6. 希望の鳥
「パウルさまは……カイさまを恨んでいらっしゃる?」
部屋に戻った私を寝台の横に置かれた椅子に座らせて、片手に仕事のものらしき書類を持ちながら、もう片方の手で私の指に触れていたパウルさまは、ほとんど無意識に発してしまった私の疑問に目線を動かした。
「私がカイをか」
すみれ色の瞳が私をまっすぐに映す。答えが返ってきたのはすぐで、いささかの迷いも無かった。
「いや、恨んでなどいないよ。理由がないからな。恨んでいるとすればカイのほうじゃないか?」
「理由がないなんて。そのお身体はカイさまが原因ですのに」
「大したことはないだろう、何かを失ったわけでもないし、謝るべきなのは私であってあちらではない」
「大したことはないって……」
思わず無言でジロジロと未だ包帯の巻かれた頭や、やはり包帯がわずかに見えるシャツの襟元などを見てしまう。このひとは平気そうに上半身を起こして仕事などしているが、実はまだかなり辛いはずだ。
まあ、それがすべてというわけでもないがとパウルさまは苦笑した。
「あいつの性格上、手加減したとも考えられないが……腕も足も目も耳もそろっているし、こうしてヘレーネも無事だ。なら、やりなおすことはできるだろう。なにもかも」
「……楽観的すぎる上に底抜けの善人ですのね」
いっそばかじゃないのかとばかりに呆れた私に、パウルさまは心外なと言うように眉を上げ、それから今度はにやりと笑ってみせた。いささか無理矢理かもしれないが。
「まあ、良いことが大きかったからな」
ゆるく絡まっていた指が一度ほどかれ、しっかりと握り直される。そのまま強く引かれて、怪我人に激突するわけにもいかない私は、慌てて空いていたほうの手を寝台についた。
書類が地面に落ちる軽い音が耳に届いて。
「っと……」
抗議しようと顔を上げた私はしかし、何も言えずに硬直してしまった。吐息が触れ合うような位置にパウルさまの顔があったからだけでなく、すみれ色の瞳がおそろしく甘かったから。
「愛している」
ささやきは口付けにも似ていた。
「もう、そう告げても構わないのだろう? ヘレーネ」
「っパウルさま」
「何も言ってはくれないのか?」
「……それは…………」
お待ちください、とどうにか体を離す。
「何も聞かないのですか」
椅子に戻った私にパウルさまは一瞬残念そうな顔をしたが、私の表情に深刻なものがあったためか文句は言わなかった。
「何もというと……カイとのことについてか」
「カイさまとわたくしと、テアさんのことについてです」
「話したいのか?」
私はパウルさまを見て、繋がれた手を見て、もう一度パウルさまに視線を戻して、「そうかもしれません」と言った。
「話しても大丈夫なのだろうと思えましたし、今となっては、話さないのは間違ったことのように思うのです」
「なら、話してくれ」
私はうなずいて、息を吸ってから話し出した。私の過去と、カイの偏愛と、彼にとらわれたテアさんのことを、全部。パウルさまは黙って聞いていたが、時々眉をひそめ、私の手を握る力を強めた。
……話し終えてからは、どちらもしばらく無言だった。先に口を開いたのはパウルさまのほうだった。以前した予想とは違って、冷静な、すでに自分の感情を制御し終えた口調で。
「カイに……会わないとな」
「え?」
「カイに会わなくてはいけない。ヘレーネも……カイにはべつに会う気にならなくとも、テアには会いたいだろう?」
「そう、ですわね……」
私はパウルさまを見つめた。すでにどうやって消えた魔法使いを捜すかについて考え込んでいる。この強いひとは悩むときはいつも過去についてではなく未来について悩むのだ。
ばかなのは、どうしてこんなことになってしまったのかと嘆いてばかりいた私だったのか。でも私は、このひとなら答えを持っている気がして、もうひとつだけ過去について質問した。
「なぜカイさまはあのとき、あなたのお名前を呼んだのでしょう」
「……私が裏切ったと思ったからだろうな」
案の定パウルさまの答えは帰ってきたが、私は理解できずに顔をしかめた。
「裏切り?」
「ああ。当然だな。テアにあれほど付きまとっていた私が、テアではなく、カイの許嫁であるヘレーネの手を取ったのだから」
「でも、先ほども申し上げた通り許嫁関係は上辺だけのものでしたし……。それにカイさまはパウルさまとわたくしのことにも気付いていらっしゃいましたわ」
そうだったのか、という表情をしながらも、パウルさまはゆっくりと身体に障らない速度で首を横に振る。
「あいつは自分に対する裏切りではあそこまで怒りはしない」
そうだろうかと考えかけ、すぐにそうだろうと思い直す。
カイは自分になにかをした人間相手なら──なにをするかはわからないが──あの人形じみた笑みを絶やさずにいるだろう。
また、テアさんを失いかけて混乱していたとはいえ、自分が裏切られただとか喪失への恐怖だとか、そんな自分自身の気持ちだけで、あんなに凄まじい怒りのこもった魔法をひとりに向けて放ちはしないだろう。
あんな余裕のない顔はしない。
……テアさんを酷く傷つけたのでもない限り。
「カイは私があるときからテアを友人としてしか大切に思っていない上に、私とヘレーネの間にある感情のことを、テア自身が知っているとは気付いていないようだったから」
「え……テアさんは……ご存知だったのですか」
「ヘレーネもカイのことは分かっても、テアについては気付いていなかったのか。そうだ、テアは知っていたよ。そしてカイはそれを知らなかった」
知らなかったから。
「あいつの目には、私がテアの目の前でヘレーネに心変わりしたことをあの状況で初めて突きつけ、裏切っただけでなく、無情に見捨てた男に映ったのだろう。あいつが怒ったのはテアのためだ」
「テアさんの……」
「ああ。それに実際私はテアでなくヘレーネを選択して助けた。カイの怒りはなにも間違っていない」
だから私はカイと友人でいたいと思うよ、とパウルさまは言った。色々話し合わねばならないこともあるがなと付け足して。
「一緒に捜してくれるか、ヘレーネ」
私はパウルさまの瞳を見つめ返して「はい」と頷いた。
実はカイの行方、あるいは生死、あるいは事故の真相について問い合わせる手紙は、カイの実家である侯爵家からはもちろんのこと、他の貴族たちや王立学園の学生たち、興味本位の新聞社からまで、私のもとにもパウルさまのもとにも見舞い状のフリをして大量に届いていた。
「これだけ皆さま同じことを聞いてくるということは、やはり誰ひとりご存じないんですわね」
何か手がかりになるようなものはないかと、使用人任せにしていたすべての手紙を念のため自分で読み返してはみるものの、見事なまでに皆似たような文面だ。
ちゃんとした魔法師を捜索に出したらしい国王陛下や魔法省ですらカイの行方はつかめていないのだから、それも当然かとも思うが……。
「うまく隠れているんだろうな。……国内にいるのならば」
あまり起きたままでいるとよくないからと横になってもらったパウルさまが、定位置となっている椅子にかけて文字を追っている私に返す。私は眉間を押さえた。
「国外にまで行っていたら見つけるのはほぼ不可能でしょうね。国内を捜し尽くした時点で、亡くなったものとして王宮と魔法省の捜索も打ち切られてしまいますもの」
とはいえ皆カイが逃亡したわけではなく、魔法の事故によって行方不明の生死不明になっていると信じて捜索している。だからもし国内で隠れていても、“隠れている”のではないかということが前提になっていないために、いくら魔法師たちが捜しても見つからないだろうとも思う。
しかし国外に出た可能性というのも低くはない。カイも貴族のたしなみとして近隣の国の言葉はいくつか話せたはずだ。そうしたら……。
「そういえば、カイの得意分野はどんなものだ? 魔法の」
今悩んでもどうしようとないことについて厳しい顔で考え込んだ私のためか、あるいは別の何かを考えていたのか、パウルさまが話題を変える。
「得意分野ですか」
「ああ。火とか風とか水とか、あいつは簡単に扱っていたから、特別に得意なものはあるのかと思って。他の魔法師たちはそれぞれ人によって扱いやすさがあるのだと言っていたが」
「……そういう意味では、いちばん扱いやすいのは火か水だとおっしゃっていましたわ。何も考えずに出せるのが火で、最もよくコントロールできるのが水だとか。でも、カイさまの本当のお得意は……精神系ですのよ」
「精神系」
「ええ、精神系です」
一応友人をやっていたのに、このようなことを知らないあたりがある意味パウルさまらしいと、少しほほえましく思う。
「もちろん、許されない人心操作や傀儡魔法の使い手というわけではありません。法に触れない契約魔法や魔法生物作りなどの腕を特に称賛されていると聞きますわ」
カイは精神系の魔法が得意だ。少年のころすでに使えないはずの契約魔法を使えたというのもそれを示しているが、さらに幼い頃に何を思ったか禁呪である反魂術の研究をしていたというから、きっかけがあったとすればそちらだろう。
王室付魔法師として王宮の庭園に離す魔法仕掛けの蝶や鳥なども作っていたようだが、本物の鳥や小動物を自分の手足として動かすほうの魔法も相当使えると聞く。
……そこまで考えて、私ははっと顔を上げた。そうだ、窓……。
「ヘレーネ?」
「パウルさま、カイさまはどこかに隠れて引きこもるとして、すべての情報を遮断してそうなさる方だとお考えになりますか?」
「いや……遮断しては隠れ続けることもままならないだろう。カイは必要な情報は取りに行くやつだ。──そうか」
可能性はあるな、とパウルさまはつぶやいた。
「魔法で情報収集か。うちと、王宮と、侯爵家もか? ヘレーネ、見つけられるか」
「ええ、おそらく……時間はかかるかもしれませんが、いくつか薬を作れば」
問題は見つけたあとだ。たぶん鳥だろうが……。探知の何かを仕掛けるよりは、手紙でもくくりつけたほうが確実だろうか。パウルさまに聞けば、どちらでも任せると返ってくる。
「私は魔法省に出入りしていたとはいえ素人だから。魔法はヘレーネのほうが詳しいだろう。私は新聞社に手を回す」
寝台から伸びてきた腕に膝の上に置いた手紙──どこぞの新聞社からのものだった──を取られて「は」と聞き返す。パウルさまは不敵に笑った。
「おそらく、どこのかは知らんが何種類か新聞くらい取っているだろう。そして、たぶん新聞はテアも見る。カイを揺さぶるならテアからだ」
それからパウルさまは、カイと仲直りできたらその時こそ愛していると言ってくれと私に願った。
──バナ伯爵邸から手紙をつけた鳥が飛んだのは、禁忌の森でのできごとから、一ヶ月後のこと。




