8. 歪んだ瞳
夜がどんなふうに終わろうと、朝はいつも通りにはじまらねばならない。森はいつもと同様に、これまでとこれから、どちらにとっても決して同じではない表情で、朝日をその腕の中に招き入れる。けれど。
わたしの朝は、いつもと同じではなかった。
寝坊をした。掃除が終わらなかった。うなじでくくったまま髪を結い直すのを忘れた。新聞を間違えて買った。パンを焦がした。まとめて落とした皿が一枚も割れず、あらかじめカイさまの防護魔法がかけられていたのだと気付いて落ち込んだ。
──それでも。
カイさまは背に尾のように落ちるわたしの髪を「きれいだね」と褒め、どこの言葉だかわからない新聞を謝罪とともにさしだしたわたしに、複数の言語の読み書きができる彼は「かまわないよ」と言った。
この世で一番美しい青緑の瞳と、静かで清らかで流れゆく水のような印象の声。
彼はいつも通りだった。
わたしは食事室に降りてきて、焦げたパンを極上のパンであるかのように口に運んでいるカイさまの横顔を盗み見て、ひそかに昨夜のことは夢だったのだろうかと思った。
昨日彼の実験室まで運んだ夕食の食器はカイさまが食べ終えたあと夜のうちに回収して洗ってしまったし、壁で打った肘とかかとにはとっくに痛みも魔法の気配もない。
しかし、わたしの頭や心ではなく体の方が、今朝からのわたしの数々の失敗や、カイさまの視線の動きひとつにさえどきりと跳ねる心臓が、昨夜のすべてが嘘でないことを語っていた。
瞳によく似合う蒼色のローブの袖から出た白い手がテーブルの上を見惚れるほど優雅に動いていく。朝食を食べ終えたとき、カイさまはぼんやりと彼を見つめて立ち尽くしていたわたしに聞いた。
「ねえテア、今日も森に行くの?」
「え? ええ」
「そう……気をつけてね」
わたしを見上げる彼は相変わらず完璧で綺麗で、人形じみてもいなかったが、表情には柔らかさがなく、わたしは微笑むのを忘れていたことに気が付いた。
「カイさま」
笑顔は失敗し、わたしはこれまでどうやって彼に対していたのかと途方に暮れる。カイさまは黙ってわたしの言葉を待っていた。
「わたしがどうして森に行くのか、聞かないのですか」
「聞いてほしいの?」
「…………いいえ」
「なら、聞かないよ」
彼はささやくように言った。
「行っておいで、テア」
食器洗いと掃除と洗濯と諸々の仕事を終えてから向かった境界の川の対岸では、ティモが暇を持て余している間にとったらしいなにかの獣の肉を焼いて食べていた。
チウ、と先にわたしの気配に気付いたらしいネズミのルネが、ちまちまと川に向かって歩き出す。
「おはよう、ルネ、ティモ」
「んあ?」
ルネの動きとわたしの声に振り向いたティモが、挨拶代わりに片手を上げる。「よお」と言葉がついてきたのは口の中いっぱいに詰め込んでいたものを飲み込んでからだ。
「遅かったな」
「ちょっと仕事が終わらなかったの」
「へえ」
ティモは「そりゃご苦労さま」とひとつうなずくと、わたしが欲しいと言い出す前に全て食べきってしまおうとでも思っているかのような勢いで、ガツガツと残りの肉を食べ出す。
邪魔をするとキレそうながっつきようだったため、わたしは黙ってもはや定位置となっている大きな石に腰掛けた。きらめく川を危なっかしく泳いで渡ってくるネズミを見守る。
肉を食べ終えたティモが指を舐めながら「ああ、そういや……」と話しだしたのは、川を渡りきったルネをわたしがひざの上にのせてすぐのことたった。
「昨日答えを聞き忘れてた。アンタはなぜこの国にいる?」
「……わからない」
「わかんねえだと? ざけんなよ」
遮光メガネ越しの目がわたしを射抜くように見た。
「じゃあなんでアンタはここにいるんだ」
「あるじがいるからよ」
「じゃあそのあるじサマは」
「言わないわ。あるじのことは、なにも」
わたしはエプロンの上でよたよたと動くルネを閉じ込めるように、両足も石の上に乗せてひざを抱いた。
「言わない、けど……」
眉根を寄せるわたしにティモがいぶかしげな顔をする。
「オイ……いつになく弱気だな。どうしたんだよ」
「わからないの」
「ああ?」
「どうすればいいのか」
少し相談してもいい? と聞くと、ティモは面食らったような顔をして、次いでいかにも「めんどくせえ」という表情になった。しかしそれでも、ごしごしと服で手を拭きながらしぶしぶ「いいぜ、話してみろよ」と答えてくれる。
わたしは流れゆく水に視線を落として話しだした。
「あのね、昨日あるじに聞いてみたの。どうしてわたしは何も知らないのでしょうって」
「へえ?」
「あるじはわたしが知ることを望まなかったからだと答えたわ。わたしの望まないことは何もしたくないって」
「……は?」
おい、とティモが口をはさもうとしたような気がしたが、わたしはそのまま続けた。夜の話を、陽光の満ちる世界の中で。
「ねえ、『きみ以外に価値なんかない』というのは、どういうことだと思う? それから、『きみの考えていることやその行動のひとつひとつを知りたいと思ってしまうし、隠していることがあるのなら、すべて暴きたくなってしまう』っていうのは?」
「待て……ちょっと待て」
やめてくれと言わんばかりの声に視線を上げると、ティモは頭痛がするというように頭を押さえていた。
「おい、相談ってのは、恋愛相談か?」
「え……?」
「……違うならいいけどよ。それ、オレに相談すんのは間違ってねえか。なあアンタ他に相談する相手いねえのかよ。手紙とかでも相談できんだろ」
「手紙」
わたしは顔をしかめた。その単語は今は罪を告げるように響くから。それに。
「手紙で相談できるような関係のひと、いないわ」
さらさらと、目の前で川がなっている。
「十のころからあるじのことだけを考えて生きてきたの。友人と呼べるひともおらず、父母と離れても寂しいとも思わずに、あるじだけがわたしのすべてだった」
空を映し、緑を映し、光を散らして
水は何も持たずに流れゆく。
「あのね、両親に対してすら、手紙を出すのは義務だと思ってしまうのは、おかしいこと? わたしはあるじのお世話に関すること以外に、真実関心を抱くことができないのだと思う」
いつからかはわからない。でも。
「気付けば表面的な疑問しか持たない人間になっていたのよ。あるじはわたしが知ることを望まなかったからだと言ったけれど……わたしは昨日、あるじがわたしが何も知らなくてすむように守ってくれていたことを知ったの。無知なままでいられるように。無知のままにいて欲しいのかと思った」
だけど。
「あるじは、わたしに考えてみるように言ったんだわ。わからないものをそのままにさせることも、思考を止めさせようとすることもなかった」
わからないの、とわたしは繰り返した。そして夜に沈んだ暗い目を思い出して言った。「わかりたくないのかもしれない」わかってはいけないような気がするの。
「──アンタは異常だ」
獣の爪が一閃するかのように投げつけられた言葉に、わたしははっとして顔を上げた。一瞬誰かに話しているのだということすら忘れていた。対岸には真顔のティモ。
ティモは今度はさえぎらず聞いてくれていたのだ。そのすきがなかっただけかもしれないが。対岸の魔法使いはわたしに理解させようともう一度同じことを言った。
「いいか、やっぱりアンタは変だ。異様に執着されてる。十のころからだと言ったな。子供のころから囲い、深窓の令嬢のごとく俗世から遠ざけ守り、あらゆることに対して無知でいられるように、知ることを好まねえ性質に育て上げたってことだろ? ある種の洗脳だ」
おかしい、とティモは魔法使いの目にしか見えぬ境界の柵を確かめるかのようにあたりを見回してつぶやいた。
「本来力ある魔法師は人間になんて執着しねえもんなのに」
ひとには見えぬものを映している瞳がわたしをもとらえた。ひざによじ登っていたルネがチュウと鳴く。ティモは遮光メガネの向こうから、透視でもするようにわたしを上から下まで眺めた。
「ふぅん……アンタ自体にはなんの魔法もかかってねえんだな。アンタのあるじサマはなにか言ってたか?」
わたしは目をそらした。……彼は。
「あるじは……その、素のままのわたしが一番きれいなのだと言ったわ。どういう意味かはわからないけれど。魔は醜悪なのだと」
「きれい? きれいねえ……」
ティモは片手で頭をかきながら、何度か、きれい、醜悪、きれい、と口の中で言葉を転がしていたようだった。それから……。
「…………だが、そんなことありえるのか……?」
何を思ったか、ティモは昼寝をしているときですらつけていた遮光メガネのふちに手をやり、少し迷うようにしてから下にずらした。
──現れたのは、濃い緑の髪と対象的な、川を挟んでいてもそうとわかる、どこまでも鮮やかな黄緑の瞳。
初めて見るティモの目はすぐにまぶしげに細められ、わたしを映して糸のようになった。「ああ、なるほど、そういうことか」という声。
遮光メガネを直したティモはみょうに納得したように、また色の分からなくなった瞳でわたしを見ていた。どうしてか、まだ少しまぶしそうな顔で。
「……あんた、きれいなんだな」
そんなふうに、対岸の魔法使いは言った。
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