13. 外側へ
森はいつも美しかったが、それは空や水と同じく毎秒ごとにゆるゆると変化していくという極上の性質を持つものであり、永遠に見ていても飽きないたぐいの美だった。
差し込んだ陽光を散らすほの青い朝靄に包まれ、翡翠に香る朝と、緑に満たされ、風と光の踊る昼……。
「よいしょっと……ふう」
誘うように魅力を振りまく午前の森と窓一枚を隔てた食事室で、わたしは簡単な荷造りをしていた。
ここで目覚めた日に持ってきたものなど当然ながら何もなかったが、持っていきたいものはいくらかあったから。
「それはなに、テア?」
「香り袋ですよ、カイさま。夏のはじめに作ったんです」
「じゃあそっちは?」
「ええと……ああ、これは……」
持っていくつもりでテーブルに広げられたわたしの荷物たちを、そっと後ろから覗き込んで、カイさまが不思議そうに聞いていく。今日のカイさまはわたしが起こしに行く前に起きて来て、とことこと幼子のようにずっとわたしのあとをついて回っていた。
「その箱は?」
「ビスケットです。カイさまにと思って焼いたんですけど、ちょっと焦がしてしまったので差し上げられません」
「どうして?」
「こういうものはわたしのオヤツにするんですよ」
「でもテア、昨日のトーストも焦げていたのに」
わたしは押し黙った。カイさまが首をかしげる気配。
「おいしかったよ、テア。だから……」
「だめです。差し上げません」
「でもテア」
「でももだってもありません。焦げているのは体に悪いんですから、絶対にいけません」
「今日のぶんの望みでも……?」
わたしは振り向いて、すぐ近くにあった白皙の美貌を見上げた。
彼がまとっているのは、禁忌の森以来久々に袖を通された、魔法使いの黒でも瞳に映える蒼でもない、最高魔法師の濃紺のローブ。服に溶け込ませるように美しき魔法使いは今日も黒蝶を連れていた。
「そんなに召し上がりたいんですか?」
「……いや、やめておこうかな。今日望むべきことは他にもある気がする。きみは?」
一日ひとつずつ望みを言い合う約束。考えてみれば、すでに自分の意思をお互い口にして、少しずつ譲り合っているのに、「望み」なんて言葉に固執してるなんて馬鹿らしいとも思うけれど。
「わたしも考え中ですよ。カイさまはわたしに望んでほしいことはありますか?」
「自らの望みすらもぼくで染めようなんて思っては欲しくないよ、テア」
わたしは彼の頬に手を伸ばす。彼は身をかがめ、従順に目を閉じて受け入れた。なめらかで冷たい肌。
「カイさま」
呼ばれた名に上げられたまつ毛の奥には陽光を待ち焦がれる森のように明るく鮮やかな色合いなのに、暗く昏く、無垢な水のごとく澄んだ瞳。とてもきれいで、とても悲しい目。
彼が魔法使いにとっての狂気を抱いて、光への渇望で生きているなら、それでいい。
わたしが「そばにいる」言ったその意味を信じてくれなくてもいい。わたしだけが信じて、彼の願いそのままにそばにいればいいだけだから。
──でも、この、わたしと過ごす今すらを、現実を信じず、それでも良いかと刹那的な光だけを映し、未来を諦めているような瞳だけはいや。
「カイさまは、わたしがカイさまの作った檻やかごや囲いの中でカイさまにどっぷりで……それを望んでいらっしゃるのに……ご自分のためにわたしが壊れてしまったりするのではないかと案じていらっしゃるのですよね」
想いを返されて裏切られるのが怖いのではない、このひとは自分が負うであろう傷に対して怯えるひとでないから。『ぼくにとっての光はきみしかないから』──彼が怖いのは、いつでもわたしが傷付くことなのだと、その瞳を見て実感する。
大丈夫ですよ、なんて安易に言うことはできないけれど。
彼はわたしの想いは空を知らぬままかごに閉じ込められた小鳥が、閉じ込めたヒトに対して抱くある種の自己防衛的な愛情だと思っている。選択肢がないが故の愛。
──それもひとつの真実とは彼は考えないのだ。
信じぬことで、自らの感情も押し込めているのではないかと思う。それを本物だと思い込んで自らの気持ちを押し付ければ、ニセモノのほうは砕け散るしかないからと。
かごの中でさえずるだけの小鳥。そう、確かにわたしは真実彼に関すること以外に、まともな関心を抱くことができない人間だった。彼のそばで、そのように育ってしまった。
だからこそのこの瞳……。
「……なら、わたしは他の人たちとの交流を持っていたい。両親や、侯爵様や奥様や心配してくださっている方々と話したい。ヘレーネさまとパウルさまにもお会いしたい」
それでどんなに世界が広かろうが、カイさまのおそばにいるのだと証明してあげたい。
至近距離で青緑の双眸がわたしを映している。その瞳から諦めや悲しみを取り除いてあげたい。そうなったことひとを見てみたい、と思った。どんなふうにわたしを見てくれるのか。
「それが、きみが帰りたいと望んだ理由?」
「……はい」
言うべきことを言い切ってしまって頬から離そうとしたところを絡め取られ、手首に唇を寄せられる。優雅で、どこにも乱暴なところのない手付き。けれど口付けの代わりのように触れた吐息は熱く、ぞくりとした。
カイさまのローブに止まっていた黒蝶が飛び立ってわたしたちの周囲を舞う。
「きみは結局いつも自分で考えて選ぶね。どんなに選択肢を狭めて、閉じ込めても、きみは結局ぼくの欲望とは別の道を選んでくれる」
「いけませんか?」
「ううん……嬉しいよ。ただ少し、まぶしいだけ」
光を遮るようにふたたび伏せられた目。甘えるように手のひらに頬が擦り寄せられる。そのまつ毛の美しさに、肌の感覚に、耐えられなくなったわたしは彼を止めようと声を出した。
「っカイさま」
「ん……なあに、テア」
「昼食の時間までに荷造りをしてしまいたいんです」
今朝、荷造りを始める前に移動にどのくらいかかるのかと聞けば、カイさまは「すぐだよ」と言った。ここがどこなのかを問えば、王都や侯爵領のどこへ戻るにもとても遠い地であることしかわからない異国の地名を教えられたのに。
でも、あの崩壊の日、わたしがそう何日も気絶していたわけもないので、このひとはたぶん瞬きのうちに千里を行くすべも、呪文ひとつで廃屋を美しい館に作り変えるすべも持っているのだろう。この館をひとりで準備し、家具もランプもペンも衣服もすべて用意しておいてくれたカイさま。
「カイさまは持っていかれるものはないのですか?」
「さあ……特にないかな」
「でもわたしはこれをカバンに詰め込みたいんです」
「……わかったよ、テア」
さり気なく抜き取ろうと見え見えの努力をするわたしの手を、カイさまは名残惜しげに離した。代わりのようにひらひらと舞っていた魔法じかけの蝶を長い指に止まらせる。
わたしはテーブルの上に体を向け直して荷造りを再開した。館にあった一番大きなカバンに次々ものを詰めていく。
「そういえばカイさま、どこに行くことにしましょうね」
「……そうだね、とりあえず王都のつもりだったけれど……」
だったけれど。彼のいつも通りのようにも思える声のどこかに違和感を感じたわたしは手を止めた。振り向く前に彼が「テア」とわたしの名を呼ぶ。ひんやりとした清流の声で。
「客人だよ」
玄関扉のたたき金の音も聞こえず、館への客人の心当たりもなく、どなたですかと聞いたわたしに彼は訪問者の名を告げた。
「会いたい、テア?」
どうする、と白い手が差し出される。きみが決めればいいよと。黒蝶が先導するように扉に向かってふたたび飛び立ち。
わたしはしばしの逡巡のあと、こくりとうなずいてカイさまの手を取った。




