3. 冬の中で
バナ伯爵パウルというのは、とびきりのお人好しで、明るくて、裏表がなくて、でも馬鹿ではない人物だった。その整った目鼻立ちとは無関係に人を惹きつけてやまぬ──つくりものじみた完璧さを演じるカイとはまた別の──本物の魅力を持つ年上の青年。
「と、すると……ヘレーネが寮のそばに時々物思うようにただずんでいるのはテアに会いたかったからなのか? カイに会うためではなく?」
「ええ、まあ」
ま白い冬の中、ひと目を忍ぶように黒い木々に隠されたベンチで、私たちは時折待ち合わせて話すようになっていた。私は陽光によって輝く彼の性質そのもののような髪に目を細めた。
「会いたい、というよりひと目だけでもお姿を見たかったんですわ。どうしてらっしゃるのかと」
「ははっ、まるで引き裂かれた恋人だな」
「思いきり片思いですけれどね」
「ほお?」
「テアさんがわたくしに会わせてくれとおっしゃれば、カイさまはこばめませんもの」
内心どう思っていようと──いや、テアさんの望みを叶えることならばむしろ唐突な歓喜すらにじませて、ばかばかしいほどに素直に彼女の前に私を押し出すだろう。私が会いたがっているか否か、私の意思など全くおかまいなしに。
『彼女はぼくの唯一の光だよ』
あの歪みきった男。あのろくでなしはテアさんに頼ってほしくて、何かを願ってほしくて、自分の愛人呼ばわりされているのを放置したり、彼女に目をつけた男たちのうちほどほどにたちの悪いものを選んでを泳がせたり、その上で本気で彼女に手を出そうとして返り討ちにあった者を陰湿に不幸におとしいれたりなんて馬鹿なことをしている人間だ。
そんな中にいるテアさんは……。
「どうした」
ハァとため息を吐く私をパウルさまが見下ろす。
「べつに、何でもありませんわ」
「そうか? しかし……何だな。カイにもそんなところがあるが、ヘレーネもずいぶんとうわさと違うところがあるな」
「うわさ話を安易に信じる方だったとは存じませんでした」
「や、そういうわけではないつもりだが……ああ、以前はヘレーネについては信じていたかな。しかし本物に接すると思ったよりお転婆で……つくづく当てにならないものだ」
「ほっといてくださいませな」
足を踏んづけてやってもこの伯爵はくっくっと楽しげに笑うだけだ。
「氷人形か。もはやぜんぜんそうは見えないな」
「べつにわざわざ冷たくしているわけではなく、たいてい自然にそうなってしまうだけですわよ。表情が固いのは子供のときからですけれど。とにかくわたくしは貴族なんて生き物はだいたい嫌いですから」
「カイもか?」
「カイさま? そうですわね、嫌いではないですけれど今となってはべつに好きでもないようなやはり嫌いなようなというか迷惑というべきなのか……。そばで見ている分にはとてもおもしろい部類に入ると思うのですけれども」
あまりそば過ぎると被害を被るので要注意である。あの幼い日、カイにはっきり「テアさんはあなたを想っている」と伝えなかったがゆえに、ここまでテアさんと引き離されるとは思っていなかった。今言っても何かの作戦だと捉えられて終わるだけだ。
「あら……そういえば」
この人も被害者なのかその予定ではなかったかとパウルさまを見上げる。理由は無論──。
「テアさんとは最近どうなんですの?」
「どうとは?」
「お好きなんでしょう」
おや、と意外そうに眉が上がる。
「よく知っているな」
「カイさまにうかがいまして」
「ああ……なるほどな。何か言っていたか」
「え、ええ、まあ、ええと」
邪魔とか虫とか呪うとか色々言っていた気はする。思い返すとパウルさまのほうを応援したくなってしまうのはなぜだろう。
しかしテアさんに本格的に手など出して敵認定されれば、うちの異母兄のように不幸になってもおかしくない。いや、本気で彼女がパウルさまを選べば違うのだろうか。……答えは本人すらわかっていまい。それにそんなことは、ありえないことだ。
あのテアさんがカイ以外に心を寄せ、その隣を選ぶなんて。
これまでのカイの話などを聞いている限りでも、テアさんがパウルさまに抱いているのは友情か、弟相手のような親しみだ。
さて、それで、カイはこのひとに言って差し支えないことなんて何か言っていただろうか。呪うとか虫以外に……ああ、あと私に“ふさわしい男”…だとかなんとか。
言えないじゃないの。
「なんだ、怖い顔して赤くなって。カイのやつめ、そんなにおかしなことを言っていたのか。相変わらずあの姉代わりの小間使い殿のことになると愉快なやつだ」
あの顔と外面と頭脳と魔法の才能以外に褒められるところなどなさそうなカイ相手に──カイはよそ行きの仮面をかぶったままのようであるとはいえ──友人関係らしきものを築けている上にテアさんを姉代わりと信じ込み「愉快なやつ」呼ばわりできるのは、パウルさまくらいなものだろう。
「……まあ、とにかく、テアさんとはどうなのです」
「どうもなにも……どうかな」
パウルさまは私のごまかしを受け入れ、私の足の下から抜き取った足を組み替えて顎に手を当て、目を細めた。視線は寮の方を向いている。
「…………」
「………………パウルさま?」
いつのまにかすみれ色の瞳が自分に向けられていたのに気付いて、私はぱちぱちとまばたいた。「いや……」と考え深げな視線。そして。
「今は……まだよくわからんな。わからんままにしておいたほうがいいのかもしれん。ヘレーネは卒業したらカイの妻になるんだろう?」
「このまま行くとうっかりそうなりそうでもありますわね」
「ははっ、やはり変な令嬢だ」
パウルさまは頭をそらして笑った。自らが見出した小さな光を最も美しく見ようとするがためにもがくこともせず、好んで闇に沈むことを選択するようなカイとは正反対の、陽光に満ちた空を往く風のような青年。闇の中でこそ太陽のようにあたたかく輝くテアさんともまた違うまばゆいひと。
私はカイが言わんとしていたことがわかった気がした。このひとはたぶん、私を光の中に置いてくれるひとだ。楽に呼吸をさせてくれるひと。
「ヘレーネ」
「はい?」
パウルさまは笑いと光を踊らせた少年のような目で私を見た。
「明日も来るか」
私は……。
「ご用があるなら」
あまりのまばゆさに、息が止まってしまいそうだと、そう思った。
冬の間、学園にはしんしんと音も立てずに雪が降り積もり続け、その年の冬季休暇中学園に残ることを選んだ私とパウルさまの中にも、何か不思議なあたたかさのあるものが降り積もっていった。
心を満たしてゆく、あたたかくて、ふわふわしていて、苦しいような感情。
「ところで私も貴族だが」
「はい?」
「ヘレーネは貴族は好かないんじゃなかったか」
「あら『だいたいの貴族は』ですわ。中には例外もおります」
「ああ、カイとかな」
「そう、カイさまとかです」
何も決定的なことを口に出さない会話。けれど無論、私もパウルさまも、お互いの心の中に満ちる同じものの存在をわかっていた。それでも。
「なあヘレーネ」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
パウルさまはそれを口や態度に出すことは親友に対する決定的な裏切りだと考えていたようだし、そんなふうに友人について真剣に考えている彼にその友人の心理の歪みを、異常性のようなものを説明することは、私にはなかなかできない、踏み切れないことであった。
──たとえ、それがパウルさまを余計に苦しませるとわかっていても。
『心配しないでもそのうち捨てられてあげる』
もう何年も前、許嫁関係についてそう言ったカイ。彼のテアさんへの偏愛と、それによってこれっぽちも好いていない私を自らの許嫁として縛っていることを、カイの私への贈り物のすべても私を思ってのものではないことを知れば──その真っ直ぐな性格上何かひとつ話せばすべての話を要求するであろう──パウルさまは怒るに違いない。たぶん、怒ってくれるのだろう。
だが、そうすればあとはカイの思うがままだ。
私はおそらく昔からカイが自分の中に飼っている破滅願望的なものの中身を、当人であるカイ以上に正確に理解していた。
パウルさまの一瞬の怒りを永遠の決裂に変えてしまうなどという芸当はおそらくカイにはたやすいことで、一度罠にかかったが最後、私たちには彼の筋書きの中で踊る以外の選択肢はなくなってしまう。
そして、そのうち社交界には何がどうなったか「ある貴族令嬢と若き伯爵の純愛と、ふたりの心を知って身を引いた幼いころからの令嬢の許嫁にして伯爵の親友の貴公子の物語」なんてものが美談として流れ……やがて他の数々の恋物語と同じように時のくずかごに捨て去られてゆくことになるのだ。
それはきっと絶妙にどちらも同情される筋書きで。
忘れないのは当事者である恋人たちと、傷心のためとか何とか言ってどこぞの田舎にでも引きこもるであろう貴公子の、そのかたわらから決して離れぬであろう年上の使用人ひとりのみ。
『カイさま』
自分を亡き姉君の代わりだと信じて疑わない彼女は、恋に敗れた哀れな貴公子に、それはそれは優しく甘く接することだろう。彼女の世話する天使のような貴公子の本性が悪の魔法使いで、歪みきった真の姿を美しい皮の下に隠しているなどと想像もせずに。
そして良心など持ち合わせていないカイのみが、同情ゆえだろうとなんだろうと、彼女が自ら選択して自分のそばにいてくれて、自分のことばかりを考えてくれる状況に満足の吐息をもらすのだ。
この予想が頭の中に現れたとき、私は、できればそんな自分やパウルさま、テアさんや、おそらくカイ自身にとっても真に幸せとはいえないような未来は回避したいと思った。
私は、幸せがほしいと思ったのだ。あの幼い日、カイが私に与えようと言った“幸せ”ではなく、私自身が掴み取る“幸せ”が。
だから学園の冬が終わろうとしている中で、私ははじめて自らが置かれた状況から脱却するために悩み……やがて未来のためにひとつの決意を固めた。




