11. 戸惑い
その日、わたしは初めてカイさまと同じテーブルについて食事をすることになった。カイさまがわたしに一緒に食べてほしいと望んだから。
「かまわないでしょう、テア?」
「……ええ、カイさま。でも」
わたしは困りきってカイさまを見つめた。彼はどこか生き生きとした様子で鍋をかき混ぜている。……夕食のシチューの。
彼がみずから動いているのだけは確かだが、なぜこんな状況になっているのか、考えてもわたしにはさっぱりわからない。
「そんなことなさらなくていいんですよ」
「でも、混ぜないと焦げるって本に書いてあったよ」
「それはそうですけど、そういうことではなくて……。高貴な方はそんなことなさるものじゃないんです」
「血筋にこだわって怠惰になるのは、それに伴う責任を果たしているときだけでいいんだよ。でも……きみが気になるというのなら……」
木べらを持つ白い手が止まった。
「そうだな……テーブルの準備ならいい?」
「いえ……」
わたしは表情の選択に迷った。
「あの、カイさま」
「なあに、テア」
「どうして突然こんなことを」
カイさまは無邪気にすら見える澄んだ瞳できょとんとわたしを見つめた。明かりのもとにいるせいか彼がまとっていた闇の気配はすでに──隠され──どこにもない。
「ぼくの望みを叶えてもらうのだから、そのぶんきみの役に立とうと思ったんだけど……いけない?」
「いけません。カイさまに手伝わせるなんて心臓に悪すぎて、わたしは気が気じゃなくなってしまいます。わたしのことを考えてくださるなら座ってらしてください」
「わかったよ。……でも」
木べらをわたしに手渡すついでのように指先が手に触れた。
「ぼくの望みをひとつ叶える気なら、きみの望みもひとつ言ってほしいな」
「え」
「きみだけが望みを叶えるなんて不公平だよ、テア」
話しながら短い詠唱ですかさず火加減を調整しているあたりは魔法の実験慣れなのだろうか。こんな食い下がりかたをするカイさまなんて初めてのわたしはたじろいだ。
「ですけど、これまでわたしの望みは色々叶えていただきましたし……そう、そのぶんを取り返さないことこそ不公平なのではないでしょうか」
「ぼくにだけ言わせる気なの、テア?」
ゆるくかしげられる首。わたしはいつも彼が飲み込んでいたぶんの言葉の量を思った。わたしは確かに考えていることを教えて欲しいと言ったけれど……。
実際に実行されると、表情も声音も同じであるのにかかわらず、こんなに何かが変わって見えるほどだったとは思わなかった。
「カイさま……」
どきりとするような目の表情にわたしは何も言えなくなってしまいそうになった。うったえかけるような美しい青緑の瞳。しかしこのような場面でただ従順に流されるように従ってしまうことこそ、彼の望むことではないと思い直す。
「わかりました。あとで話し合いましょう、カイさま。ですから今はあちらで座ってらしてください。考えておきますから」
「うん、ありがとう」
話し合うという単語か、考えておくという単語か、はたまたべつの何かか、とにかくわたしの返事の何かが気に入ったらしく、カイさまは表情を和らげ、こくりとうなずいた。
「それならぼくはおとなしく待っているよ、テア」
髪にひとつ口付けを落として。猫のようにするりと優雅に食事室へと出ていったカイさまは、それきり台所には戻ってこなかった。
だから、彼が言葉通りおとなしく待っていてくれたのをわたしが知ったのは、もう少ししてからのことだ。
レースのついた純白のテーブルクロス
金に縁取られとろりとした乳白色の皿
繊細な細工の施された金のカトラリー……
テーブルに置かれたガラスの花瓶では名のわからぬ森の草花が白と黄だけでなく、緑の彩りをも添えている。だが、食事室の主役は白でも金でも緑でもなかった。
──カイさまは食事室のいつもの場所に座り、動き回るわたしを元気で愛らしい小鳥でも見るかのように眺めていた。
わたしがそばにいようと決めた、ただひとりのひと。
青みがかった黒髪、青でも緑でもなく、同時にどちらでもある瞳、輝きにより主張するのではなく、自然と目が惹きつけられて離せなくなるような美貌……。蒼色のローブには飾りのように魔法仕掛けの黒蝶が止まっている。
ひとつの完成された絵画のようにそこに在る魔法使いは、ふたり分の食事の準備を終えたわたしが、ためらいながらリボンをほどいてエプロンを外すのを嬉しげに見守っている。
カイさまはわたしがおそるおそる向かい側の席に腰を下ろすと、ほのかだが、いかなる影もない笑みすら見せた。
「きみと一緒に食事ができるのが、どれほど嬉しいかわかる?」
彼が言ったのはそれだけで、わたしに答えを求めることもしなかったが、食べ始めたとき、わたしは彼が真実どれほどわたしがここにいるのを喜んでいたのかを知った。
「……カイさま」
「なあに、テア」
清らかな声。それを聞いて、わたしは、このひとは言葉ではなく目でものを語るのだということを実感した。
なめらかな手付きでかすかな音も立てずに食事を口に運びながら、彼はときどきわたしを見ていた。なんともたとえようのない、その瞳。漆黒の夜の中で月を、あるいは唯一無二の星を、旅の道しるべを見つけた人のよう……。
「お話をしましょう」
視線にさらされ続けるのに耐えきれず言えば、カイさまは「いいよ」と光を映した瞳でうなずいた。
「きみの望みの話?」
「カイさまの望みの話です」
「ぼくの……?」
「ええ」
「今叶っているよ」
わたしの輪郭をなぞる視線に、実際に触れられているような気さえして、身じろがずにはいられない。
「そうかもしれませんけれど……でも、他にもたくさんあるのでしょう?」
「ん……そうだね」
ふせられた長いまつ毛にわずかに陰るふたつの目。
「でもテア、言ったでしょう。ぼくはぼくの望みできみを窒息させたりなんかしたくない。きみの望みを叶えていたんだ」
「でもわたしもカイさまのお望みになることを叶えたいんです」
先ほどから、わたしたちの会話は「でも」ばかりだ。わたしたちの間には、十年以上の間置きっぱなしにしてしまっていた数え切れないほどのものが積み上がって、お互いに知らないことばかりで、すり合わせないといけないことがたくさんあるみたいに。
「でもテア……ぼくはきみがいてくれるだけでいいんだよ」
でも。わたしはもどかしかった。彼のその言葉の背後にあるのが深い悲しみか、諦めのような気がして。
「わたしだって、カイさまのおそばにいたいだけです。それに……さっきも言いましたよ。カイさまは今までもたくさんわたしの望みを聞いてくださったって」
「ううん」
カイさまはがんぜない子供のように首を横に振った。
「それじゃ、足りない。きみの細々とした望みなんて、望みのうちにも入らなようなものばかりだよ。きみは家事は全部できるし、ぼくの世話を焼いてくれて、歌ってくれて、ぼくにしてあげられることなんて全然ない」
「まあ……」
わたしは皿の上の肉にナイフを入れながら、少し笑った。わたしが彼のために何かをしたいと望むように、彼もわたしに何かをしたいと望んでいたから。
「でも、このの野ウサギはカイさまが仕留めておいて下さったものですよ」
「でもこの野菜はきみが育てたものだし、料理をしたのきみなのに」
「……カイさま」
実はずっと言うべきか悩んでいた言葉をわたしは結局言ってしまった。わかりきっていることでもあるけれど。
「わたしはこれでお給料をいただいてるんです」
当たり前のこと。なのに、聞いたカイさまはややとまどったように見えた。深刻な問題にでも行き当たったように眉を曇らせる。
「お給料……」
「そう。月に一度。ここに来てからも、カイさまはくださったでしょう」
「ん……でも、これからも払わなくてはいけない?」
どういうことかと問う前に、わたしは口を閉ざさざるを得なくなった。深くなりすぎる前の夏を閉じ込めた視線がじっとわたしに注がれていて。
「ぼくが使用人のきみなんていらないと言っても、きみはそばにいてくれると言ったよ」
それとも、とカイさまは首をかしげた。ねえ、テア。
「奥さんにもお給料は必要なもの……?」




