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魔法使いと鳥かごの花  作者: 水月 裏々
○ テア ──なにひとつ知らず──
3/32

3. 姉がわり

 わたしを青の庭園から連れ出した小さな少年は、わたしの手を引いて緑の中を駆け抜けて行った。いくつもの木々と花々がわたしたちを見送る。


 ラベンダー、マーガレット、チューリップ……。


 風は甘い香りを含んでいた。ときおりわたしのことを振り返りながら走っていた男の子がようやく立ち止まったのは、お屋敷の前。

 わたしは目の前で開かれていく扉をぽかんとして見つめていた。これまでこの中に入れるなんて思ってみたことはない。重たげな扉には最新の魔法がかかっていて、彼が近付くだけでたやすく開いた。


「はやく、こっちだよ、おねえさん」


 少年は開いた扉の向こうにぐんぐん進んでいく。彼の手はわたしの手を握ったままだったから、わたしもどんどんお屋敷の中に入っていくことになった。


 じゅうたん、大階段、壁にかかる数々の肖像画、シャンデリア……。


 どこをどう歩いたのか忘れてしまうほど、きらびやかで美しい、夢のようなお屋敷の中。使用人たちのうち幾人かがわたしたちに気付いたが、お坊ちゃまを止めようとする者は誰ひとりしなかった。

 たどり着いたのは、小さな彼が遊ぶためだけにある大きな子ども部屋だった。おもちゃだらけの部屋におどろいてベッドはどこにあるのと聞いたら、寝るのにはそれ専用の部屋があることを教えられる。


「どうして?」

「たぶん、この部屋にベッドまであったら、オリだってことがあからさまにな感じになってしまうんだよ」


 わたしがこの美しい年下の少年についていちばん驚いていたことは、彼が自分自身で物事を見、考え、判断していることが感じ取れることだった。彼の思考や言葉の裏には親や他人のただの受け売りといった点がまるでなかった。

 彼は出会ったときからわたしには理解しづらい難解なことをちょくちょくしゃべったが、それらはいつでも彼自身が自分の頭で導き出した答えで、言葉なのだ。自分で理解して納得できていないことを彼は決して口にしなかったから。彼に出会ってからのわたしには、時折頭に残っている彼の発言を思い返しては反芻するというクセがついた。

 べつに難解に感じないことも小さな男の子は色々と言ったが、ふたつも年上のわたしがその真意を知るのには──永遠にわからないようなものを除いては、だが──数時間や数日や数ヶ月、ときには数年かかることもあったのだ。


「それ、どういうこと? ええと……」

「カイだよ。ぼくはカイ。わからないことがあったら考えてみるといいよ。ぼくはいつもそうするんだ。そのほうが楽しいから」

「でも、あなたが考えたってわかんないこともあるでしょ。たとえば、ええと、わたしの名前とか」


 カイさまの心底からの──社交辞令的に浮かべる笑みとは違う──こぼれるような満面の笑顔はまた、ほんの時たまふいに現れるもので、現れるたびにわたしは心をわしづかみにされた。その一番はじめがこのときである。


「教えてくれるの?」

「あ……テア」

「テア」


 箱の奥に大切に大切にしまいこんでいる宝物を少しだけ見せてくれたような、雲間からつかの間現れ出た太陽のような、一瞬の笑顔。無垢でまぶしくて、どこまでも嬉しそうで、守ってあげずにはいられないような、本当にかわいらしい笑みだった。

 だからたぶん、わたしはその時すでに決めてしまっていたのだ。

 次の日家にやってきた侯爵家の使用人頭が、両親に(わたし)を「坊ちゃま」の遊び相手として雇いたいと申し入れたとき、すぐにわたし自身が了承したのは、そういうわけ。

 けれどカイ坊ちゃまは、用意してもらった可愛らしいエプロンドレスを着て、使用人頭のあとについて現れたわたしと握手したあと、こっそりと眉を曇らせて言ったのだ。


「でもテア、ぼくはきみにそんなことをさせたいわけではないんだよ」




 使用人頭はわたしに、坊ちゃまはお寂しいのですと言った。お姉さまを亡くされて、その代わりを求めていらっしゃるのだと。

 夕食時にはじめてお会いした──ここのご家族は他の貴族家よりかなり親子が顔を合わせる時間が長いのだと聞いた──侯爵夫人は末息子の小さな体をぎゅっと抱きしめ、少女のように大きなうるみがちの瞳でわたしを見つめて、この子をよろしくお願いしますと言った。


「この子はとても優しくて賢くて良い子ですけれど……いつも寂しい思いをしているのです。平気なふりをしていますけれど、わたくしにはわかります。……あの子が……いなくなってしまったから……」


 片眼鏡の似合う背の高い侯爵も、優しい目でわたしを見下ろして年齢をたずね、あの子よりひとつ上か、とつぶやいた。


「カイがきみをそばに置きたいと言ったときは驚いたよ。どちらかというと他人を寄せ付けないような子だからね。だが……そう、やはり妻の言うように寂しいのだろう……当然のことだ。どうかこの子の良き側仕えになってやってくれたまえ」


 侯爵夫妻は間違いなく末息子を愛していた。ありとあらゆるオモチャ、たくさんの子守、おいしい食事……幼いカイさまが欲しがって手に入らない物などないくらいだった。

 お屋敷には多くの人がおり、カイさまの周りはそのすべての人々の愛情にあふれていた。でも、この大きな屋敷には庭園に降り注ぐほどの陽光は入らない。高価な家具や調度品は、かえって生活する人々の心の穴の暗さを際立たせているようにも思えた。


「悲しいお屋敷……」


 ふとそうつぶやいた私を、カイさまは外にいるときよりも深い色合いに見える瞳で見つめ、やがて無言でうなずいた。


 ──宵闇の侯爵邸。お屋敷の太陽たる令嬢は既に亡く。


 ふたりきりでないときのカイさまはいつも、まさに誰もが言うように「綺麗で品が良くて、つくりものみたいなお坊ちゃま」だった。薄暗い森の中、かすかに陽光を反射して一定に流れゆく清らかな水を思わせる少年。

 唇には人形が浮かべるのと同じたぐいの柔らかな笑みを浮かべ、慈愛に満ちて、周囲のものを癒やして小さな希望を灯し、それでいてただ流れ続けていくだけの小川と同じ……。


 わたしたち、つまりわたしとカイさまは沈黙を好んだ。


 毎日学校が終わるとわたしはすぐにカイさまのもとへ向かい、様々な遊びをしたり散歩をしたりしたが、学校の子どもたちがしているようにはしゃいだり、大きな声をだしたりするようなことは決してしなかった。うつろな闇に沈む屋敷と人々ゆえではない。


「ごらんよ、テア。渡り鳥だよ」


 わたしは見た。お屋敷の窓は優美極まりない鳥かごに似た意匠だつたが、中にいるのは人間のほうで、より自由なのは鳥のほうだった。

 鳥が──彼が指し示したものが視界から去ったあと、わたしはカイさまを見下ろす。カイさまはもう少し早く、まるで「わかるでしょう?」というような瞳でわたしを見上げている。そして、わたしの明るい色合いの瞳に踊る自身と同じ光を見て、満足気に目を細めるのだ。

 世界の美しさについて語るときは、しばしば言葉というのは障害にしかならないものであり、わたしたちが好んだのは、そのような雄弁な沈黙だった。

 だから無論、沈黙のうちに交わすべき話題がないときには、わたしたちは言葉を使用しての会話も積極的におこなった。わたしたちがむやみに大声を出さなかったのは、たんにそれによって聞き逃したり見逃したりする美しい物事が多いことをさとっていたからに他ならない。


「きみの声はきれいだね、テア。瞳と同じ透き通った空と澄んだ水晶みたいな空気そのものだ」


 わたしは時々カイさまに請われて歌いもした。それは必ず庭でのことで、わたしは屋外でしか歌いたくなかった。カイさまはそれでかまわないと言った。わたしの歌は光にとけるものだからと。

 お屋敷の人々はわたしとカイさまを姉弟のようだと言った──そして誰もが「でも、やっぱりお嬢さまとは全然違う」と付け足した──が、わたしは誰に言われずとも、カイさまの姉の代用品になるには自分に多くのものが足りないことがわかっていた。

 亡きお嬢様は光で、太陽そのもので、それをなくした人々はただ闇の中を永遠に失いしものを求めて手探りで──わたしじゃ、たりない──進んでいくしかない。

 カイさまは小間使いの仕事をするわたしに言う。


「ねえテア、ぼくはきみにそんなことをさせたいわけではないんだよ」


 わたしは答える。カイさまが用意した服や宝飾品や、人形や諸々の価値ある美しいものを見下ろして、途方に暮れて。


「でもカイさま、わたしは貴族のお姫さまみたいにはなれないし、可能なかぎりなるべきではないんです」


 何度も何度も繰り返される会話。カイさまはことあるごとにわたしを自分と同じ階級の少女のように──つまりお姉さまのように──あつかおうとしたが、わたしはどうしたって庭師の娘以上のものにはなれなかったし、なろうとも思えなかった。──だって、そんなのはきっとみじめなことでしょう?

 だからわたしはいつでも自分自身がふさわしいと思う格好をして、ふさわしいと思うことをやった。誇りすら持って。


 そして二年が過ぎ……カイさまはご自身の運命を見つけた。

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