7. 千々の想い
かの伯爵がわたしに初めて好きだと言ったのは、 夏季休暇に入る数週間前のことだったと思う。紫のブッドレアが咲いていて、あたりには甘く優しい香りが漂っていたことを覚えている。
救ってもらったお礼のささやかなお茶会の後、伯爵は身分の差などにこだわらずわたしを気の合う仲間のひとりとみなしたようで、顔を見るたび気軽に話しかけて来るようになった。
「奇遇だな、テア。なにしてるんだ?」
掃除や料理や植物の世話や買い物。わたしが何をしていようがどんな格好をしていようが周りに人がどれだけいようが伯爵は頓着せず、興味深そうにわたしのやっていることを眺め、色々質問し、最後には必ず「手伝わせてくれ」と言い出した。
それらのことはこれまでカイさまでさえやろうと申し出たことがなかったことで……わたしは毎度あっけにとられたものだったが、やがて慣れた。
伯爵は時々、いつもの礼だと言って、ちょっとした菓子や花々を贈ってくれたり、買い物ついでにちょっとした食べ物を買ってくれることさえあった。
「テア。きみはあいつからの贈り物は迷わずに受け取るんだね」
カイさまはあるときふとそう言った。
「ぼくの贈り物はめったに受け取ってくれないのに」
「それはカイさまがわたしのあるじで、わたしはカイさまに労働の対価以上のものをもらうわけにはいかないからですよ」
わたしは伯爵とは──不敬だと言われるかもしれないが──対等な友人のようなものだった。しかし、カイさまはいつでもカイさまでしかなく、わたしはいつだってカイさまの友人でも、姉──家族でもなかったから。彼が特別に気にかける必要のある他人は許嫁のみだった。
黙ってわたしの答えを聞いたカイさまは、わたしを長いまつげに囲まれた青緑の目でじっと見つめ、その瞳でいつものセリフ──ぼくはきみにそんなことを……──を言いながらも、口ではただ「そう」とだけ言った。
「あいつは、きみにの目にはどう見える?」
「なんというか……新しい世界を見せてくださるような方ですね」
伯爵がわたしの周りによく出没するようになってから、寮内でささやかれるわたしへの陰口は増加し、嫌がらせと思われる諸々に遭遇することも増えたが、そんなものたちの存在を考慮しても、伯爵との時間がより価値あるものであることは間違いのないことであった。
──わたしは伯爵の初夏の風のような性質がとても好きだった。
けれどそれは、千の花の香を運ぶあたたかな風に対して多くの人が抱くのと同様の好意であり、伯爵がわたしに向けるようになっていった「好き」とは別の意味合いのものであった。
そして言わせてもらえば、わたしの見たところ、伯爵の「好き」もその年ごろにありがちな一時の熱情であり、伯爵が自分で考えているようなものではなかったのだ。
「あなたはどうあっても私の気持ちを疑いたいんだな、テア」
「気軽な気持ちで飛び越えちゃいけない溝とか、気軽じゃなくても気持ちだけでは超えられない壁というものが、わたしたちの間にはあるんですよ、伯爵」
「挑戦もせずにそういうことを言うのはどうかと思わないか?」
「失敗しても傷付くのはわたしだけなんですもの。なんといってもあなたは貴族で、わたしは使用人。成功したとしても苦労の多い人生になりそうで、なかなか挑戦する気にはなりません」
「……つれないな」
ため息をつく伯爵。わたしたちは食料品の買い出しの帰りで、両手には買ったものを色々入れた袋を抱えていた。風が梢を鳴らして、太陽はのんきにわたしたちを見下ろしていた。
「あ……」
寮の近くまで来たとき、わたしは目の端にちらりと映ったそのふたりの姿に思わず立ち止まった。気付いた伯爵も足を止め、わたしの視線をたどって「ああ、こんなところにいるのは珍しいな」とつぶやく。
「カイさま──ヘレーネさま」
彼女には五年以上合っていなかったが、ひと目でわかった。対人形。まさしくそう評されるのがふさわしいふたりだった。ごく淡い薄紅色の氷のような、笑まぬ美貌の少女と、上品な笑みを唇に刻んだ、相変わらず冷えた透明な水でできた流れのような印象を与える青年。
体温のないような、つくりものじみたふたりだった。
カイさまの顔はわたしに対するときの顔ではなく、いつも通りの他者に対するときの顔だった。しかし……わたしの胸は意味もなくしくりと痛んだ。結局、あれはわたしの知っている、馴染んだ彼の表情ではないのだ。
「相変わらず氷のようなお嬢さんだ。許嫁と共にいるのだから、もう少し楽しそうな顔をすればいいものを。何を考えてるんだかさっぱりわからない。まあ、しゃべったこともないが。カイにいくら勧められても話しかける気にならないタイプであるのは確かだな」
そうひとりごちる伯爵に、わたしはすばやく「帰りましょう」と声をかけ、再び寮の門に向かって歩き出した。
許嫁の少女といるあのカイさまは、わたしのよく知っている彼ではなく、わたしはそういうふたりの姿を長くは見ていたくなかったから。
なぜかを、深く考える気にはならなかったけれど。
「ただいま、テア。ああ……パウルもいたの」
外から帰ってきたカイさまは、部屋に備え付けの厨房で伯爵に野菜の切り方を指導しているわたしを見つけ、ゆるく首をかしげて「ねえテア、きみはぼくにしてほしいことはないの?」と聞いた。
「カイさまのお手をわずらわせるようなことは何もありませんよ」
「そう? でもパウルは……」
「私はいいんだ。お前と私では立場が違うからね。なあ、テア?」
「え、まあそうですね。カイさまはどうぞお休みになってらしてくださいな」
「わかったよ、テア……」
美しい瞳でじっとわたしを見つめてからきびすを返したカイさまの背中を眺め、伯爵は感心したように言った。
「弟に甘い姉と姉の言うことに逆らえない弟の図だな。これは」
「言うことに逆らえないのはわたしのほうですよ」
「さあ、そうだろうか」
伯爵は苦笑したが、わたしはむしろ……と思った。むしろわたしは伯爵のほうを弟のように感じていた。カイさまは、わたしにとって──カイさまがわたしをどのように扱おうとしているかはべつとして──どこまでもカイさまでしかなかった。……あの、ほの暗いお屋敷にかかる肖像画。わたしは姉君の代わりになどなれないのだから。
やがて学園は夏季休暇に入り、伯爵は王都だか領地だかに戻っていったが……カイさまは例年通り少数の生徒たちとともに寮に残ることに決めて、わたしはその夏もカイさまとふたりで過ごした。
青い青い空の下。みずみずしい緑の葉をしげらせる木々の下で。
「歌って、テア」
カイさまは草の上に寝転びながら、わたしのひざに頭を載せてそう乞うた。彼の胸の上には読みかけの本が伏せられていて、花びらのように飛んできた黄色い蝶がその上にトと止まっていた。
わたしが歌うとカイさまはとろとろと目を伏せ、やがて眠った。
伯爵のことも、ヘレーネさまのことも、わたしたちはひと言も喋らなかった。そういう夏休みだった。
────時の止まったような。
そして夏が過ぎるのにしたがって時は再び動き出し、カエデの種が落ちゆくかのごとく、学園での最後の冬に向かって、クルクルクルクルと移ろって行ったのだった。