6. 学園での日々
王立学園は周囲を山に囲まれ、さながら外界と隔絶されたひとつの美しい都市のようだった。全寮制で、十二歳から十八歳までのおもだった貴族の子女が学ぶ場所。生徒はそれぞれ自身の世話をする使用人を一名のみ、寮に置いても良いことになっていた。
「ねえテア、ほんとうにいいの?」
入学式の少し前、カイさまは彼に与えられた寮の部屋を綺麗に整えるため、パタパタと動き回っていたわたしにそう聞いた。きみも生徒として編入させてあげられたのに、ぼくの小間使いなんて立場で来ることになって、それで本当に構わないのかと。
わたしは花瓶に小さな花々を活けながら笑って返した。
「当たり前じゃないですか、カイさま。わたしはお嬢様じゃないんですからね」
その日からカイさまの卒業するまでの六年間、彼の広々とした部屋に付属する小さな使用人用の部屋がわたしの城になったのだった。
わたしは毎朝カイさまを起こし、食事を用意し、見送り、出迎え、せっせと世話を焼いた。自分でも少々うっとおしいのではないかと思うくらいの世話の焼きようであったが、カイさまは好きにさせてくれた。時々困ったような笑顔とともにいつものセリフを口にしながら。
──でもテア、ぼくはきみにそんなことをさせたいわけではないんだよ。
学園に入学する際にカイさまがわたしに約束させた──彼は命令を決してしない──ことはひとつだけだった。「カイさま以外の部屋には入らないこと」。それはわたしの身を守るための約束だった。
同性の従者を連れている生徒をはじめとして、異性でも年配の召し使いを連れている生徒やそもそも使用人を連れていない生徒などはともかく、比較的年の近い異性の使用人を寮に置いている生徒には常にそういう疑惑の目が付きまとった。
その周囲の視線はカイさまが成長していくほどにますます強く……いや、むしろ、わたしがカイさまの「愛人」であるということが動かしようのない事実であるといわんばかりの目を向けられるようになっていった。
「放っておおき」
事実無根の噂など気にする風もなく彼はそう言ったが、他人の部屋に入らないようにという約束は、明らかに男子寮にあって他の使用人より「ふしだら」だと思われがちな年上の小間使いの身に及ぶ危険について、カイさまが考慮して言い出したものであったに違いない。
「……だけどテア、何かあったらすぐにぼくに言うんだよ……」
実際、カイさまが共にいるときはともかく、彼が授業を受けに行っているときなど、使用人たちと休みの生徒のみが残された寮で嫌な目にあったことも再三あった。
「あのお人形サマの相手ばかりじゃ退屈だろ? ちょっとくらい俺たちにも良い思いをさせてくれよ」
それが使用人であった場合はわたしは鼻で笑っておぼんやホウキで殴りつけてやり、学園の生徒であった場合は大声を上げるなり一服盛るなりそれなりの対処をした。同じく歳の近い「坊っちゃま」に仕える小間使いが手伝ってくれたこともある。
なんにせよ、わたしは自分に降りかかった問題で年下のあるじの心を煩わせる気などなど毛頭なく、告げ口などをする気もまた無かった。学園寮に住むようになってからのわたしは、ヘレーネさまの異母兄のされるがままになっていたときよりも格段に成長していたのだ。
「本当に何も嫌なことはないの? テア」
「何がです、カイさま。わたしはカイさまのお世話をしていられればいつも幸せですよ」
「そう……? ぼくも、きみがぼくの世話を焼いてくれるのは好きだよ」
カイさまが学園に入学してから二年もするとヘレーネさまも入学してきたようだったが、使用人は学舎に入ることができず、寮の場所も離れているとなれば、わたしが彼女に会う機会はまったくと言っていいほどなかった。
しかし、それから一年が過ぎるころにはすでにその笑みを知らぬげな少女の氷の美貌は、つねによくできた人形のようにふっくりと微笑を唇に刻むカイさまの清らな美貌とともに対人形と評されて、人々の口の端に上るようになっていたのだった。
わたしは時々、カイさまにこう聞いた。
噂など聞いたこともないかのように。
「ヘレーネさまはどうしてらっしゃるでしょうね。お元気にしてらっしゃるでしょうか」
するとカイさまはいつも、読んでいた魔法書かなにかの本から顔を上げて穏やかに首を傾げてみせる。
「そうだね、元気だよ。テアはヘレーネに会いたい?」
「そうですねえ……」
わたしの答えはいつでもこう。なんでもない風に。
「まあね、そのうち、機会がありましたらね」
それでおしまい。別に機会なんてそれほど転がっているわけではないから。カイさまはただ微笑し、「そう」とだけ言って、風の音に耳をすますように目を伏せる。
窓の外には世界があった。
……春には空のヤグルマギク
夏には太陽のゼラニウム
秋には黄昏に似たカエデ
冬には雪を被るカルーナ……
そうして季節は巡り、カイさまが最高学年になった年だった。
わたしたちが“伯爵”に出会ったのは。
バナ伯爵パウルという人は、芯に金の輝きを持つ紫スミレのような端正な容姿の青年で、カイさまと並ぶとそこだけが別世界のように見えたものだった。両親を事故で亡くし、幼いうちに爵位を継いだ若き伯爵。
長く外国に行っていたというこの伯爵が帰国して、王立学園の最高学年に編入するという噂は耳に入っていたが、空室となっていたカイさまの隣の部屋に越してくるとまでは無論予想できていなかった。
「隣に引っ越して来たものだ。これからよろしく頼む」
従者も連れず必要最低限の物のみを持って入寮し、ひとりで部屋の片付けを終えたバナ伯爵はいたって気楽に隣室の扉を叩き、応対に出たカイさまにニッと笑って片手を差し出した。
「なんというか……なかなか気持ちのいい男だね」
伯爵が去ったあと、カイさまはあっけにとられたように握手を求められた手をまじまじと見つめ、窓辺で洗濯物を畳んでいたわたしを振り向いてそれだけ言った。
それから、取っている講義のいくつかが被ったらしく、カイさまと伯爵はどんどん仲良くなっていったようだった。わたしは時たま、寮の庭のナラの木の下で講義内容についての議論を交わす二人の姿を目撃するようになった。親しくなっていく二人の青年。
伯爵はカイさまにできた初めての本当の友人らしかった。
「あの伯爵は本当に面白いやつだよ。非常に変わった考え方をするね。ぼくはあいつみたいなのを探していた気がする」
「ふふ、良かったですね、カイさま。お部屋にはお招きしないんですか?」
「あいつにきみのお茶はもったいないよ、テア」
冗談を言って珍しい本当の笑顔を見せたカイさま。けれど、就寝前にそんな会話をしてからいくらもしないうちに、偶然の成り行きによって、伯爵はカイさまの部屋でわたしの淹れたお茶を飲むことになったのである。
その日、わたしは久々に寮生のどこぞのお坊ちゃまに絡まれ、どうしたものかと思案していたところ、偶然通りかかった伯爵に救われたのだった。
休講で寮に帰ってきていたらしい伯爵は、お礼を言って頭を下げる助けたばかりのわたしを見下ろし、あっと声をもらした。
「なんだ、隣の小間使い殿じゃないか」
え、とわたしも驚いた。
「わたしのことご存知なんですか」
「ああ、やはりそうか。名前はなんという?」
「テアです。ひょっとして、わたしのことカイさまがなにか?」
「カイ? 彼がする女性の話はヘレーネとかいう許嫁のことだけだ」
「え……」
ヘレーネさま。カイさまはこの青年へ彼女についてどんな話をしたというのだろうか。わたしの前ではちっとも彼女の話などしないのに。
しかし伯爵はわたしの受けた衝撃になど気付かず続けた。
「私があなたを知っているのは、カイと共にいたり、あるいはひとりだったりするあなたを時々見かけていたからに他ならないよ、テア。働き者で、ハツカネズミのようにちょろちょろと動き回って、ずいぶん可愛らしいひとだと思っていたんだ」
わたしは笑って再びお礼を言い、よくできたお世辞の分も上乗せしてお茶を差し上げたいからと、次の休日に部屋に来てくれるように頼んだのだった。
そしてその夜──。簡単に事情を話して、週末に応接間を使わせてもらえないかと願ったわたしを、カイさまは青緑の瞳でじっと見つめ、川のせせらぎのような声でこう言った。
「いいよ、きみがそう望むのならね、テア」