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魔法使いと鳥かごの花  作者: 水月 裏々
○ 再びテア ──真実を──
20/32

4. 百目の鼠

 わたしがソレを見つけたのは、館の裏で洗い終わった洗濯物を干しているときだった。

 こぼれる陽光と水滴にキラキラする草々に、鼻歌を歌いながら物干しロープにせっせと絞ったシャツやタオルを吊るしていたわたしの足もとで、それはチュウと鳴いたのだ。


「チュウ……?」


 わたしは──以前伯爵に「ハツカネズミのよう」と自分がたとえられたことすらあったが──そんなふうに鳴く、チョロチョロしていてしっぽの長いチーズをかじる生き物が苦手だった。

 飼われているのを見るぶんには良いし、可愛いとも思えるのだが、台所に出られたり触れるということになると……。

 わたしは青ざめて、一瞬固まり、恐る恐る下を向いた。

 無様に悲鳴など上げてカイさまを心配させることの無いよう、口だけはしっかり閉じて。


 しかし、そこにいたのは予想していたネズミではなかった。


 もう何週間も前……禁忌の森でわたしのカバンの中にコレを見つけた老魔法師は白い眉を上げてまばたき、何であるかを教えてくれた。


『おや、珍しいの。“百目の鼠”だ。これだけ目があるのにこやつは何ひとつ見えやせぬ。自然の中にある魔力を感じ取り辿ることこそできるが、光を知らず、世界を知らず、ただカサコソと生きるだけじゃ』


 ──“百目の鼠”。


 魔獣とまではいかないが、禁忌の森にて変質した、とても珍しいネズミ。ただしこの顔中に色とりどりの目を持つ灰白色の醜悪な生き物は、本来ネズミというよりも、ウサギかなにかに近い動物であったという。


 それだけが理由なわけではないだろうが、わたしは始めて見たときから不思議とこの生き物に嫌悪を感じていなかった。


 悲しい獣……。


 だから悲鳴を上げてしまう心配はなくなったわけだが……──これは、こんなところにいるはずのないものである。

 禁忌の森で見たものよりも格段につやつやと毛並みが良く、飼いネズミだろうかと一瞬考えるが、カイさまはこんなものは飼っていなかった。


「ええと、あなたはどこから来たの?」


 足もとでちょろちょろする生き物を踏まないように気をつけながらしゃがんで、目線を近付けて聞いてみても、ソレはきょとんとしたように百の方向を見ながらチウチウ鳴くだけである。

 けれど、困り果てて、とりあえず捕まえてカイさまの指示を仰ごうとエプロンを広げたとき。


「チゥッ」


 ソレはばっと飛び退いて、森の中へちまちまよたよた逃げ出した。ここにいるはずのないものを見つけておいて、まさか放っておくわけにもいかない。わたしは慌てて灰白色のネズミを追いかけた。


「ちょっと、待って、なにもしないから待って、ネズミさん」

「チゥ」

「本当よ。カイさまは酷いことをなさったりしないわ。だから」

「チュチュウ」

「待ってったら。わたし洗濯物の途中なんだから」


 言葉でいくら説得しても止まってくれるはずもない。ネズミは歩み自体は遅かったが、よたよたと不規則に揺れたり曲がったりするので捕まえるのは至難だった。わたしは早々に捕まえることはあきらめ、小さなネズミが草花に紛れても見失わないよう、せっせと追いかけることに専念した。


 捕まえるのは、この子が止まってくれてからでもいいはずだもの……。


 だが、あいにくネズミは止まらず、ちょこちょこと瑞々しい緑と暖かな春の地面の隙間を、何かの使命でもあるかのように進み続けた。


 というより、実際ソレには使命があったのだろう。

 飼い主のもとへ戻らねばならないという使命が。


 ようやくネズミが飼い主を見つけたとき、わたしたちは屋敷からかなり離れてしまっていた。どこかで見たような、陽光をばらまいて流れる川辺……。

 わたしはそれが何だか思い出して立ち止まった。


 安全地帯の果て。カイさまの力の及ぶ範囲の境界線。

 

 バシャバシャと川を泳ぐネズミに気付いた対岸にいたそのひとは、今の今まで固そうな石を枕に居眠りしていた事実などなかったかのように跳ね起きた。野生の獣を思わせる敏捷な動き。

 そのまま容赦なく、なんとか川を渡りきったネズミの腹を手のひらですくって文句を浴びせる。


「オマエ遅すぎ! ちょっち見てこいって言っただけなのにいつまで待たせんだよ! なんか食うモンくらい見つけて来たんだろうなあ? 手ぶらじゃ許さねえって……ん?」


 寝ているときもかけっぱなしだった丸い遮光メガネと、緑のもっとも濃く深いところを織り込んだ、伸ばしたというより勝手に伸びたという印象の髪。毛織のシャツとブーツに下三分の一を押し込まれた長ズボン。荷物は弓と背嚢のみ。

 狩人らしきそのひとはどっかりと腰を下ろしたまま、対岸にいるわたしを不審げにじろじろ眺めた。


 メガネの暗い色のせいで瞳の色はよくわからない。


 おまけにそのひとは「だれだよテメエ」と吐き捨てておきながら、答える前にわたしからネズミに視線を戻す。


「おいルネなにやってやがる。女見つけてこいなんて言ってねえだろ!? オレらが捜してんのは……あ、ああ! 女だ」


 同年代の青年に見えるが、この落ち着きのなさはもう少し若いのかもしれない。背も……座っているために正確にどれくらいかはわからないが、小柄だ。そのひとは今度こそ偉そうに聞いてきた。


「テメエ名前は?」

「ヘラだけど……」


 怪しげな男性相手に本名を名乗るほど間の抜けたことはない──特にこのひとは異国であろうこの地で当然のように母国語を話していた──ため、とっさに思いついた偽名を名乗った。

 ここで「あなたは?」と続けるべきかとも思ったが、別段相手に興味があるわけではなかったので、代わりに「テメエはやめて欲しいわ」と要望をくっつけてみる。

 意外なことに青年は素直に呼び方を直した。名乗った意味はなかったが。


「あー、じゃアンタじゃねえのか。アンタ魔法師……じゃねえよな」

「ええ」

「だよな。アンタこんな大層な柵作れそうもねえもんな」

「柵って?」

「結界みたいなもん。侵入防止の柵だ。目眩ましと……判別魔法もかかってんのかな……。ルネ──このネズミは特殊だから入れたが、普通の生き物は入れねえと思うぜ。もしくはリスとかウサギとか無害な生き物だけは入れるようにしてあるのか……。とにかく、こんな緻密なの作れんのはオレが知ってる限りの諸外国所属合わせた特級魔法師たちの中でも二、三人しか思いつかねえよ。しかも普通に維持できてんのがすげえ」


 きょろきょろとわたしに見えぬ何かを感嘆と憧れの表情で見回していた青年は、ああでもアンタ同じ国の出身かと、母国の名を出した。


「ここにいる魔法師も同じ出身か?」

「あるじのことはどんなことでも言えないわ。でもすごく立派な方よ」

「おう、だろーな。普通魔法師は他の魔法師の縄張りに無闇に踏み込むことはしねえし皆それなりの柵とか作ってるもんだけどこんだけ広くて強固なのは滅多にねえぜ。王宮か魔法省みてえだ。すげえなぁこういう森とかに超本物の魔法師が隠れ住んでるもんなんだって話ホントだったんだ、なあアンタのあるじってどんな人だよオレ弟子入りしてえかも」


 だんだんと早口になっていった青年は、遮光メガネと川を挟んでもわかるほど興奮で目をキラキラさせていたが、手の上のネズミは疲れたのか全く気にせずまどろんでいる。

 とりあえずわたしは青年のおしゃべりをおいておいて、一応聞かねばならない気がすることを聞いた。


「あなた、魔法師なの?」


 青年は機嫌を損ねた。


「あ? 当然だろ。オレは魔法省所属の魔法師ティモ。今は二級だが、そのうち特級魔法師になって王室付魔法師になる予定だ」

「魔法師……なら、あの、失礼いたしました」


 ちゃんとした級を持っている魔法師は、それだけで一般庶民からすればそれなりの地位を持つ。特に魔法省に所属する資格を持つのは、貴族か、本物の才ある魔法使いだけだと聞いていた。


 ──この狩人の格好をしたティモという青年は、魔法省所属が本当はともかく、特殊なネズミを連れているのならば少なくとも魔法試験に通ったマトモな魔法師である可能性が高い。


 そのことにようやく思い至ったのと、ティモ自身の言動から魔法師か否かを聞いたのだったが……。うなずいて名乗られたからには、ただの使用人身分たるわたしは対等に口をきくなどできはしない。

 しかし敬語に改めたわたしに、ティモは微妙にうんざりとした顔になった。


「いや別にかしこまってくれなくてもいーぜ。オレはあんたのあるじサマと違ってこんな結界は張れねえし、知らねえ女にかしこまられるほど偉くもねえ。普通にしろよ」

「そう? ならそうするわ」


 わたしが少し笑ってうなずくと、ティモもニッと笑った。機嫌良さげな獣の笑顔。


「おう。オレがそのうち偉くなったら、そのときは好きなだけかしこまっていいぜ。で、アンタのあるじサマってどんなヤツ?」

「とても立派な方」

「そうじゃなくてよ」

「見ず知らずの初対面のひとに教えられるわけがないでしょ」

「ちっ……」


 期限の良さそうだった顔はまた一瞬で不機嫌そうに変わる。ティモはイラついて髪でもかき混ぜたそうにしたが、手の上に眠るネズミがいることを思い出して、無駄に動くのは断念したようだった。


「くそ…………けど、ま、それもそうか。ならいい」


 こいつも寝たから帰る、とティモは唐突にネズミを持ったまま立ち上がった。


「アンタどうせ仕事中だったんだろ。こいつが邪魔して悪かったな」

「え、ええ、あの」


 器用に荷物を肩に引っ掛けるティモは、思った通りわたしと同じくらいの身長しかない。思わず心配してしまった。


「大丈夫? 帰れる?」

「べつに迷ってたわけじゃねえよ。……アンタのあるじがこの国の魔法師っていうんなら、オレに会ったことは言うな。異国の……多少力のある魔法師同士がこんなところで接触することになったらまじーから」


 そういうものなのか。魔法使いたちのことについてよくわかっていないわたしが素直に「わかったわ」とうなずけば、ティモも「助かる」とうなずいた。


「あ、で、アンタは明日もここにこい」

「は?」


 すでに背を向けてすたすた歩き出していたティモは、深くなり過ぎた木の葉の色の髪を揺らして、半分だけ振り返る。


「見ず知らずのヤツに教えられるかってコトは、親しくなったら教えてくれんだろ? 明日も来る。こんなスゲえ魔法師のこと、さぐらずに帰れるかってんだ」


 そして、今度こそわたしの返事も聞かずに、ネズミを連れた魔法使いは、陽光をさえぎる緑の──対岸の森へ消えていった。

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