとんど遭遇せず、姿を見ることがあっても、それらはほとんど脅威にならないような小物ばかりだった。
わたしたちは森のあちこちを歩きまわり、多くのものを見、採集し、もう少しで帰路につこうとするときだった。
──それが起こったのは。
わたしはヘレーネさまにどうしても今でないと話せないことがあるのだと願われ、伯爵に頼まれていたこともあって、少し森の奥まったところに入った。それは、ずっと気がかりだった卒業の日に聞き逃した話のことなのだろうかと考えながら。
……この先のことは、会話の内容すら、ほとんど覚えていない。
すべての記憶を塗り替えるほどはっきりと細部まで覚えているのは、茂みから飛び出した数匹の小さな魔獣と、それを追ってすぐそばの沼より現れた巨大な魔獣の姿。四肢から闇をしたたらせ、真紅の口から腐臭を漂わせる醜悪な獣。
わたしは剣はおろかろくに魔法も使えないのに応戦しようと腰のホルダーに手をのばしたヘレーネさまの腕を取って走り出した。
衝撃と恐怖のあまりに方向の感覚を失い、わたしは闇雲に走った。 ヘレーネさまが何かをわたしに──離してだとか囮にしてだとか──叫んでいた気がするが、意味を持ったまま頭のなかで響いていたのは、魔獣たちと遭遇する前にしていたヘレーネさまとの会話の中で唯一まともに記憶に残っていたセリフだけ。
──なぜそれほどまでにカイさまを拒まれるのですか。
混乱の中、すでにどちらの言葉かすら曖昧になっていたが、内容からして明らかにわたしが発したのであろう。頭の中でこだまするたびに激情が溢れ出る言葉のつらなり。なぜ、なぜ、なぜ。なぜあなたはカイさまを拒まれ、違う人を選ぼうとするのですか。カイさまを……裏切って。
最初に追われていた魔獣たちは順々に追いつかれた順に闇の魔獣に食われてゆき、わたしたちふたりだけが残されるまでには、それほど時間はかからなかった。
そして……やがて、かの崖にたどり着く。
後ろに迫りくる魔獣の存在に気を取られ、先に足を滑らせたのはわたしのほうだった。
「ひっ……」
「テアさんっ!」
叫んだヘレーネさまがギリギリでわたしの腕をつかみ、必死な顔で引き上げようとしてくれる。しかし、彼女にだってわたしを救っている余裕などないはずで。
「いけませんヘレーネさま、離し……後ろっ!」
迫っていたのは、大きく大きく開かれた真紅の口。
ヘレーネさまは振り向きかけ……彼女もまた、足をすべらせた──。
それからのことは、後に護衛の騎士や本人たちの口から語られたこととして新聞に記され、国中の人々が知ることになった通りだ。
──……異変に気付き追いかけてきていたバナ伯爵パウルが古の魔獣を一刀のもとに斬り伏せ、クシ伯爵令嬢ヘレーネを救出。しかし彼女と共にいたという荷物番の女性は崖下へと落下し、その直後、原因不明の大規模な爆発が起こった。これによりバナ伯爵パウルは重体、クシ伯爵令嬢ヘレーネも重傷を負った。先述の女性は見つかっておらず、付近にいたと見られる王室付き魔法師カイの行方も分からなくなっている……──
わたしは爆発の直後に気を失い、目覚めた時にはこのどことも知れぬ屋敷の寝台に横たわっていた。カイさまは心配そうに顔を覗き込んでおり「だいじょうぶ?」とわたしに聞いた。深いいたわりをその瞳に込めて。
「痛いところはない、テア?」
もちろんわたしはこう答えた。
「大丈夫ですよ」心以外に痛むところなどどこにもなかったから。
カイさまは「そう……」とだけ言った。つらいところがあったらいつでも言うんだよ、と。つらいのはカイさまのほうなのに。
そして……それから二週間が経ったのだ。