3. 許されぬ手紙
森は夜の闇に沈み、月はあざ笑うような形で色を無くした木々を睥睨していた。雨上がりの美しさはすでになく、枝々は魔女の腕めいて風にしなり、決して届かぬ月を手招く。
「母さん、父さん、あの日から今まで連絡せず、心配かけてごめんなさい。……何があったかとか、どこにいるか、とか、詳しいことは言えないけれど、わたしも、カイさまも無事で、元気でいます」
わたしは口の中で内容をごちゃごちゃと撹拌しながら、握ったペンを動かしていた。外の月よりもよほど優しく手もと照らすランプや他の家具同様、カイさまが部屋につけておいてくれたほっそりとした木製軸のペンは、なにかの魔法がかかっているのか質があまりよくない紙相手でも引っかかることなく文を綴っていく。
「……わたしは幼いころに、カイさまのおそばでお仕えすることを決めました。それを後悔したり、やめたいと考えたことはありません。わたしはカイさまをとても大切に思っています。あの方は昔から何度も言っているように素晴らしいひとで、とても良いあるじです」
そのあるじに、姉代わりのままのわたしがふさわしい使用人であるかは別として。
「ここは綺麗なところで、静かで、何も困ったことはありません。ただ、そう、もしかしたらうわさは聞いているかもしれませんが、カイさまはとてもお辛いことがあって、今しばらく時間が必要なんです。……そういうことだと思います。だから心配はいりません」
まとまりのない文章。最低限の教育は受けているため読み書きはできたが、村の学校を出て以来、文字を使う機会は誰にも見せぬ買い物メモか学園や王都から時折両親のもとに出す近況報告程度であったので、わたしは字や文章があまり得意ではない。
ごまかすように最後の一行を埋めた。
「返事はいりません。この手紙は許されない手紙です。誰にも見せず、どうか読んだらすぐに燃やしてください。愛をこめて……テア」
一度だけ眺めるように読み返して封をする。宛名まで書き入れて、自分で自分にちょっと笑ってしまった。どうせ出すあてのない手紙なのに。これで義務でも果たした気になっているのかしら。
ランプを消すと、窓の向こうの月と木々が急に近くなったように感じた。どちらもわたしを見ているわけではない。黒々とした木々は届かぬ月へか細い枝の腕を伸ばし、天に座す月はその愚かしさを嗤っている。あるいは憐れんでいるのか。
どちらにしろ彼らはお互いしか見ていなかった。
けれどわたしはなんとなくそうしたくなって、手紙をポケットしまいこんで食材部屋に向かい、勝手口から外に出た。夜に招かれたような顔をして。
菜園を通り過ぎ、魔女の胎内のような木々の間に踏み入る。
真下から仰ぎ見る森は漆黒で、月の在り処も見失ってしまった。何万本もの腕のような枝々と葉の間にガラス片のように散らばって光る星々の存在だけが、世界の中に森のかたちをとどめている。
木々は風にザワザワと不吉に、月に触れることのできぬ不満に鳴っていたが、獣の声は聴こえず──カイさまは以前、このあたりに危険なものは出ないと言った──なんの不安の気配もなく、わたしはのんきにあたりをさまよった。手紙はときどき自身の存在を主張するようにスカートの中でカサリと音を立てた。
──わたしはこの手紙を出したいのかしら。
カイさまはわたしがこれを“やらなくてはならないこと”だと考えていると言ったし、わたしも先ほどこれを“義務”だと思った。心配している両親に対する子供の、良い娘の義務。
でもわたし自身はそれを果たすことを望んでいるのかしら?
わたし自身は。
彼が考えてみるように言ったからわたしは考えたが、たとえば今目の前に郵便用のポストがあったとして、自分がそこに望んで手紙を入れるのかどうか、自分でもよくわからなかった。
……わたしが誰かのために、わたし自身が望んでいないことをするのは我慢ならないとカイさまは言った。不必要に自分の手をわずらわせないようにと、たぶん、あれはそういうことなのだろう。
彼は傷心の身であるのだから。
ただの使用人のくせに、あまり分不相応なことをしたり願ったりするべきではない。わたしは歩きながらそう結論付けた。
姉君の代わりとして扱おうとするカイさまに対し、あれほど使用人として接するようにと言い張っていたくせに。最近、わたしは自分自身で何が使用人らしいのかわからなくなりかけているのかもしれなかった。
「カイさまのおそばにいて、お世話をする。……それだけだわ」
あの初めて出会った日、わたしの名前を聞いてほんとうの笑顔を見せた綺麗な坊ちゃま。結局、わたしが“やりたいこと”なんて、カイさまのお世話だけなのだ。わたしが持っている望みはたったひとつ。
──あの幼い日、そばにいてあげたいと思った願いだけ。
母のことも父のこともとても愛しているけれど。両親だけでなく、心配する人々を安心させてあげたいというような考えも、伯爵とヘレーネさまの心配をすることも、他の彼に関すること以外の何もかも、わたしの中では義務でしかないような気がしてしまう。
そうするべきだと思うから、そうするだけ。
漆黒の森の夜はその体内にわたしを包み込んで、消化でもしようとしているかのように風にざわめく。わたしを呑み込めば月に届くとでも信じているみたい。
闇の内部。ふとあの魔獣の腹の中も同じようだったのだろうかと考えて、間抜けなわたしはすでに過ぎ去った恐怖に震え、同時に何かを思い出しかけた。
『を……いして……でしょう』
細切れの記憶。ぼやけた声とセリフ。
『でももし…………でも、何があっても…………カイ……のそば……いようと思って…………さって……のなら……それだけでも……』
意味を掴もうとした途端に過去は曖昧なものとなって、さらさらと意識の端からこぼれて消えて行ってしまう。あれは、誰が、いつ、どうして言った記憶だっただろう? あるいは、これは実際には起きていないことの記憶で、すべてわたしの夢や妄想なのか。
そんなはずはない、という確信。
でもどうしてか思い出したくはない……。
ザァァァーと強い風が吹いて、わたしは足を速めた。頭上で魔女の腕めいた枝々が狂ったようにうごめいて、合間から面白がるような月が覗く。
わたしは怖くなって立ち止まれなくなっていた。森や夜が怖いわけでも月が怖いわけでもなかったが、わたしは怯えていた。開きかけた過去の蓋から這い出てきそうな記憶の存在が怖かったのかもしれない。
足場の良くない森の中で走り出しはしなかったが、わたしはおぼろな星とわずかな月明かりの下、方向もろくに考えず歩き続けた。止まれば過去に追いつかれてしまうのだというように。逃げるように。
夜、森、闇、星、木々、風、嘲笑の月、梢、魔女の腕……。
青緑の瞳の魔法使いの支配する森はわたしにどんな危害も加えなかったが、わけもわからず、わたしは自分自身から逃げていた。
歩いて歩いて歩いて。何も考えず。そんな中。
『わからないことがあったら考えてみるといいよ。ぼくはいつもそうするんだ。そのほうが楽しいから』
うんと過去の小さなカイさまの言葉が頭の奥でそう言い。
『わからないことがあったら考えてごらん……』
大人のカイさまの声がかぶさるようにそう言った。
声の高さは違えど、どちらも清らかな水の流れの響きを持つ声だった。ひとの心を落ち着かせる音。わたしは変わらず何ひとつわからなかったが、彼の声を思い出せたおかげで、ようやく足を止めることができた。
夜の森……。
わたしには自分が立っているのがどこなのか全く検討がつかなかったけれど、数歩先には月と星の光がまかれた川が流れていた。飛び越すのは難しそうだが、それほど幅のあるというわけでもない川。
「わからないことがあったら考えて……」
思い出したカイさまの言葉を繰り返して、わたしはその川のふちにしゃがみ込んだ。星月の影をそのままに流れゆく清らかな水に両手を差し込み、頭を冷やすために顔を洗う。それだけで不思議なくらいあっけなく恐怖は消え去った。
だからわたしはそのまま腰を下ろして流れていく水を眺め、今最も考えるべきわからないこと、つまり恐怖にとらわれる前に考えていたことをもう一度考えはじめた。
──夜の中にひとりなことや、ここがどこだかわからないことについては、わたしはあまり考えなかった。結局ここは森の中だったから。
そう知っていたり、信じていたわけではないけれど。わたしは自分が来た方向から小さな丸い光が向かってくるのを見つけたとき、驚きもせずに立ち上がった。
ランプを持って迎えに来たカイさまは、少し困った顔をしてわたしに触れ、怪我がないかを確認した。安堵したようなため息。
カイさまは言った。
「それ以上先に行っていなくてよかったよ、テア。その川の向こうは力の範囲外だから……何が起こるかわからない。獣に襲われてしまうといけないから」
わたしは彼に迷惑と心配をかけたことを詫び、迎えに来てくれたことにお礼を言った。わたしがほほえんだからか、カイさまも「いいんだよ」とほのかに微笑する。
それから彼は「一緒に帰ってくれる……?」とランプを持っていないほうの手を差し出した。
翌日、わたしは新聞配達のワシに両親宛の手紙を託した。やはりそうするべきだと思ったし、そうすることで自分の気も晴れるような気がしたから。
届くかもわからなかったので、カイさまには何も言わなかった。
そしてまた、いつも通りの日々が森に積み重なって行った──。




