9. きれいなモノ
『あんた、きれいなんだな』
わたしがティモの発したその言葉の意味を聞いたのは、カイさまに昼食を出しにいったん館に戻った後だった。
わたしは真昼の森を夜を引き連れているような気持ちで戻り、とても不熱心に淡々とサンドイッチを作って、飲み物とともに“立入禁止”の札のかかる実験室の扉の前に置いた。……それから、自分用に切り取ったパンのひと切れを食べて境界の川に戻ってきたのだ。
食事をしたばかりのティモとネズミのルネは別れたときと同じ場所で待っていた。
「…………ねえ、ティモ」
持ってきた野菜の切れ端をルネに食べさせながら声をかければ、器用ではあるものの、行儀悪く膝の上で何かを書き付けていたティモの「ああん?」というガラの悪い返事が返ってくる。
「わかったことを教えてくれない?」
「ああ?」
「わたしの相談で、なにかわかったんでしょ。わたしのことか、あるじのことか、よくわからないけれど」
「あー」
それか、という嫌そうな声。
「ティモ」
「……わぁったよ」
がりがりと面倒くさそうに頭をかきながらも、律儀なティモは手に持っていたペンやら紙やら、下敷き代わりにしていた手帳らしきものやらをすべて荷物の中に押しこみ、わたしに向き直った。
「………………………あー、そうだな……その前によ、アンタとあんたのあるじサマの関係は本気でただの主従だって言ってたよな?」
「……そうよ」
「あるじサマは若いもしくはまだ若いと言える年齢。そうだな?」
「…………」
「おい」
ティモの声に苛立ちが混じる。
「こんくらいは答えろ。何も言ってやらねえぞ」
「……そうよ」
わたしは手の上のネズミを見ていた。ルネはわたしたちの会話に関心を払わず、もぐもぐと野菜を一心に食べ続けている。
「男か?」
「……ええ」
「なら、これからするオレの話は覚悟を持って聞け」
強い声にルネから目を上げれば、遮光メガネ越しのティモの視線は強くわたしに注がれていて、ぞくりとした。対岸の魔法使いは陽光のもとにあって、どこか魔獣めいて見えた。捕食者めいて。
いいか、と魔に親しむ青年は言った。
「アンタはきれいだ。このきれいというのは、特別な意味を持つ」
真実を告げる鐘のような口調だった。
「顔立ちがとかじゃねえ。オレらに容姿の美醜なんて意味がないからな」
ひとつ鳴るごとに心に染み込む闇を晴らすような。
ティモの声はカイさまの比類なく美しく清らかなものは違い、直接投げ込まれるかのように頭と心に響く。
「その人間が持てる魔力の量は生まれる前から決まっている。わざわざ言うやつは少ねえから、これはあまりよく知られたことじゃないが……一級魔法師以上になれる程度に魔力量の多い者は例外なく目が悪い。魔力のある人間というのは昏き魔界の水に絡め取られた魂を持つ者で、魔法師の瞳はその身を侵す魔に歪まされしモノだ」
ティモはそっと遮光メガネの上から片目を覆うような仕草をした。
「オレも……技能が追いつかないが魔力量だけはかなり多いほうだから、目は悪い。悪いというのは視力じゃなくて……そうだな、やっぱ『歪み』か。アンタが見てる景色はオレの肉眼が見る景色と根本的に違う」
盲目のネズミが野菜を食べ終え、手の中で満足気に鳴く。わたしはその背を半分無意識に撫でた。
「オレはこのメガネを通してしか、マトモな世界を見ることができない。魔法が見えるというのはそういうことだ。目の見える二級以下の魔法師の大半は、見せるため以外の魔法を自らの目で見ることができない。しかし“目の悪い”魔法師たちにとっては常人に見えぬ魔の輝きのみが魅惑的なものだ」
オレも長く魔の輝き以外の光を見たことがなかった。ティモは似合わぬ自嘲混じりの声で言う。それが光とも知らなかったが、と。
「ひとは時々“うつくしい”とか“きれい”とかいう言葉を使うが、子供のころのオレにはそれが理解できなかった。耳はマトモだから心地よい音はわかったし、それがウツクシイということもわかった。だが、どんなウツクシイ音を出すものも瞳に映せば醜悪でしかねえ。ひとはそれをもウツクシイと表現しているのに」
魔法使いの瞳。多くの人々に見えぬものを映しているのはわかっていたが、多くの人々が見えるものを映さないとは考えもしなかった。
どういうものが美しいのかは知っていても、それを美しいと感じられるかは別で……。「それで本当に“うつくしい”ということが理解できたと思うか?」とティモが皮肉っぽく唇を歪ませる。
「そしてオレは醜悪なものさえ、それがミニクイとわからなかったんだ。醜美を解さず、正常を知らず、ただ魔に魅入られた。力ある魔法師のヒナは皆同じだ」
幼いころのカイさまを思った。喪失の中、昏き館に囚われた清らかな水を思わせる綺麗な少年。彼も同じだったのだろうか? 共に世界を眺めていたのに。
ティモは遮光メガネ──に見せかけた魔道具なのだろう──のふちに指で触れた。
「でも、これを手に入れて……はじめて“うつくしい”ということを知った。“きれい”も」
正常を見せるらしいメガネのつるを滑るティモの指の動きは、この青年の性格を考えればありえないほどに繊細で、とても大切そうで、すがっているようにすら見えた。──そのメガネをわずかにずらして、鮮やかな黄緑の瞳でティモが微笑う。
「こうすると、アンタもひどく歪む。でもさ、それでも、だからこそ、きれいなことはわかるよ」
綺麗な魔法使いの瞳は微笑と共にすぐにまた色付きガラスの奥に消え、あとにはいつもと同じぶっきらぼうなティモが残った。瞳と同時に心を鎧ったように。
「……アンタは特殊だよ。幼いときに持っていた清浄さを、今なおそのままに持っている……そんな感じがする。姿じゃなくて、中身がきれいなんだ。魔と正反対のものを持ってて、そのぶん瞳には醜く映る」
アンタは特殊だ、とティモは言い聞かせるように言った。
「心惹かれるが、身を蝕む魔がそれを許さず、不必要に嫌悪をもよおすように歪んで瞳に映される。そういう性質を持ってる」
幼い子供の中にゃまれにそんなふうになのがいるが、皆例外なく、成長するにつれてその魂の無垢さを失っていく。アンタの年齢までそんなにきれいなのは普通いない、とティモが語る。
瞳にいくら醜く映ろうとも、その素質に惹かれて子供を引き取った魔法師の記録もいくらかあるが、やはり成長と同時にそのきれいさは失せていったという、と。絶望の記録だ。
「だが、ここの魔法師は成功した。アンタのあるじサマの行動のなにが功を奏していたのかはわからねえが、アンタのそれは変わらずいられるよう、大切に守られていためなんだろうよ」
本人にもそうと悟らせぬほど慎重に柵で囲って。
「アンタはここの魔法師にとって、何よりも大事な存在なんだろう。自分の世界のすべてと言っていいくらい」
「え?」
思わず声がもれた。自分の、世界のすべて?
「アンタのあるじは狂ってるよ」
「……そんなこと」
「ある」
ティモが話し始めてからはじめて口を挟んだわたしへと、向けられる視線は強かった。
「アンタと魔の醜美が反転している。魔が醜いだあ? そんなことを言う魔法師なんざ聞いたこともねえ。オレらには魔のみが全てだ。そういうように定められた存在だからな。なのにアンタのあるじサマとやらは違う。アンタを最高のものとして、反対の魔を醜いものと位置付けている。そういうこったろ? 考えも行動もなにもかも狂気を孕んでるとしか思えねえ 」
「……っ」
何かを言い返そうと思った。そうしなければならないと。違うと。なのに無知なわたしには何も言い返せないのだ。
「歪みをいとうなら、目を閉じて生きればいい。でも魔に馴染んだ、魅入られた者にそんなことはできない。オレはどっちつかずでこんなメガネをかけてるから、ずっと中途半端な力量しかねえ。でも、ここの魔法師は違う。……すべてが違う。どれだけ狂えば、魔を受け入れて自在に操りながらも醜いと言えるほどに誰かを想える?」
カイさま、と思った。泣きたかったのかもしれない。手の中のネズミの体温だけが、わたしの精神を繋ぎ止めるよすがだった。わたしはようやく言葉をかき集めて否定の言葉を口にした。
「でも、あるじには愛している女性がいるわ。子供のころから。わたしじゃない」
わたしはもはや自身の蒙昧にすがっていた。対岸の魔法使いの掲げる真実の光に照らし出されぬままの闇の薄片に。
「──力ある魔法師は人間なんざ愛せない」
ティモは不吉な笑みを見せた。魔獣のごとく哀れで残忍な。
「言っただろ、魔法師の見る世界は醜悪だ。だから魔以外のなににも執着しないし、だいたいが子どものころからほとんど世界に無関心で、何も愛さない」
知りたくない。
「そんな中でアンタを光と定めてるんだ。アンタだけが特別なんだ。他の人間なんてそこらの石ころ以下だろう。誰かを愛してるように見えた? それは」
「いや……」
言わないで。聞きたくない。わかりたくない。でもティモは待ってくれなかった。ティモはカイさまじゃないから。
「それは偽装か気のせいだ」
「でも」
「でもじゃない。どうせその相手とやらに会ったのはアンタの後だろ。──オレは覚悟を持って聞けと言った。最初に止めず聞き始めたんだから最後まで聞け」
現実を見て、向き合えと。
「オレの最近の唯一の話し相手がウジウジしてっとムカつくんだよ。なににそんなに怯えてんだ。知るのが怖いのか? 永遠に今までのままでいられると思ってるのか? アンタはすでに疑問を持っちまったのに」
ムカつくと言っていながら、ティモはキレていなかった。冷静で、深刻で、残酷だった。それがわたしをさらに追い詰める。わかりたくなんてないのに。
「いいか、認めろ。アンタはひとりの魔法師の特別で、唯一で、すべてだ。なんでアンタはそんなに現実を認めるのを拒む」
ずるりと蓋をしたはずの記憶の箱から何かが這い出る気配。
『なぜそれほどまでにカイさまを拒まれるのですか!』
ヘレーネさま。そうだ、これはヘレーネさまが言ったこと。視界がここよりも深く禍々しい森へと逆行する。わたしは彼女を責めてしまった。責められるべきはわたしだったのに。
何も知らず、何も聞かず、守られたままで。
──やめて。
わからせないで。わかるのは怖い。わかってしまったら、それはこれまで生きてきた世界の崩壊なのに。
でももうわたしはわかっていた。どれだけわたしがカイさまに甘えていたか、甘やかされていたか、大切にされていたか。
「向き合って、決めろ」
ティモが言う。朝を告げる鐘のように。自身を守ろうと必死に作り出していた殻がひび割れて、壊れる感覚。耳の奥で『お慕いしているのでしょう』と過去が言う。
「魔法師は狂人だ。すべてを受け入れてなおそばにいることを選ぶか、こばむか。アンタ次第だ」
太陽にも似た強い声。
わたしはまた何も言えなかった。けれど、今回のそれは首肯代わりの沈黙で。ティモは満足したように立ち上がった。
ルネが自らを呼ぶ飼い主の声に手から抜け出して歩きだす。
「明日は客が来るからこない。こばむと決めたなら明後日のいつもの時間にまたここに来い。しかたねえ、連れて行ってやるから」
対岸の友人も手の中のぬくもりも去って。ひとりぼっちになったわたしは、しばらく両手を握りしめ、境界の川を眺めていた。覚悟を決めて川に背を向け、足を踏み出すまで。




