4. 叶わぬ夢
冬の終わりは、同時に卒業の季節の到来を告げる。
「ああ、もう春だな」
ある日、溶けかけの雪の中に生き生きとした若緑の新芽を見つけたパウルさまが、そう言って笑った。ひとつの季節の終わりや自身が離れることになる学園生活に対し寂しさや未練など残すことのない、いつでも現在と未来とを見据える目。
その目に抑えきれぬ葛藤をわずかにのぞかせて。
──けれど、何も言わずに口をつぐむひと。
卒業したら…もう会わないほうがいい。彼がそう言うべきであると考えているのはわかっていたが、そんなことは私にもパウルさまにもすでに不可能なことであった。
気持ちを口に出して確かめ合ったことも無ければ、手と手を触れ合わせたことすら無くとも、瞳をのぞくだけで──いつだったか幼い頃カイは「きみの目は、きみ自身にその心を見せる気がありさえする限り、その口よりもずいぶん饒舌だ」と私に言ったが──お互いにわかってしまうことはある。
私が欲しい幸福な未来とはどのようなものだろう。
このひとと、テアさんには曇りなく笑っていて欲しいと思う。私はパウルさまの隣りにいて、それが叶うのならば、できる限り幸せにしたいと思う。パウルさまがカイさまを大切な、もっとも親しい友人だと思っているのならば、私は永遠にそのままでいてほしいと、喪失を味合わせたくないと思う。
そして……できることならば、あのカイが自分が「かわいそう」であるか否かに関わらずテアさんがそばにいてくれて、愛してくれることを知ったときの表情を見てみたい。
中にはこのまま何もしないでただ過ごしていても叶うような願いもあったけれど──それは本当に私の欲しい幸福ではない。すべての望みを叶えるためには、考えなくてはならないことがたくさんあった。
『誓いを』
何年も何年も前、私の指先からポツリとこぼれた血を白い手のひらで受け止め、契約魔法の光に悪魔的に唇を歪ませた少年。私をあの「家族」から救い出し、幸せになれるように守ってあげると言った綺麗なカイ。
彼があのとき私に誓わせたのはみっつのこと。
テアさんが心配しないくらいに健康になること。
テアさんと自分から不必要に親しくしないこと。
テアさんに彼の持つ“醜い心”を悟らせないこと。
ばかばかしい約束。けれどもそれは見えない魔の枷と鎖となり、私とカイを繋いでいる。幼い頃、カイのみでなく侯爵邸の人々相手にもすくむことなく会話ができるようになってからでさえ、私はテアさんの前ではほとんど何も言えなかった。言葉を忘れてしまったかのように、話そうにもろくに言葉が出てこなくなってしまうのだ。
契約魔法というのはそういうもので。
だから、おそらく……今もそのままなのだろう。
何年も会っていないテアさん。魔法とカイの目を盗み、会って、話をすることなど私にできるだろうか。私に何かを変えることが。
でも、カイをどうにかできるのは、カイの何かを変えることができるのはテアさんだけだ。そしてカイを変えなければ私の願いは叶わない。これだけは絶対に確かなこと。
だから。
カイとパウルさまの卒業式の日、私はカイをまいて祝賀会を抜け出し、テアさんのもとへと向かった。ひとつのことを願うために。
「……テアさん」
荷物を馬車に詰め込んでいたテアさんは、突然かけてしまった私の声に驚いて、抱えていた小包をいくつか取り落した。大人になったテアさんは、どこか傷ついたような顔をしていたけれど、金茶の髪は相変わらずあたたかな陽光を淡くまとっており、瞳にはまごころがこもっていた。
『ぼくの唯一の光』
カイがそう呼び、あれほど焦がれるのもよくわかる人だと、あらためて思った。あの幼い日、私に光を思い出させてくれたひと。ほんの少し言葉を交わしただけでも、会わなかった数年の間に彼女の魅力を損なうものは何もなかったのだとわかる。
テアさんのカイを想う気持ちに変わりがないことも。
カイは自分の彼女に対する感情を、卑しい、醜いものだと言うし、確かに彼自身は歪んでいるが、彼が執着し深く愛する彼女はとてもきれいだった。
私は彼女に話そうとした。契約魔法の影響でちらばる言葉を探すことがとても困難だったが、親しくなるためでもカイの不利になることでもないと頭の中で繰り返して、必死に言葉をかき集めて。
けれど、何ひとつ話すこともできないまま……。
「ああ、こんなところにいたんだね。……迎えに来たよ、ヘレーネ」
よくできた人形のような笑みを浮かべながら手を差し出したカイに連れられ、私はテアさんのもとから離れることになってしまったのだった。
私をテアさんのもとから引き離したカイは、祝賀会の会場にたどり着く前に冷たい枷のような手を外し、立ち止まって「困るよ」と言った。珍しく魔法師のローブでも制服でもなく華やかな式服をまとったカイから人形の仮面が滑り落ちると、むしろそれがゆえに魔法使いらしさが際立った。神の手によって闇に近しき力をもつ存在としてつくられしもの。
「困るよヘレーネ……。どうして急にテアに会おうなんて考えたんだか。約束を忘れたの?」
「っ……あなたの目を盗むようにして故意にお会いしたことは謝罪しますわ。でも親しくなろうとして近付いたわけでも、あなたの劣情をばらそうと思って近付いたわけでもございません」
「ならなぜ?」
「…………」
口をつぐんだ私を見下ろし、カイさまは「まあ、いいけれどね」とつぶやくように言ってきびすを返した。私の耳に残ったのは悪魔じみたささやき。
「何をしようとしているのかは知らないけれど、ぼくを出し抜けると思うのならばやってごらん、ヘレーネ……」
──学園に残った私がテアさんにふたたび会うことができたのは、それから約一年後のことであった。
深い緑と瘴気に包まれた禁忌の森の中。
植物採集のため学園の代表として参加した調査隊の中に魔法省代表のパウルさまと王室付魔法師のカイ、そしてその付き人としてのテアさんがそろったとき、私が感じたのは偶然でなく故意の力であった。
魔法省の代表者が剣技に優れるとはいえ、特に魔に詳しいわけでもないバナ伯爵パウルである必要もなければ、王立学園の代表が、魔法薬学主席とはいえ最高学年でもなく身を守るすべをろくに心得ているわけでもない私である必要も全くないはずだったから。
「久しぶりだな。ヘレーネ」
何ヶ月かぶりに顔を合わせたパウルさまは私に笑顔を向けてくれたが、その表情からはあるかなきかの憔悴が見て取れた。
卒業式のあとに流れていたのは少なくとも表面上はどこまでも平穏な日々であったが、何ひとつとして進展させることができずに私がじれていたのと並行するように、パウルさまにとってこれまでの時間が友人への裏切りという罪に──たとえ気持ちを告げたわけでも私に触れたわけでなくとも──苛まれる日々であったことは疑いない。
そして、カイにとってはおそらく……。
「やあパウルにヘレーネ」
「ああ、カイ。しばらくぶりだな。テアを連れてくると聞いたときには驚いたぞ。危なくないのか?」
「ぼくにできるかぎりは危なくないようにはするよ」
これまで、カイは私とパウルさまの間に育まれている感情の存在に気付いていたようだったが、未だどこかでパウルさまがテアさんに思いを残していると疑っているのか、テアさんがパウルさまに対してなんらかの思いを抱いていることを案じているのか、なにか行動を起こす様子はなかった。
だからこれははじめての行動である。見たところ、やや離れた場所で老学者と話しているテアさんを見守るカイの眼差しに本気の心配があることから、テアさんがいることだけは偶然なのかもしれなかったが。
「どうしたの、ヘレーネ」
「……いいえ。べつになんでもありませんわ。今日はよろしくお願いいたします、カイさま」
「ああ、そうだったね。よろしく──ふたりとも」
いつも通りの人形の笑みを浮かべるこのカイこそが、この結論の出ない日々に飽いて、私とパウルさまを調査隊に集めた張本人であることを私は疑っていなかった。
彼自身のみが望む未来のために、この生ぬるい、表面だけは平穏な関係を終わらせるための舞台に、私たちは招かれたのだ。
けれど、そんなことはさせない。思い通りには。
私はカイの筋書きから逃れるために、パウルさまに頼んでテアさんを呼び出し──……。崩壊の音を聞いたのだった。
「パウル」
あの呪詛そのものの響き。幼いカイの紡いだ契約魔法の鎖すら弾け飛ぶ魔力の奔流。彼の光の生命を奪いかけた私達に向けられた憎悪にも似た憤怒の瞳。
……私は、とっさの状況で私のみを救う選択をした伯爵へとカイの魔法か叩きつけられるのを、ただただ呆然と目を見開いて眺めていることしかできなかった……。




