7. 望みを
「あっ……」
時間になっても食事室に降りてきてくれなかったカイさまのため、食べやすく工夫してお盆にのせた夕食を持って二階に上がったわたしは、実験室の前で立ち止まった。
──やっぱり。
艶のある黒い扉には、金のか細い鎖に繋がれた立入禁止の札がかかっていた。カイさまが中で何か特殊な魔法を扱っていたり、危険な実験をしてたりすると、時々こういうこともある。
そしてだいたいそういうときの彼は手もとのことに没頭していて、時間を忘れているのだ。
「カイさま」
わたしは扉を開けてすぐに見える位置に食事のお盆を置き、扉をノックして、部屋の主の名を呼んだ。
「お食事、扉の前に置いておきましたからね」
大きめの声で告げれば、扉の向こうからカイさまの「ありがとう」が返ってくる。いつもならわたしはそれに笑んで階下に戻るのだが……。
とん、と冷えた壁に背を預け、実験室の扉をながめる。
落ち込んでいたわたしは少しカイさまのそばから離れがたくなっていた。書斎にこもってくれていたのなら、せめてここに立入禁止の札がなかったのなら、お顔が見られたのに。
とはいえカイさまに沈んだ顔など見せる気はないため、扉一枚挟んでしょんぼりしているくらいのほうが、わたしには合っているのかもしれないけれど。ため息を吐きかけたとき。
扉がすっと開いた。
どうせ切りの良いところまで作業をしてしまうまでしばらくは出てこないだろうと油断しきっていたわたしは、ぎょっとして背筋を伸ばした。聞き慣れた綺麗な声が「テア」とわたしの名を呼ぶ。テア……。ここにわたしがいると扉を開ける前から知っていたかのように。
わたしは目を見開いていたが、カイさまは目を細めていた。
わたしは驚いていたけれど、彼は驚いていなかったように。
彼は夕食には目もくれないまま部屋を出て扉を閉めた。二歩ぶんわたしとの距離を縮め、半歩ぶんだけ残して止まる。わたしが彼が近付いたぶんだけ仰向いたのと反対に、彼はわたしを見下ろしていた。只人には見えぬ世界を映す魔法使いの瞳。
「どうしたの、テア。なにかあった……?」
声は流れゆく水そのもののように静謐だったが、彼の瞳にとっさに隠したはずの落ち込みまで見透かされた気がして、わたしは真後ろが壁であることも忘れて後ずさりかけた。片方のかかとと肘を強打する。背中と頭を打たなかったのは、カイさまがとっさに半歩分の距離を無くし、わたしと壁の間に手を差し込んでくれたからに他ならない。
抱き寄せられるような格好になったわたしをきちんと立たせたカイさまは、壁で打ったわたしの肘をひんやりとした手のひらでそっとすくい、眉を曇らせた。
「いたい?」
「いえ……少し」
「ごめんね、おどろかせてしまった」
「どうして……」
どうしてわたしがここにいると分かっていたような顔をしているのですか、と、そこまで聞こうとして声が途切れた。でもカイさまにはわかって、彼は言った。
「きみに呼ばれた気がしたから」
わたしは彼を凝視したが、彼はまだわたしの肘とかかとを気にしていた。不可思議な言葉と共に冷たい空気が痛みをうったえていた箇所にまとわりつく。清水に差し入れたかのような心地よさ。
それから両手を離したカイさまはふたたびわたしの顔を見て、何を読み取ったのか首をゆるく横に振った。
「うそだよ。扉の向こうにきみの気配がしたから……それだけ」
なにかあった? と彼はもう一度聞いた。ほんの少しだけ下がって。同時に夜の気配がして、わたしはカイさまがかの不可思議な方法で階段横のどれかの窓を開けたのだと気付いた。ざわざわと木々の鳴る音、月のささやきのごとき風……。
わたしはようやくまともに話せるようになって、ほほえんで彼に答えた。
「なんでもありませんよ、カイさま」
「そう……」
彼は「なら良いんだ」とどこか悲しげに言った。そのまま背を向けて実験室に戻ってしまう気がして、私はあわてた。そして引き留めようと子供のように何も考えずに口を開いた。どうして……と。言葉は勝手に出てきた。
「わたしはどうして何も知らないのでしょう」
見上げた先にあるカイさまの瞳は、位置のせいか角度のせいか黒く見えるほどに暗かった。魔法使いは言った。
「きみが知ることを望まなかったからだよ」
薄暗い廊下、夜に侵食された館の中で、彼の白い肌は夢幻の如く見えた。運命を告げる使者のように。彼は繰り返した。
「いつもきみは自ら知ることを望まない」
わたしは問うた。
「カイさまはそれで良いのですか」
彼は美しい形をした唇の両端をかすかに上げた。影の微笑。
「ぼくはきみの望まないことは何もしたくない」
「無知のあまりわたしが何かカイさまの大切なものを壊してしまっても?」
「大切なもの、ね……」
綺麗で切ない、夜にも似た笑み。
それでいて凍えるような笑みだと思った。
「わたしが大怪我をして、カイさまを困らせてしまうかもしれません」
「きみが怪我をいとうのなら、ぼくはきみが怪我をしないように守るだけだよ」
先ほど壁に当たりかけたわたしを守ってくれたように。彼の“守る”というのはただ結果を変えるというものであって、決して原因を無くすものではないのだ。
もちろん予防など使用人なのだから本当なら自ら危険に気付き、考えて行くべきことなのだが。あるいは、そう、彼は確かに原因をなくしていたのかもしれなかった。わたしは一度も自らの無知でひどい目にあったことなどなかったから。
……彼は注意深く原因を排除してくれていたのだろう。
わたしが無知なままでいられるように。わざわざ気付かないでも構わない、変わらないでいい、と。
──きみが望むのなら。
なぜアンタは何も知らないのかと、ティモの不審げな顔が脳裏をよぎる。わたしはようやく違和感を抱き始めていた。
『故意に伏せられているのか? そうしねえといけない理由か、そうしてえ理由があるのか』
知りたいという発想すら出ぬ時点で防がれたさまざまのことがあったのだろうか。疑問を持たず、何も知らず、わたしが生きていけるように。
「カイさま」
「なあに、テア」
このひとのそばにいて差し上げたい。それは本当。でも。
「カイさまはわたしが無知なままでいたほうが良いと考えていらっしゃるのですか?」
幼くして亡くなったお姉さまのように無垢なまま? ──死のごとく永遠に。
「そうだね、きみは無知で無欲で、残酷なまでに無垢だ。でも」
カイさまは辛抱強いと言えるような口調で続けた。
「ぼくは言ったはずだよ。わからなかったら考えてみるといいと。きみがわかりたいと思うことも、わかりたいと思ったことを知るのも、止めたりなんかしない」
カイさまの声は小川に似ている。
「考えてもわからず、それでも知りたいときみが望むのなら、ぼくはすべてを教えるよ」
静かで、きれいで、清らかで。誰にも止められず、何にも関心を払わず、さらさらとどこまでもただ流れ続けていくだけの、薄暗い森の小川。止まったらそれはもはや川ではない。
「きみがなにを知っていて、なにを知らないのかなんて、大したことじゃない。ぼくがきみを尊ぶのはそんな理由じゃないから」
「なら、どうして?」
今日のわたしは聞いてばかりだ。無垢な子供そのままに。
カイさまは慈母のごとくわたしに対した。
「どうしてだと思う?」
「わからない」
「考えてみても……?」
わたしは彼の暗いままの瞳を見ていた。
「……お姉さまの代わりだから」
「姉上?」
彼は本気でわからないというように首を傾げた。その瞬間だけ壁に取り付けられた灯りが世界に彼の瞳の色を思い出させる。
「ああ、あのひとも無知で、無邪気なひとだったね。わらってしまうくらい。だからこそ皆に深く愛され、惜しまれた」
とても無感動な声だった。そしてわたしは彼が姉君自身について、その死について、本当は最初からそうだったのだと直感的に思い至った。
「きみを姉上の代わりだなんて思ったことはないし、代わりをしてほしいとも思ったことはないよ……。あの屋敷で粗悪な代用品だったのはぼくだ。きみが誰かの代わりなんてことはありえない。だいいち、きみ以外に価値なんかないのに」
不思議な言葉で、不思議な表情だった。わたしはまた後ずさりたくなっていた。後ずさって、どこかに逃げ去りたく。
「だからこそぼくは、きみの考えていることやその行動のひとつひとつを知りたいと思ってしまうし、隠していることがあるのなら、すべて暴きたくなってしまう」
これ以上聞きたくないと思い、同時に聞きたいと思う。頭のどこか冷静な部分が聞くべきではないと警鐘を鳴らしている。でもどっちにしろ、わたしにカイさまの瞳の中から逃れることなどできはしない。
わたしは震えた。そんなわたしを見るカイさまは物憂げで、手の届かぬ月を渇望しながら絶望する梢のようだった。
「それでいて、ぼくは同時に、本当にきみには枷も鎖も見張りも何ひとつ付けたくないと考えている。きみに醜悪な魔の装飾なんて似合わない……。素のままのきみが一番きれいだから」
静かな声にわたしは酔った。愛されてでもいるみたいだったから。けれど、そんなわけはないはずだった。彼が愛している女性は他にいるのだから。
「カイさまは……」
どう続ければいいのかわからなくなって黙り込む。
悩みこんで、頭に浮かんだのはカイさまのいつものセリフ。
『でもテア、ぼくはきみにそんなことをさせたいわけではないんだよ』
では何をしてほしいのか、わたしは聞いたことがあっただろうか。姉君の代わりをさせたいのだと思っていた。違うのなら、何を……? わたしは聞いた。
「わたしに、なにかしてほしいことはありますか?」
今日いくつめだかわからない問いだった。
「カイさまはわたしになにを望んでいるのでしょう」
落ちてきた沈黙の重さで、わたしは徐々にうつむいた。
風の絶えた夜が、しんしんとわたしたちの周りに降り積もって密度を増してゆく。罪のように。
……やがて、うつむいたわたしの両頬にカイさまの両手が添えられて、そっと上向かされた。怖いくらいに優しく、切なくなるほど優雅な手付きだった。
「ねえ、テア……」
わたしの名が口付けのように唇に触れる。いつのまにか至近距離にあった彼の瞳は絶望的なまでに暗かった。
「きみは……ほんとうに、ぼくを知りたいと思っている……?」
闇に絡め取られたわたしはまた震え、なにひとつ答えられなかった。ひと言も。
だから……しばらくしてカイさまがわたしの頬から手を離し、静かにきびすを返すまで、わたしたちはただ夜の廊下で見つめ合っていた。




