14. 光満ちて
目を閉じて、とカイさまがわたしに言ったのは玄関扉を出たばかりのときだった。わたしは言われるままにカイさまの手を握ったまま目を閉じ、つむじに落ちる不思議な呪文に聞き入った。美しい唇が紡ぐ神秘的なまでの音の連なり。
一瞬、周囲で風が渦巻いたような気がして。
すべてが変わった。
「目を開けてご覧、テア」
目を閉じていてもわかったほどの明るい世界。見回せば、いかなる魔も浄化しつくしそうなほど眩い陽光が満ちていた。青空の下、緑の木々に降った光は木漏れ日となってふるい落とされる。
耳に触れるのは後方をさらさらと流れ行く耳に心地よい清流の音。そして。
「……テア?」
よく通る聞き慣れた声がした。
カイさまの言った「客人」は、館の玄関扉の前ではなく、もはや見慣れた境界の川の向こう側にいたのだ。カイさまの作った囲いの果て。猟師姿の訪問者。濃緑の髪の魔法使い。
わたしは目を見開いた。
小柄なことを気にしていつもごまかすように座っていた相手が珍しく立っていたからでも、いつでも野放しのネズミを抱えていたからでもない。
「ティモ」
それがわたしが聞いていた訪問者の名前とはまるきり違うものだったためだ。それに、この友人は今日は来ないと言っていたのではなかったか。今日は……客人が来るから。
わたしはカイさまの手を離して川のふちまで駆け寄った。カイさまに告げられた名を口にする。
「ヘレーネさまと来たの、ティモ? どうして。ヘレーネさまは」
「さァな。あたりを見に行くとか言ってたが……柵に隙間がないかでも確認しに行ったんだろ。見えもしねえのに」
目の前に並んでいるらしい魔法の柵を焦がれるように下から上まで眺めたティモは、「そんなことより」とふっとまとう雰囲気を変えて、遮光メガネ越しにまっすぐにわたしを見た。
「やっぱりアンタ、テアだったんだな」
「え? あ」
わたしはようやくわたしのことを「アンタ」としか呼ばないこの友人に自分が偽名を名乗っていたことを思い出した。
「ええ、そうよ。ごめんなさい……」
「べつに謝ることはねえよ。アンタはいつもあるじサマのことを考えていたもんな」
「いつから知ってたの」
「ずっと知ってたワケじゃねえ。疑ったこともななかったって言えば嘘になるがよ、上司からの連絡で知った……ってことになんのか。確信を持ったのは今さっきだ」
さっき、わたしが呼びかけに反応したから。あるいは、聞こえたのならば、カイさまがわたしをそう呼んだから。
「悪い、アンタのことを書いて上司に連絡した。アンタも、ここの魔法師も不審すぎたから。なにか情報があるんじゃねえかと。で、上司はアンタがテアだろうと返してきたんだ」
罪の意識を持つのなら騙していたわたしであるべきなのに、ティモのほうが罪悪感に満ちた顔で濃緑の髪をくしゃりと混ぜた。
「上司はアンタは操られてるんじゃないかと言ってきた。表面から見えないところに糸がかかってるんじゃねえかと」
オレの上司は魔法なんか見えねえひとだからどこまで分かって言ってんのかわかんねえけどよ、と前置きをして。
「たしかに、傀儡魔法なんかの直接思考を支配する魔法は表面から見えねえことが多い。そういうものはすべて禁忌だが、アンタのあるじサマが魔法師カイなら扱えるのではないかと上司は書いていた。オレもそこは同意見だ。ただ……アンタはやっぱり操られてるようには思えねえけど」
どういうこと、と顔をしかめたわたしに答えが返る前に、どこかで「あ」という声がした。ふっとティモが顔をそらす。つられるようにその視線をたどれば、慣れない者には歩くのもひと苦労であろう足場の悪い中かけてくるほっそりとした姿が見えて。
ああ戻ってきたな、とティモがつぶやく。
「どういうことなのかはオレにもわからねえが……これから明らかになるはずだ。で、言わねえのも公平じゃねえだろうから言っとく」
強い視線がわたしのもとに戻り、彼女がたどり着く前に伝えきろうとするように対岸の魔法使いは早口で告げた。
「──オレの上司はバナ伯爵パウル。あのヘレーネとかいうお姫サンは上司の話を聞いて、上司の代わりにここまで確かめに来たそうだ」
え、と問い返したわたしの後方にティモが素早く一礼して横にずれる。
今までティモのいた場所までたどり着いた女性は、アーモンドの花を大切に梳いてこしらえたような、とても見事な髪を風に乱したまま、荒れた呼吸を整えて、わずかに唇をほころばせた。
「テアさん……よくご無事で」
リィンと鳴る鈴のような声音だった。質素な旅装であっても場違いに感じるほどに麗しいひと。
「ヘレーネさま……」
呼んで、わたしは続けるべき言葉に悩んで口をつぐんだ。そんなわたしの様子にヘレーネさまも困ったように眉を下げる。
そうすると──華やかな花園には溶け込み、学園や神に見捨てられし地ですら輝いていた彼女は、この森では合わぬ土に強引に植え替えられた花のように見え、薄氷のように頼りなげで、初めて会った少女のころを思わせた。
いや……彼女の純粋な親愛と信頼と安堵に満ちた瞳。ヘレーネさまの本質はあのころからなにも変わっていないのかもしれなかった。
──ひとりぼっちだった悲しい女の子。
わたしはすぐ前方が川だということを忘れて無意識に足を踏み出しかけた。止めたのは、後ろから腰に巻き付いた一本の腕。
「危ないよ、テア」
目の前の川よりも温度の低い、雪解け水でつくられたばかりの清流の声。引き寄せられ、となりに立たされて。いつの間にここまで来ていたのかと見上げた。腰にはまだ彼の片腕が回されていたが、彼の視線はわたしに向いてはいなかった。
「やあヘレーネ……」
大きな石だらけの川ぶちを大貴族の庭園であるかと錯覚させるように、カイさまは許嫁に向けてひどく上品に悠然と笑った。
美しい美しい、ふっくりとした人形の笑み。
「ぼくがいるのに、テアが無事じゃないはずはないよ」
「カイ、さま」
ヘレーネさまの声と肩が怯えたように震えて、わたしはようやくどうしてこの久々に見た彼の仮面のごとき笑みがこんなに人形のごとく、つくりものめいて見えるのか理解した。
──すべてに対する無関心。何も映す気のない目と、どんなに世界に愛されようと憎まれようと返すだけの心など持ち合わせていないと、すべては無意味だと示すかのような彫刻の唇。
光に満ちる森の中で背筋が冷えるほどの夜の気配を連れて、彼は確かにティモの表現する力ある魔法使いのように見えた。あるいは古の魔王のように。魔に、ただひとつのモノのみに耽溺せし定め持つ者……。
ついてきていたらしい黒蝶がふわりと彼のローブに止まった。
「……魔法師カイ」
黙り込んだヘレーネさまに埒が明かないとでも思ったのか、代わるようにかたい表情のティモが一歩前に出た。カイさまが優雅にほんの少しだけ首をかたむける。青みがかった黒髪が揺れた。
「ラース家のティモだね。ごくろうさま」
「オレのこと……ご存知だったんですか」
「名前と能力だけは、もともと。数少ない本物の魔法師だからね」
「恐縮です」
堅苦しく頭を下げたティモにカイさまは人形の笑みをそのままに「それにぼくを捜し回っている人間のことは把握している」と静かに続ける。きらきら光を反射して流れ行く水そのままに。
「正解にたどり着くことがあるならばきみだろうとも思っていたよ。きみに“百目の鼠”をつけて送り出したきみの上司の判断は正しい。何を頼りにここまで来たのかは知らないけれど」
一瞬、ティモの目がわたしに向けられた気がした。チウと、その腕の中でルネが鳴く。ネズミのルネがたどってきたのは『魔法師カイの使用人が出した両親への手紙の燃えカス』に残されたわたしの気配で。伝えてないのかと。
ティモは言わなかった。
「……機密事項です。お迎えに上がりました」
「迎え、ね。それにしては、ここを見つけてから結構経っているようだけど? テアとずいぶん仲良くなって」
痛いところを突かれたティモが一瞬顔をしかめる。腰にかかったままのカイさまの手がかすかに動いてスカートを歪ませた。
「確かに、気が付かなかったのはオレの未熟さ故です。ですが探知魔法の腕だけは信じていただいても良いのではないかと。……先ほどの話を聞いていらしたならおわかりでしょう。とりあえず念のためにあなたの使用人を調べることをお許し願えますか」
「使用人じゃないよ」
清流の声でカイさまが否定する。
ならば何かは言わないままで。
「ぼくはテアに魔法なんてかけないけれど……。もしもぼくが傀儡の魔糸を操ったということになったら、罪人として帰ることになるのかな」
「禁忌に触れますから。調べるだけはさせてください」
「そう……」
それでもね、とカイさまは表情を変えずにおだやかに言った。ぼくに許可を求めるというなら、答えはひとつだけだよ。
「いかなる魔法もテアにかけることは許さない」




