1. 日常
陽光は葉の刃の上で白と金に砕け、鳥の歌と木々を渡る風のささやきと、すぐ近くを流れる小川のかすかな音が耳朶をなでて行く。季節は少しずつ夏に向かって進んでいた。
──晩春の森。やがて若葉は彼の瞳の色へと変わるだろう。
カイさまの髪は青みがかった黒だ。この髪を切るのはかなり以前から、わたしの役目だった。手の中のくもりひとつない澄んだ夜空の色合いは、ハサミの銀を月のようにいろどる。
しゃく……とまた瑠璃の深みのある輝きが指の間から落ちてゆき。
しゃく、しゃき、しゃきん……。
「終わったの、テア?」
やがて、長いまつ毛に囲まれた青緑の瞳がわたしを見上げ、清らかな声がわたしに問うた。わたしに動かないように言われたときの体勢から微動だにせず、瞳と唇だけを動かして。
わたしはカイさまに巻きつけていた布を取りながらほほえんだ。まだ人よりは長めだが、このくらいが最もカイさまに似合うだろう。
優雅で清美で、昔よりももっと悲しい青年。
「ええ、終わりましたよ、カイさま」
「もう動いてもかまわない?」
「ええ、もちろんですよ、カイさま」
「そう……なら」
陽光に透けるような指先がお仕着せの袖を引いて。わたしを振り向かせたカイさまが、わたしの表情から少しだけ盗み取ったように口もとに淡い笑みを浮かべた。空の蒼色を抱く清流の微笑。
「ありがとう、テア」
「どういたしまして」
鏡をご覧になって来たらいかがです? とうながせば、子供のころと変わらぬ素直さで頷いて立ち上がる。離れる前に結い上げたわたしの髪の、編み込みの部分に小さな口付けを落としていくのだけが、最近の彼のクセだった。
「さてと。……よいしょ」
あたりを軽く片付け、手ぬぐいやハサミや諸々の道具をバスケットにしまったわたしは、カイさまの椅子代わりにしていた岩に腰掛けた。小川の音が冷たげに耳に響く。
館からやや離れたここは花々よりも緑に満ちていて、くしけずられたような草々と緑の天蓋とに挟まれていた。空は緑をさくようにしてわずかに覗くだけ。
──カイさまは。
彼はよく、不自由がないか、欲しいものはないか、わたしに聞くけれど。ここにはそんなもの何もなかった。
いつかカイさまに言った言葉……「わたしはカイさまのお世話をしていられればいつも幸せですよ」……はどこまでも本心だったし、ここはとてもきれいだったから。
わたしは目を伏せて歌いだした。
世界は、森はなんの危険もなく閉じていて、とても優しかった。
ここにいれば、いつかカイさまの痛みは、心に刻まれた傷は癒やされるのだろうか? 自分の痛みや苦しみを表に出さない彼は今、どんなふうに思っているのだろう。森の外に置いてきてしまったもろもろのことを。
──わたしには何もわからないけれど。
歌が終わったとき、カイさまはまた当然のようにわたしのすぐそばに立っていて、青緑の瞳でわたしを見ていた。それから、森はきみの歌声に映えるね、と少しおかしなことを言って。
彼はわたしの隣からバスケットを取って、もう片方の手をそっと差し出した。
「戻ろう、テア。今日はこれから雨が降るよ」
わたしは彼の手をありがたく取って立ち上がり、ぼくが持つと言うカイさまから、バスケットをそっと取り上げた。これは使用人の仕事ですから、と。
カイさまはいつも通りわずかに顔を曇らせて言う。
「でもテア、ぼくはきみにそんなことをさせたいわけではないんだよ」
「それでもカイさま、わたしは使用人なんですよ」
館に向かって歩き出したわたしたちのずっと後ろで、天からの祝福たる春のあたたかい雨が何万もの葉に当たって跳ねる音が聞こえ始めていた。
緑と花と土の色とを体の中でくるりと回す真円の雫の音。
急ごう、と言うカイさまにうなずいて、わたしは急いだ。雨に追われて。
──世界は初夏に向かっていて。
館の扉が背後で閉じて、カイさまが「濡れなかった?」とわたしに問う。わたしは「大丈夫ですよ」と答えた。大丈夫ですよ、カイさま。
「さ、お仕事に戻ってくださいな」
「ん、わかったよ、テア……。じゃあ、またね」
髪に触れる美しい唇……。わたしは二階に上がっていくカイさまを見送り、バスケットを持ち直して洗濯室に向かった。
いつまでも、こんな日々が続けば良いなと願いながら。
お話がまた森とテアのもとへ戻りました。
次回の更新は1週間後の予定です。




