8. 最後の冬
学園の冬は紛うかたなき白だった。この地ではカイさまの実家のある侯爵領よりも格段に積雪量が多く、灰白色の空と純白の地面に黒々とした木々の幹だけが、世界を分断するかのように高くそびえていた。
秋に最年少で特級魔法師の資格をとったカイさまは、このころにはただただ楽だからという理由で、ほとんど学園の制服ではなく特級魔法師の闇色のローブを着ていた。白い肌と対象的な、彼の青みがかった黒髪によく馴染む、黒と見紛う深い深い濃紺。白と黒……。
見渡す限り花はどこにもなかった。
それでもわたしはその時寮の窓から花のごとき少女を見ていたのだ。門の向こう、カイさまと立ち話をしているふうのヘレーネさまの姿を。
やがてカイさまは門の内側に戻り、彼と別れたヘレーネさまは、しばらく佇んだあと、戻ろうとしてちょうど角を曲がってきたらしい伯爵とぶつかった。
「…………最近、パウルと一緒にいるのをあまり見ないね、テア?」
カイさまがそう言ってきたのは、冬季休暇が終わり、しばらくしてからのことだった。わたしは窓辺で未だ雪に閉ざされる世界を見るともなく見ているカイさまへお茶を淹れながら、そうですねえ、と相づちを打った。──それだけ。
雪中に置き去りにされた夏のような瞳が探るようにわたしに向けられたが、彼は口ではそれ以上何も言わなかった。
……春に出会った伯爵は夏になってわたしに愛を告げ、秋にはさらに深まったというその想いをささやき続け、冬に……ヘレーネさまに出逢った。
ヘレーネさまと初めて言葉を交わしたらしいあの黒白の日より、伯爵は物思いに沈むことが増えていったように思う。しばらくしてわたしと距離を取り始めたのは、おそらくヘレーネさまと親しくなっていったこととの反比例であったのだろう。
決定的なことを伯爵もヘレーネさまも他人に悟らせないようにしており、ふたりの関係、あるいは想いについてわたし以外に気付いた者はいないようだった。わたしは……ある日の買い物途中に偶然見かけたふたりの姿から、ふいにそういうことなのだろうと悟り、その夜カイさまとの約束を破って伯爵の部屋を訪ね、こう聞いた。
「わたしがあなたの恋人でも愛人でも妻でも、とにかくそういうものになるってお約束したら、ヘレーネさまのことを諦めてくださいますか?」
「……なんだ、突然」
わたしは扉のノブに手を添えたままわたしを見下ろす伯爵の顔を見上げた。──伯爵のわたしを見る目はもはや秋までの目ではなく、その目に込められていた熱は、隠されながらもすでにヘレーネさまに向けられるものとなっていた。そして、ヘレーネさまが伯爵に返す視線にも、同じものが。
町で見かけたふたりのあいだには、友人の許嫁と許嫁の友人という立場では説明しきれない何かがあった。それは、たぶん、大いなる運命とか、そういうたぐいの……くだらない動かしがたいものによって。
それでもわたしは悪あがきがしたくて、わかりきっている事実を口にした。
「ヘレーネさまはカイさまの奥さまとなられる方です」
伯爵は目を見開き「なぜ」と言いかけ、ひとつ頭を振って取り消した。
「知っている」
「…………それなら」
「それでも。もう……だめなんだ、テア。許してくれとは言えないが」
わたしは黙った。伯爵も黙った。しばしの時間が流れた。
どのくらいかはわからない。
そして。
「なら」
と、わたしはようやく口を開いた。
「カイさまは……どうなるの」
いらえはなかった。いつもカラリとした空気をまとっていた伯爵は、今まで見せたことのない苦悩を顔ににじませて、ただ、少しだけ時間をくれと言った。もう少しだけ、と。
最終的に、わたしは伯爵にうなずいた。幸いカイさまとヘレーネさまの結婚予定の時期まではまだ二年以上あったし、それはヘレーネさまがひとりで学園に留まらねばならない時間の長さとほぼ等しかったから。
──卒業の春に向けて、季節は急速に進んでいった。
カイさまは王室付魔法師になることがすでに決まっており、伯爵も他のほとんどの生徒たち同様卒業後の進路に困るような立場にはなかった。
わたしは伯爵に偽装に協力すると申し出て、以前から変わらぬように見えるよう、その短い季節を親しく過ごした。ヘレーネさまもカイさまにこれまでと変わらないように接しているようだった。
だから……伯爵は相変わらずカイさまの親友だった。
なにかが、どこかで、少しずつ、少しずつ、きしみ続けているのを──崩壊の足音の存在を──感じないわけではなかったけれど。
しかし、否が応でも時間の歯車は回り続け。やがて冬の終わりを告げるエランティスが可憐な花を咲かせるころ…………「ご覧、テア。雪解けだよ」…………カイさまと伯爵は学園を卒業し、その地を離れる日を迎えた。
「テアさん」
わたしがヘレーネさまと何年ぶりかに顔を合わせたのは、卒業の式典も終わり、カイさまがその後の祝賀会に参加していたときだった。荷物をせっせと馬車に詰め込んでいたわたしは、背後からかけられた澄んだ鈴の音のような声にひどくドキリとして、抱えていたいくつかの小包を取り落してしまった。
大丈夫ですか、とドレスが汚れるのもいとわず屈んで小包を拾い集め、わたしに手渡してくれたヘレーネさまの背は、幼いころと違いわたしよりも高いくらいで。わたしは慌てて礼を言った。
「ありがとうございます」
「いいえ……」
昔とは全く違う、流行りの形に結ったつややかな髪、きれいなドレスに毛皮のコート、誰もが褒めそやす容姿。多くの人々が羨むものをいくつも手に入れた彼女は、すべてが変わったかのような中でただひとつ、昔と変わらぬ純粋な親愛と信頼を込めた瞳でわたしを見ていた。
「……あの、お久しぶりです、テアさん」
「え、ええ……はい……お久しゅうございます、ヘレーネさま。でも、その、カイさまとご一緒に祝賀会に参加なさっているはずでは……?」
「抜け出してきてしまいました。カイさまは魔法省の大臣に捕まっていて、それで、テアさんにお会いできるのは今しかないと思って……。あの、テアさんも王都に行かれるのですか? それとも、ずっとご領地に……?」
「もちろん、わたしの仕事はいつでもカイさまのお世話ですよ。カイさまについて一旦侯爵家のご領地に戻ったあと、叙任式に合わせて王都に向かいます」
答えながら、わたしは内心かなり困惑していた。もちろん、ヘレーネさまは、わざわざそんなことを聞くためにここまで来たのではあるまい。わたしの処遇などカイさまに聞けばよいことなのだから。
これは前置きだ。
──ならば……本題は?
わたしの脳裏に浮かんだ唯一の可能性は伯爵のことだった。カイさまと同じく卒業生のひとりとして祝賀会に出ているはずの初夏の風のごとき青年。ヘレーネさまが、ひそかに許嫁を裏切って……裏切って?……選んだ相手。
彼女はどうするつもりなのだろうか。カイさまを裏切っておいて、わたしにこんなまっすぐな目を向けられるものなのだろうか。
成長して多少口数は増えたようではあったものの、もともと社交辞令的なものを好まぬ性質らしいヘレーネさまは前置きの会話も長く続けることなく、すぐに黙り込んだ。言葉を探しているかのような表情。わたしも何をどう聞けばよいのかわからず、唇を閉じたまま彼女を待った。そして。
「あの……テアさん、お話が。カイさまのこ……」
ようやく意を決したようにヘレーネさまが口を開いたとき。
「ああ、こんなところにいたんだね」
雪解け水でできた清流のような声がわりこんだ。式服をまとった精巧な人形にしか見えない青年が、唇にごく淡い、非常に上品な笑みを浮かべて、ゆったりとした足取りで近付いてくる。
「迎えに来たよ、ヘレーネ」
わたしたちのすぐそばで立ち止まった彼は、わたしには一瞬視線を向けただけで、自らの許嫁に優雅な所作で手を差し出した。
ヘレーネさまの表情がわずかにこわばる。
「なぜ」
「心配だったからだよ。ほら、おいで」
「大丈夫です。わたくしは……」
「うん? 気分がすぐれないの? なら……なおさら良くないな。さあ、おいで。会場で会ったパウルにも、きみはどうしたのかって聞かれたよ。心配していた……君のことを」
式服と共に余所行きの表情の仮面をかぶったままのカイさまは──それとも、やはり彼はヘレーネさまの前でもいつでもこの人形のような表情のままなのだろうか──ほほえみを絶やさない。
しぶっていたヘレーネさまも、伯爵の話を聞いたからだろうか、結局は許婚の手を取った。一瞬、わたしに悲しげな、名残惜しげな目を向けはしたが……。
「では、戻ります。カイさま、お手をわずらわせて申し訳ございませんでした」
「ううん。じゃあ……あとでね、テア」
去っていくふたり。ほほえみを浮かるカイさまと、心配をかけたことか裏切りかへの罪悪感ゆえにか、どこかこわばった表情のままのヘレーネさま。飾っておきたいと誰もが言う、一対の人形。
──わたしは、なにか重要な話を聞き逃したような気がしていた。
その後のすべてが変わるような、なにか。しかし結局ヘレーネさまの話は聞きそびれたまま、わたしはカイさまとともに学園をあとにしてしまったのだった。
それゆえ──なのかはわからないが──その後も、ヘレーネさまとカイさまは変わらず許婚同士であり、カイさまと伯爵は友人同士であり、伯爵とヘレーネさまは離れていながらも人目を忍ぶ仲であり続けたようだった。いつしか、わたしは永遠にこのままなのではないかとすら、思いはじめていた。
…………あの、決定的な出来事の起こる破滅の日までは。