5. 残されて
私がやろうとしていたことは、とても単純なことだ。カイが自分を“かわいそう”な状況に追い込むことでしかテアさんを手に入れることができないと考えていて、そのために私とパウルさまを利用しようとしているのなら、そうではない選択肢を作り出せば良いと思った。
カイが幸せだろうと不幸だろうと変わらずにテアさんはそばにいるということを、カイを愛しているということを、テアさん自身から伝えてもらえれば、すべては変わると思った。
ごく単純で稚拙な発想。けれど私はうまくいくと思ったのだ。
契約魔法をなんとかごましつつテアさんと実際に会話をするまでは。
『わたしが、カイさまをお慕いしている……?』
あの禁忌の森の中で、テアさんは私の言葉にあっけにとられたように目を見開いた。私も目を見開くしかなかった。私は「あなたの心をカイさまに伝えてはいただけませんか」と願っただけなのに。彼女は首をかしげ、お慕いしているのでしょうと言い添えた私を信じられないといった表情で見返したのだ。
『まさか、いいえ、そんなことありませんよ、ヘレーネさま。わたしはあくまでカイさまのことはあるじとして大切に思っているだけです』
『テアさん……』
テアさんの目はあくまで純粋で、自分自身に対するいつわりもごまかしも微塵もなかった。「あるじとして」……それが彼女にとってすべてで、何ひとつ清らかならざる感情は混ざらない。私は自身の思い違いを知った。光たれとカイに囲われ、彼女は残酷なまでに無垢だった。
──けれど私ももはや後には引けず。
『それならそれでも良いのです。でももし、それでも、何があってもカイさまのそばにいようと思ってくださっているのなら、それだけでもどうか今カイさまに伝えてはいただけませんか』
『どう、してなのですか』
『理由は……申し上げられません。でもカイさまを救えるのはあなただけなのです』
『まさか、いいえ、それは思い違いです。それにわたしがカイさまのそばにいようなどということを決めるのではなく、カイさまがわたしをおそばに置かれるかどうかを決めるものです』
『テアさんの意思はどうなのですか』
『カイさまのご意向に従うだけです』
『すべてはカイさま次第だとおっしゃるのですか。テアさんご自身のお考えだけではカイさまのそばにはいらっしゃらないと?』
耐えきれず私は叫んだ。
『なぜそれほどまでにカイさまを拒まれるのですか!』
冷静な頭で考えれば彼女は使用人なのだからそれが当然で、拒んでいるわけではないと言われても当然の話だとわかるような、八つ当たりじみた叫びだった。
頭のどこかで、あきれられ軽蔑されるかとも恐れたが……何かが彼女の逆鱗に触れたのか、テアさんも声を荒らげた。
『そばにいる人が必要だというのなら、ヘレーネさまがそうなされば良いではないですか! カイさまはあなたのことを愛していらっしゃるのに!』
裏切り者、という声が聞こえてきそうな激しい、責めるような口調だった。
肩で息をするテアさんを前に、私はふいに頭が冷え、怯えた。裏切り者? テアさんはどこまで、何を知っているのだろう。
カイが私を云々という誤解はともかく、彼女の瞳は明らかに何かを……たとえば私とパウルさまのことなどを知っていると訴えていた。
勿論パウルさまははじめテアさんに言い寄っていたのだから、その心変わりを知っているのは当然だ。しかし、だからといって私とパウルさまの間のことがわかるものだろうか? まさか、わかるはずはない。カイはともかく、他は誰ひとり気付いていないはずなのに。でも、この目は。
私は戦慄した。もしかしたら、私はテアさんにすでに軽蔑されている人間なのだろうか。嫌われ、見捨てられている……?
ぞくりと契約魔法を押し戻す気力も失せて固まった私を恐怖のふちからすくい上げたのは、皮肉にもそれ以上に強い恐怖だった。
『…………っ!』
小さな魔獣たちと、それを追って現れた巨大な魔獣。とっさにテアさんを守らねばと魔法の媒体を差した腰のホルダーに伸ばした腕をとって駆け出したのは当のテアさんで。
『っ離して、逃げて、私囮になるから!』
『黙って!』
半ば混乱してわめく私の腕を、それでも決して離すことなく走っていくテアさんに必死についていきながら、私はとても泣きたくなった。
この人に嫌われ見捨てられるなどとなぜ思ったのだろう、このひとはどうしてこんなにもきれいなのだろう、このひとを救うためにはどうすればよいのだろう、と、いくつもの考えが頭の中を駆け巡ってゆく。
お願い、私はいいから、どうか、だれか、このひとを助けて。
救って──。
『ひっ……』
崖に追い詰められ、足を滑らせ、死を覚悟したとき思い浮かべた人物こそが、私が救いを求めていた相手ということなのだろうか。
『ヘレーネ……!』
パウルさまのあの私の名を呼んだ声、初めて触れた大きな手。
私も、おそらくはテアさんも、最期と思ったときに無意識に脳裏に描いた人物に、それぞれ生命を救われた。
けれど、テアさんを抱きとめたカイが口にしたのは、腕の中の最愛の人の名でも、神や運命への感謝でも安堵のため息でもなく。
また、理不尽で決して耐えられぬ喪失を味合わせられかけられた彼の、激しい感情が向けられたのは、彼女を落とした崖でも、すでに息絶えた魔獣でも、彼女を救えなかった私でもなく。
──『パウル』
聞こえたのは、これまでの私たちのすべてに終わりを告げる崩壊の、始まりの音。
* * *
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私は握ったままのパウルさまの手を見下ろして自問した。もはや何度目かもわからぬ、回らぬ頭で答えを出す気にもなれない問い。
──これは最悪に近い結末ではないだろうか。
カイが私とパウルさまをあの森に集め、計画していた結末がどんなものかははっきりとはわからないがか、それよりもこれが良いものだとは到底思えない。私は何もできず、失敗したのだ。
かばわれて軽傷ですんだ私と違い、私をかばった上に魔法の的として設定されてしまったパウルさまの怪我と強すぎる魔力の奔流に巻き込まれた身体への影響は大きかった。
医者はこれでも退魔の剣を持っていたからマシなのだと言うし、禁忌の森に生えていた──調査隊のメンバーがテアさんが落とした荷物を回収してくれていていた──特殊な薬草を使うこともできたために回復が普通よりも格段に早いのも確かだ。
しかし、それでもパウルさまは十日の間目覚めず、二週間経った今ようやく寝台から身を起こすことができるようになったという程度で、素直に喜ぶようなことはとてもできない。
「ん……ああ、ヘレーネ、また来てくれていたのか」
寝起きのぼんやりとした声と動かされた手に反応して顔を上げれば、とても優しい目をしたパウルさまが私を見ていた。意識のないまま王都のバナ伯爵邸に運ばれたのに付き添い、王宮や魔法省からの呼び出しが一段落した後も学園に戻らず毎日見舞いに通っていた私を、目覚めてからのパウルさまはとてもとても優しく愛おしげに扱う。
『カイが愛しているのが誰か、ヘレーネは知っていたのか?』
目覚めた日、かすれた声で私にそう問い、迷った末に小さくうなずいた私をじっと見つめたひと。カイとテアさんのその後を問うただけで、誰のこともひと言も責めず、嘆かず、口をつぐんだひと。
けれどパウルさまは喪失を、友人の不在を寂しく思っているのだろうと、そんなふうに感じるときが時々ある。目を覚ましたパウルさまがぼんやりと天蓋を眺めているときや、握っている私の手に視線をやっているときなどに。
──どうしてこんなことになってしまったのだろう。
汗をかいたからと、着替えを持ってきた従者と交代するようにパウルさまに廊下に出された私は、空をガラスと同じ十二個に切り分けている格子窓に近付き、完璧に整えられた庭園を見下ろした。
かつて、私とテアさんはあのような庭にいた。侯爵邸の庭園。
あそこはもっと広く、魔法の蝶や小鳥などの配置もずっと計算しつくされて作られていて、それゆえにどこか不自然でいびつだったけれど。
『どうしたんです、お嬢さま』
そう声をかけてくれたテアさんはとても自然で、見せかけだけのところなんてどこにもなかった。あたたかくて、純粋で、まっすぐで。
だからこそカイは魅せられ、焦がれて、光のもとで歪んだ。
──私はカイを恨むべきなのか、憐れむべきなのか、わからなくなっていた。生命を失う寸前だったテアさんを腕に抱き、怒りのままにパウルさまに大怪我をさせ、なにもかもをめちゃくちゃにして、彼女を連れて姿を消した魔法使い。
何も知らなければ、ただ恨み、憎めたかもしれない。パウルさまを喪失の恐怖と怒りだけで傷つけた青年を。だが彼は、私は。
十二に分かたれた空。遠い日、鳥かごに似た侯爵邸の窓の前に立っていた美しい少年を思い出す。
腕に目を落としても、砕け散った契約魔法の気配はすでになく。
私は指を窓のへりにかけた。この伯爵邸の窓は少しも檻には見えなかったけれど。思い切り開け放つと、すぐそばの木の枝に止まっていた鳥が驚いたように飛び立って、区切られない空の果てへ消えた。




