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魔法使いと鳥かごの花  作者: 水月 裏々
○ 再びテア ──真実を──
26/32

10. 優しい手

 空は紫紺と緋と黄金だったが、太陽がその指先からこぼした欠片たちによって、森はただ金の色のみにけぶっていた。


 黄昏時──木々が黒き幽鬼のごとく見える時刻。


 境界の川から戻って午後にやるべきことをほとんど終えたわたしは、二階に上がり、廊下の奥、バルコニーへ続く扉を押し開けた。

 実験室の扉にはすでに立入禁止の札はなく、寝室の扉も書斎の扉も何かを隠すように沈黙を保っていたが、わたしはすべてを無視して来た。そんなところに彼がいないことをわかっていたから。


「カイさま」


 いるかどうかも確認せずに呼ぶ。金色みを帯びた風が吹いて、わたしは一瞬目を細めた。風の向こうから「なあに、テア」と声が返る。いつでもそうであるように。


 目を開ければ、この上なく美しい魔法使いの姿が映る。


 カイさまは手すりにもたれてわたしを見ていた。熟しきって落ちゆく太陽を背に両肘を手すりにかけ、表情を影に隠して。片手には魔法仕掛けらしい黒蝶が装飾のように止まっていた。

 どう、話しかけようか迷い……。


「…………日没を……見ておられたのですか?」

「そうだよ。ご覧……地がきみの髪と同じ色に染まる」


 カイさまが言うから、わたしはカイさまの横に並び、手すりに両手を置いて少し背伸びをしてのぞき込むように見た。黒々とした木々が、まるで自らの形を染め抜こうとするかのように影を伸ばす金褐色の地面。地に描かれた鉄格子……。


 わたしはカイさまを見上げた。


 美しいものをわたしに見せるときいつもそうであるように、カイさまは、わたしよりも早くわたしを見下ろしていた。「わかるでしょう」と世界の美しさを語る目、わたしと同じ光を踊らせた瞳だった。まったく同じ……。

 ふいに泣きそうになりながら、わたしは聞いた。


「きれいですか?」


 彼は答えた。うつろで、悲しげな表情だった。


「ううん……あれはきみじゃないからね」


 衝撃は受けなかった。覚悟は決めてあったから。彼の青緑の瞳は影になり、昏く澄み切っていて底知れず、光が差そうと最奥まで届かぬことは明白だった。


「でも、きみの瞳にきれいに映るものを、なるべくきみには見せてあげたいと思うし、共に見たいと思うんだよ。……きみが映す世界が美しいのならば、きみを通して、ぼくにもそのうつくしさがわかる気がするから」

「うつくしいものを、知りたいのですか?」

「さあ……それはもう知っているから。言ったでしょう、テア。ぼくが知りたいのはいつだってきみのことだよ」


 さらさらと流れ行く、誰にも止めることのできぬ清流の声。いくつもの、いくつもの光景がわたしの頭に浮かび、日没のように墜ちていった。


 青い空、鳥かごの窓、渡り鳥、庭園、巡る季節、花々──。


 数え切れぬほどの思い出の中で、ひとりの少年、ひとりの青年が、深く濃くなりすぎる前の青葉が落とした雫色の瞳で「わかるでしょう?」と聞く。……きみには、わかるのでしょう……?

 目前の瞳に浮かぶ光を、自分のもののごとく写し取って。


 ああ、と思った。ああ、わたしは。このひとは、なんて。


 ぼやけた視界の隅で、黒蝶がふわりと飛ぶ。彼が手を伸ばして拭ってくれたから、わたしは自分がついに涙をこぼしてしまったことを知った。


「魔に歪みし瞳……。知ったんだね、テア」


 なんて、かなしい。涙を拭ってくれる指はとても優しく、心からのいたわりがこもり、水のようにひんやりと冷たかった。


 ──カイさま。


 どうして、という言葉はどちらからも出なかった。どうやって知ったのかとも、なぜ知っているのかとも、わたしたちは互いに問うことをしなかった。

 わたしに魔法をかけないと言った彼は、わたしの最近の行動と言動の不審さとその聡明さからのみ答えを導き出したに違いなく、また同時に、わたしが“知った”という事実以外には関心が無いようであったから。


「カイ、さま」

「ん……?」

「あなたの望みを教えてください」


 長いまつげが緩慢に上下する。黒蝶にも似て。


「それが、きみの望み……?」


 そうですと答えれば、彼はゆるく首を傾げた。


「きみがきみのままでいてくれることだけだよ」


 わたしは信じなかった。


「それだけ、ですか?」

「どうして?」

「カイさまは『ぼくはきみにそんなことをさせたいわけではないんだよ』とおっしゃいます。なのに、それじゃ答えになりませんもの」


 じっと見つめれば、淡い色の唇がわずかに開き、一度閉じた。きれいな指がしめった頬をなでてゆく。宝物のように。

 わたしの目からはもう涙など流れていなかったが、彼の手はわたしの頬に触れたままだった。


「カイさま」

「…………きみに畏まられるのは、好きじゃない。同じひとりのひととして見てほしいし、できればずっとそばにいてほしい。あと、まあ、他にも色々あるけれど……」


 日が落ちた。空のほんのりと優しい色があったとしても、それは沈んだ太陽の名残りでしかないことを、わたしはその瞬間に悟った。カイさまの瞳の色が暗さを増したから。

 彼は清流の声音で言った。


「でも、こんなものは全部気に止めなくていい」


 生真面目な口調だった。


「ぼくを知ろうと思ってくれたことは嬉しいけれどね、テア。ぼくはきみにぼくの望み通りの人間になろうとは考えてほしくない」


 いい、テア? と彼は説得するように言葉を紡ぐ。


「すべての選択は君自身が。捻じ曲げられた意思は光を曇らせる」

「カイさまのお望み通りにするのがわたしの望みだとしても?」

「……それは、ほんとうじゃない」


 ぼくは魔法師だと、彼は許されぬ罪のように口にする。この魂は魔に属するものなのだと。


「ぼくのもの思いはきみの清浄さに対して暗すぎる。ぼくにとっての光はきみしかないから、ぼくによってきみが損なわれる何より恐れる」

「でも、知っておくことは大切です。カイさまがなにを考えていらして、なにを望んでいらっしゃるのか、伝えてくださるのなら、どんなことでもわたしは知りたいのです」


 取り戻した記憶が、ヘレーネさまの声がわたしの背を押す。あの必死に発せられた声。あのときはなにも意味がわからなかった言葉たち。


『あなたの心をカイさまに伝えてはいただけませんか』


『でももし、それでも、何があってもカイさまのそばにいようと思ってくださっているのなら、それだけでもどうか今カイさまに伝えてはいただけませんか』


『カイさまを救えるのはあなただけなのです』


 なにから彼を救わねばならないのか、わたしはちゃんとわかっているといえるのだろうか。けれどカイさまが、この綺麗なひとが、光を求めて闇の中でひとりぼっちでもがいているのなら、わたしに救えるのなら。

 真実への道を教えてくれた友人(ティモ)の強い目が脳裏をよぎり、火のようにわたしの心に勇気を灯す。……『アンタのあるじは狂ってる』……べつに狂っていようとかまわない。それがあなたの選択で、それがあなたなのだというのなら。


「お慕いしています。カイさまがいつもわたしの望みを叶えようとしてくださったように、わたしもカイさまの望みを叶えたい。わたしはカイさまが許してくださる限り、おそばにいます」

「テア」

「……本当です。信じてくださらなくても、わたしが自分で信じているからかまいません。だから……どうか、そんなお顔をなさらないでください」


 自らの内部に光を持たぬ暗い瞳。物憂げで、疑わぬ代わりに元より信じず、きっととても多くの感情を沈めて……静謐に凪いだ表情。──『ぼくにとっての光はきみしかないから』

 わたしが自身の頬に触れる手をたどるようにカイさまの顔に腕を伸ばせば、彼はわたしのために身をかがめた。こんなことをしたのは初めてなのに、もう何千回も繰り返しているかのような仕草。冷たい頬に指が触れれば、心地よさげに目が伏せられる。

 そのまま「テア」と名を呼ばれた。


「ぼくはきみが自ら選択して生きる姿を見るのが好きだよ。誰の意のままにもならぬよう生かしてあげたいと思う。……それでこそきみは輝くから。でも……見えないところまで行って欲しくないし、できる限り選択肢を減らしたかったから、ぼくは広々とした、檻に見えぬ檻にきみを閉じ込めた」

「この森のことですか……?」

「ん……今はね……。ぼくはもともと檻の中の愛しか知らないから、閉じ込めることしかできやしない。かごの中を世界だと信じてさえずるきみを哀れだとも思わない」


 彼の手が動いてわたしの手に重なる。絡め取られるように指の間に侵入される感触に、わたしはぞくりと震えた。


「きみからぼく以外の選択肢を奪っていたのはぼくだよ。昔ヘレーネを保護したのも、パウルをヘレーネのもとに追い払ったのも、ぼくのよこしまな意思だ。いつでもきみにはぼくのことを一番に考えていてほしかったから。……それでも……ぼくのそばにいてくれるの?」

「ええ、そうです、カイさま」

「もしぼくが使用人のきみなんていらないと言っても……?」

「ええ」

「そう……」


 カイさまはふいに羽化するように艷やかに笑った。それは初めて見るたぐいの笑みで、捨て鉢にも、開き直っているようにも、諦めているようにも、泣きそうにも見えた。


「テア」


 手を取られたまま空いていた片腕で腰を引き寄せられた。顔を隠すように抱きしめられて、わたしは動けなくなる。美しい声はじかに耳に落ちた。


「本当はね、ぼくはきみという光がどんなに曇ってもいいんだ。それでもきみが光であるという事実は変わらないから。だから怖いのは……きれいなきみがぼくのために壊れてしまったり、ぼくのそばからいなくなってしまうこと」


 愛のささやきそのままに彼は願った。ぼくの望みはやがてきみの望みを潰すだろう、それをきみは許してはいけないよ、テア。


「そばにいて。そして絶対にぼくを許さないでいて……」


 月と星々と、月光に青ざめてゆく森を背に魔法仕掛けの黒蝶が舞う。夜の中。彼のささやきにはただ喜びのみが抜け落ちていた。

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