16. 広がりゆく世界で
太陽の動きに合わせ、数条の光が太い枝々の間をすり抜けて一直線に地に滑り落ちた。見上げた空は息を吸い込むのをためらうほどに高い。
木陰には秋の寂寥と冷たい悲愁がこごっていて、わたしは金の光を慕うようにその陽光でできた敷物のもとへ移動した。
数百年前、ここが王城と定められたころに植えられ、以来変わらずここで世界を眺めていたに違いないネズの巨木の下。
王城の一角、魔法研究所の裏手に広がる庭園はおもての計算されつくされたものとは違い、この地のもとの面影を残すように素朴な雰囲気を保っていた。
金から橙、緋、紅紫と思い思いに染まり自らを飾るカエデたち。真紅に色付いたまあるいコキア、白と黄色のオキザリス……。
研究所の人々が放したのであろう、魔法仕掛けのいびつな動きの蝶や羽持たぬ鳥、永遠に転がり続ける玩具の鞠などのガラクタたちだけがここがどのような場所であるかを示している。
──魔法使いたちの庭園。
あたりに人影はなく、ときどき建物の窓の向こう側を幽鬼のごとき白衣や、魔法使いの好む黒いローブをまとった影が横切ったように感じることがあるだけだった。
わたしが着ているのは裕福な町娘か下級貴族の令嬢が普段着にしているような作りの……王城でも悪目立ちしない程度のドレスだったが、ここにぽつりと座っているとガラクタの国の女王にでもなったかのような気になる。
わたしは読んでいた本を木陰に追い払って休憩がてら歌い出した。木の幹に背を預けると、広がった青緑のスカートが陽光を浴びて泉のように揺らめいた。歌声につられたようにガラクタの魔動生物たちが寄ってきて。
「……ああ、なんだ。アンタか」
季節に置き去りにされたような濃緑と黄緑の色彩を持つ小柄な魔法使いが現れた。森にいたときと狩人の服装ではなく、二級魔法師を示す刺繍のついた黒ローブをまとっている。
よたよたとスカートのところまで寄ってきたネズミのルネを抱き上げて、わたしは友人に笑いかけた。
「久しぶり、ティモ。メガネは?」
「家。久しぶりってほどじゃねえだろ。アンタは……そうか、転職したって言ってたな」
「転職って」
ティモがわたしからやや離れた草の上にどっかりと腰をおろす。ほんのりと遮光メガネのかたちに日焼けした顔はやや間が抜けて見えたが、隠されぬ瞳は庭園に鮮やかに映えた。
「給料払うのを渋られた上に使用人クビになって王室付魔法師カイの助手やることにしたんだろ。魔力も知識も皆無なくせに不遜にも国王陛下から給料をふんだくろう、と」
「表現とか言いかたとか……もろもろひどいのね」
「事実だろ」
捕まっても知らねえぞとニヤリとするティモに「これでも知識だけはと勉強中なのよ」と、ルネがそちらに行かないように抱え直しながら傍らに置いた本を指す。
「仕組みとかもそうだけど、危険なこととか、できないこととか……やってはいけないこととか知っておきたいもの」
「へえ」
「でも、とりあえずは魔法でできないこととか難しいこと。わたしが使用人をやめたからって、ここのところカイさまが洗濯とか掃除とかもろもろの家事を魔法でやってらして……。わたしがただの役立たずって感じがとてもするのよ」
「もともと簡単にできたことを使用人のアンタのためにやらずにいたんだから、役立たずっぷりじゃたいして変わりはねえよ」
けなしているのかなぐさめなのか分からないことを口にして。
「そういや、その魔法師カイは?」
「今は謁見の間にいらっしゃるはずよ。そのあと研究所にご用があるからって、ここで待っているようにって言われてるの」
「謁見ってことは……陛下からの呼び出しか? 何かあったのか」
わたしは首を横に振った。
「ううん。復職してからちょうどひと月だから、調子はどうかって、それだけみたい」
「なるほど、魔法師カイはお気に入りだって評判だからな」
やっぱりすげえひとだよと言って、ティモは両手を後ろについて澄み切った天を仰ぎ見た。そうか、と声が落ちる。
「あれからもうひと月、か……」
色を持たぬ風が木々を渡って、はらはらと枝から幾枚かの枯れ葉を落としていく。寂しくもあたたかい色合いの葉っぱたち。
わたしは無言でうなずいた。
──ひと月前、森の館から戻ってきたあの日。
わたしがカイさまの助手となるのは、帰ってきたその日のうちに“望み”で決められてしまった。王都の家の扉を開けて「今日からは本当のふたり暮らしだね」と笑ったカイさま。
それからの急流のごとき日々。
カイさまはまず王城で陛下に謁見し、質問攻めにしようと待ち構える人々を横目にわたしを連れてバナ伯爵パウルに会いに行き、相手に謝罪されるより前に怪我をさせたことを侘びた。聖人づらのパウルから謝られて終わるのは気に入らないと言って。
伯爵のところにはヘレーネさまもいて。わたしたち四人が話すべきこと、話したいと思っていたことの量といったら恐ろしいほどだった。話尽くすときなど来ないのではないか、というほど。
最後に伯爵に「禁じられた魔法の使用について部下から報告がきているが」と問われたカイさまはわたしを引き寄せてひとこと返した。『証拠はないね』
──カイさまの帰還は、魔法師ティモが捜索の果てに見つけ出してのものということになった。
魔法の暴走でわたしとともに遠い異国に飛ばされ、身体の回復を待って帰ろうとしていたところを“百目の鼠”を連れたティモが発見し、連れ戻ったのだということに。
貴賤年齢性別に関わりなく多くの人々がカイさまに会おうと連日王城の研究室や自宅の扉を叩いたが、彼がまともに応対したのは実の兄君ふたりが訪ねて来たときくらいのことだった。
またそれらとはべつに、カイさまのご両親である侯爵夫妻も一度王都にいらした。特別にわたしの両親も連れて。
侯爵夫人は息子の顔を見る前にすでに涙を流していて、侯爵は「無事でよかったよ」とわたしにも言ってくださり、わたしの両親は相変わらず元気で思いやり深かった。
あのひとたちが帰ってしまったとき、わたしはどうしてか泣いてしまって。カイさまはわたしが泣き止むまでずっとそばにいてくれた。
『きみがぼくの前で泣いてくれるのは、とても嬉しいことなんだよ、テア』
カイさまがどう話したのか、侯爵夫妻はカイさまとわたしの関係を許してくださり、両親も驚きながらも受け入れてくれた。
それほど時を置くことなくヘレーネさまとカイさまの許嫁関係の解消は知れ渡り、人々はわたしたち四人の仲の良さに首を傾げ……。
今のことも将来のことも、すべてが良いことばかりで、順調なことしかないというわけではないけれど。
そんな人生だけを望むわけではないから、かまわない。
学園の夏季休暇が終わるころにヘレーネさまは戻っていき、一週間も経たぬうちに事故からずっと休みっぱなしだったから大変だと手紙が来た。
──やがて秋は深まり……。
わたしは現在に追いついた回想から覚めて顔を上げた。
ぼんやりと空を眺めていたティモも、合わせるように視線を下ろして姿勢を直した。それからひとつあくびをして。
「ふぁ、そろそろ行くかぁ」
「どこにいくの?」
「あのな……オレは魔法省からわざわざここまで来てたんだよ。研究所の魔法医にときどきルネの健康診断をしてもらわなきゃいけねえから。あとは戻るだけだよ。ああ、でも」
よっこらせと立ち上がりながら。
「なあ、ちょっくら図書塔に寄ってくるからルネを預かっててくれねえか。あそこ人間以外出禁にされてんだ」
「いいけど……図書室なら魔法省にもあるんじゃないの」
「一級魔法師資格試験の関連本は王城の塔にしかねえんだよ」
わたしの視線に、ティモは目をそらして自分の濃緑色の頭に手をやった。
「……国の誇りたる特級魔法師カイに『本物の魔法師』って言ってもらっといて、一生二級のままってわけにはいかねえからな」
「だからメガネも外してるの?」
「まあな。この歪みと向き合わねえと次の段階には進めねえし、それに」
歪んでいてもキレイなものはわかるって知ったからさ。
少し照れたように言って、ティモはきびすを返した。「先に魔法師カイが来たら研究所に預けといてくれればいいから」なんて言葉を残して……。
わたしのそばにはネズミと物思いに沈む秋だけが残された。
ガラクタの魔法鳥がいびつに鳴いて。
黄金の木漏れ日の中でふたたび歌おうかと唇を開いたわたしは、ちょろりと腕の中から逃げ出したルネに気を取られた。よてよてとネズミは木陰に置かれた本に近づいていく。
「あ、ルネだめよ、これは大切なものなんだから。前の手紙みたいにされちゃ……」
「──手紙?」
チウと鳴くネズミを両手で捕獲したわたしは、突然のその声に目を見開いて振り向いた。秋の繊細な陽だまりに立っていたのは見間違えようもない、深い紺のローブをまとったうつくしい魔法使い。
「カイさま」
「そのネズミになにかされたの? “百目の鼠”は紙を与えると寝床を作りはじめるよ」
選んでくれたドレスと同じ色の瞳を持つ恋人は、柔らかな表情で当たり前のようにわたしのかたわらに腰をおろす。
どうしたの、テア?
そういえば未だにこれを話す機会を逃していたことを思い出して、わたしはどきりとした。けれど、顔をそっと覗き込んでくるカイさまの心配そうな表情に、話すことを決めて。
「じつは……」
夏がくる前、雨上がりに書き送り、ルネとティモを呼び寄せた手紙。それはあの時においてはある種の裏切りであり罪であり、これは懺悔にも似た告白であったはずだが、わたしはひとつの季節が過ぎたあとには、おこなったことそれ自体の意味も、それに対する自分の気持ちも変わっていることに気が付いた。
聞き終えたカイさまも、ただ首をかたむけて「ああ、そういえばそんなこともあったね」と言っただけ。そうだったんだ。
「お怒りになりますか?」
「ううん……きみがそう望むならね」
わたしたちの間の一日ひとつの“望み”の約束は、ここ最近はあってないようなものになっていた。たぶん──ようやく、なくてもよくなってきた。
だからわたしはなにも言わず、ルネを抱え直して片手をカイさまの手に伸ばした。お互いの手が絡み合うのと同時に、ことんと彼の頭がわたしの肩に落ちてくる。ぼくを愛している? と、不安げなかすかな声が聞いてきて。わたしはほほえんだ。
「愛しています」
幸福な笑顔の気配。人形のものでも、鏡写しのものでもない、カイさまのもっとも本当で極上の、宝物のほほえみ。
つないだ手がそっと持ち上げられて、やさしく甘く唇が落とされる。彼の瞳の奥には確かに光が灯り……。
どこかで風がはらはら枯れ葉を振り落とす音がしていた。
季節は秋で、冷たい冬に向かって時間は流れ続けている。
けれど、ふたりで共に越す冬があたたかいことも、その先に来る春が素晴らしいことも、わたしはもう理解していた。
理解していたから……
わたしたちはただ寄り添ったまま、だまって秋の庭園を眺めていたのだった。
《終》