5. いいなずけ
大丈夫? と、今にももう一発ムチをくらいそうになっていた年少の少女に、カイさまはそのま白い手を差し伸べて聞く。
「痛むかい、ヘレーネ。怖かっただろう」
慈愛に満ちた声。少女は汚れた、震える手をのばし、カイさまはその細い体を抱きとめた。そして、そのまま年上の少年に向き直る。
「きみがヘレーネをいじめているという話は聞いていたけれど、ここまでむごいおこないをしていたとは知らなかったよ」
クシ伯爵家の少年は怒りで顔を真っ赤にして、またいとこに蹴りかかろうとしたようだったが、カイさまはそれも不思議な短い呪文ひとつで止めてしまった。それから。
あいていた片手で、振りかぶられたまま止められていた少年の腕からムチを抜き取って。
無言のまま……。
ぼわり、と木のムチに火をつけた。
「ひっ」
わたしに見えたのは、蒼白な顔で逃げ去っていく少年の後ろ姿と、少女を支えながらそれを眺めるカイさまの、やはり後ろ姿だけ。
しかしわたしは、すがりついてカイさまの顔を見上げる少女の信頼の眼差しに、彼女の背に添えられたカイさまの手に、なにか大いなる運命の力のようなものを感じずにはおれなかった。なにか、そう、逆らいがたい……。
無論、そんなものはなくて、すべてわたしの気のせいだったのかもしれない。
けれどそのとき、ただ土にまみれ、彼らの後ろ姿を呆然と見つめるのとしかできなかったわたしは、言いしれぬ疎外感と……小さな二人の間に結ばれた、強い絆の存在を感じずにはいられなかったのだった。
「テア」
カイさまは少年の後ろ姿が見えなくなるころになって、ようやく存在に気がついたかのようにわたしにかけよった。
カイさまとヘレーネさまが許嫁同士になったのは、この出来事のすぐ後のことだ。
彼女を将来妻に迎えたいとカイさまが父母である候爵夫妻に申し出、候爵に話を持ちかけられたヘレーネさまの父クシ伯爵は一も二もなく承諾したと聞いた。カイさまは末子で爵位を継ぐ可能性は低いとはいえ、姉亡き後は現候爵に最も愛されていた子であったし、ヘレーネさまはクシ伯爵家のやっかいものであったということからだろう。
長く滞在していた伯爵家の方々はようやくそれから一週間もしないうちに帰ることとなったが、ヘレーネさまのみはしばらく候爵家に逗留することとなった。
あの出来事のあとの数日間、直接カイさまに復讐できない八つ当たりとして、ヘレーネさまに異母兄の少年が暴力を振るおうとしたことが何度かあったようだが、ほとんどすべてカイさまによって阻止されたそうだ。
また聞きなのは、わたしがカイさまによって伯爵家の方々がお屋敷からいなくなるまで庭を歩き回ることも歌うことも禁じられ、家と学校を往復する日々が続いていたためだった。
『もしまたあいつに会ったら危ないだろう?』
カイさまは土に汚れたわたしの頬をぬぐいながらそう言ったが、ヘレーネさまのことは近くでかばっていたのだ。屋敷の従僕に聞いたというカイさまとヘレーネさまの話を父がするたび、わたしの胸は理不尽に傷んだ。
『あの年ごろのお坊っちゃんなんて、まあ、そんなもんだ。あんまり気にすんなよ、テア』
父はそんなふうに言って豪快に笑い、ちょっとおだまんなさいと母に小突かれていたが、わたしは愛想笑いもしてあげられなかった。正直に言えば、少々裏切られていたような気になっていたのだ。
あの少女が救われることを、わたしはあれほど願っていたのに……。
一週間後、クシ伯爵家の方々がお屋敷からいなくなってから、ようやくカイさまはわたしを部屋に呼び出した。
「会いたかったよ、テア。怒ってる?」
部屋にはヘレーネさまはおらず、侯爵邸は相変わらずどこか沈痛な空気に覆われ、カイさまはいつも通り暗鬱な森を流れ行く清流みたいだった。
わたしは一瞬泣きたくなって、それを正確に察知したカイさまのほうが顔を歪めた。
「テア……」
「平気ですよ。怒ったりなんかしません」
わたしは微笑してみせた。何に対してカイさまが「怒ってる」と聞いているのか、確かめようともしなかった。しかし、庭師の娘でしかないわたしがカイさまに対して腹を立てるなど許されることではないから、そんなことはなんにしろ大した問題ではなかったのだ。ほほえんだまま、わたしは幼いあるじに頭を垂れた。
「ヘレーネさまとのこと、うかがいました。おめでとうございます」
カイさまは少しの沈黙のあと、感情のうかがえない小川のせせらぎのような印象の声で「うん」と言った。どちらかと言うと、喜びとは反対の感情がこもっているような声だった。そして彼はわたしの手を両手で包みこんで、ものうげな青緑の瞳でわたしの目を覗き込んだ。
「でもテア、ぼくはきみにそんなことをさせたいわけではないんだよ」
では彼は、わたしになにを期待していたというのだろう?
わたしが何も言えずにいると、カイさまは悲しげな吐息を落として、わたしの手を開放した。
「きみがヘレーネをずいぶん世話していたってこと、聞いたよ。まるで親鳥みたいだったって。ぼくは伯爵家の人々に近付かないように頼んだはずなのに」
「……でもカイさま、ヘレーネさまはひとりぼっちだったんですよ」
「わかってる。テアは途方もなく優しいからね。……ぼくがもっと気を付けておくべきだった。ごめん」
話しながらカイさまはわたしを窓際まで引っ張っていって、窓枠に、自分のすぐそばに座らせた。
「傷はもういいの?」
「すっかり大丈夫ですよ。そんなに大きなケガはしていませんから」
「そう……。でも、もうヘレーネのことはかばわなくていいよ。彼女はぼくが守ることにしたから。きみはもう、彼女のことは気にしなくていい」
開け放った窓からはアラセイトウの甘い香りがしていた。
カイさまはわたしの膝にころんと頭をのせて、わたしを見上げた。さぐるような目だった。わたしが怒っていないか。でもわたしの心にあるのは怒りでなかった。
まさしく貴族的と形容するのがぴったりの、すばらしい形の手がわたしの頬に触れて、彼はもう一度「ごめん」と言った。たぶん、そこに治りきっていない傷あとがあったから。
それから、カイさまはわたしに「なにか話して」と願った。わたしが庭でしか歌わないことを理解していたから。
「それでも、今はきみの声を聞いていたいんだ」
わたしはほほえんで「わかりました」と言った。
だって、ほかに何も言えなかったから。
カイさまの許嫁という立場になってからのヘレーネさまは、侯爵邸で大切に大切に扱われ、ぐんぐん愛らしく健康になっていった。
やせ細っていた体には肉がつき、瞳には希望の光が灯り、つやのなかった髪はアーモンドの花を梳いてこしらえたように美しくなった。
ただ、口数が少なく表情に乏しいことのみは元来のものなのか、ほとんど変化が見られなかったが……、彼女の瞳は口の百倍はものを言ったため、それがなにかの障害になるということはありえなかった。──カイさまとふたりきりのときはよく会話をするようだと使用人の誰かが言っているのを聞いたこともあったけれど。
「こんにちは、ヘレーネさま」
「こんにちは、テアさん」
ヘレーネさまがお屋敷に逗留するようになってから、カイさまは以前と同様にわたしをそばに置いておくようになったために、わたしがヘレーネさまと廊下などで顔をあわせることもしばしばあった。
といっても、偶然出会う際もわたしとヘレーネさまは一時期ずっと共にいた事などなかったかのように、他人行儀な挨拶を交わすだけの間柄であったが。
しかし、彼女はわたしを「テアさん」と呼び、それを変えることだけは絶対になかった。そして、いつでも深い親愛と信頼を込めた目でわたしを見つめるのだ。
──だから、わたしは結局、相変わらず彼女のことが好きだったのだと思う。
カイさまはある意味当然ながらわたしに対するようには──つまり姉に対するかのようには──ヘレーネさまに接することはなかった。ごく上品に微笑して「やあヘレーネ。ご機嫌いかがかな」とお辞儀し、当たり障りのない会話をして、ときどきのお茶の時間を一緒に過ごして別れる。その繰り返しだった。
もっとも、彼は色々とヘレーネさまに贈り物をしていたようだったし、ひとりで許嫁のところに行くことも多く、わたしがいないときにも同様の態度でいたのかはわからなかったが……。
「きみはぼくがヘレーネのことをよくわかっているって思っているようだけれど……どちらかというと、ヘレーネのほうがぼくのことをわかっているんだよ」
いつだったか、カイさまはふとそんなことを言った。リンゴの花が咲き乱れていて、わたしが噴水のふちに座って歌っていたときだった気がする。それはどういうことかと聞いたわたしをカイさまは柔らかい表情で見返して、わたしのお下げ髪についた白い花びらを優しく払い落とした。
そうして二年が過ぎ──……。
十四歳になって村の学校を卒業したわたしは、正式にカイさまの小間使いとして雇われることとなり、他の貴族の子女同様王立学園に入学することとなった、十二歳のカイさまについて行くことに決まったのだった。