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魔法使いと鳥かごの花  作者: 水月 裏々
○ テア ──なにひとつ知らず──
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1. ふたり

 傷付かなかったといえば、嘘になる。


「ヘレーネ……!」


 わたし達を断崖まで追い詰め、落ちるきっかけを作った魔獣が一刀のもとに斬り伏せられ、ひとりの男性がこちらに腕を伸ばすのを、わたしは呆然と見ていた。

 以前わたしをあれほど好きだと言った唇がわたしではないほうの女性の名を呼び、よく私に花をくれた手が迷いなく私のものではない白くて細い綺麗な手首を掴む。


 ──でも、わたしが傷付いたのは、だからじゃない。


 断崖から足を滑らせたのは私も彼女もほぼ同時だったが、ふたりのうち片方はそのまま落ち続け、もう片方は伸ばされた手に救われる。綺麗な女性の声が、自分にかけられたのと同じだけの愛しさと切なさを込めて男性の名を呼んでいる。ふたりだけの世界。


 でも、わたしがこんなにも泣きたくなったのは、だからじゃない。


 短い呪文が響き、濁流にも似て強く、しかし決して肌を傷付けることのないあたたかな風が下から吹き上げ、魔法の性質そのものの腕がわたしを抱きとめた。風で解けてしまったらしいわたしの髪が、体にほんのわずか遅れて金褐色の滝のように降ってくる。

 顔にかかった髪をはらってくれたのは、わたしのものより確実に美しく白い指。


 わたしがこんなにも泣きたくなったのは……


 その優しい指と腕の持ち主がこの残酷極まりない場に現れてしまったという事実と、それによってこのひとが受けることになった衝撃と心の傷の大きさがありありと予想できてしまったためなのだ。


「カイさま……」


 私は震える声でこのふたつ年下の魔法使いの名を──私のあるじの名を呼び、その顔を見上げて息を呑んだ。彼がこちらを見ていたからではない、そんなことをされたらショックで心臓が止まってしまっていただろう。初めて見る表情の彼は幸いなことに、もう腕の中の私など見てはいなかった。

 なんとしても彼にケチをつけたい人間たちが、それ以外に欠点が見当たらないことを暗に認めてしまっていることにも気が付かず、口を揃えて「生きている感じがしない」と語る完璧な白皙の美貌は今、生者以外の何ものにも見えない峻烈な表情を浮かべていた。青緑の瞳には信じられないほどの怒りがたたえられ、視線は崖上のふたりへと固定されている。

 怒りに震える長い指が体に食い込んで痛いくらいだった。

 でも、そんな痛みがなんであろう。

 たとえ彼の美しい爪がわたしの肉をえぐったとしても、彼自身が今感じている心痛には到底かなうまい。そばにいるだけで総毛立つほどの鬼気。


「パウル」


 よく響く、だが恐ろしいほど感情を抑えた声で、彼は自らの親友の名を呼んだ。親友だったはずの──自らの許婚(いいなずけ)をその腕に納めている崖上の男の名を。


 そして、それが合図で、魔法の的の名だった。


 世界が崩壊するかのような轟音を聞いて、ようやくわたしは彼がわたしを助けるための風をおこしたあと、ずっと長く強力な呪文を口の中で唱え続けていた事を知ったのだった……。




 * * *




「最年少王室付魔法師カイ失跡から二週間……禁忌の森調査中に突如起こったとされる謎の事故……魔法の暴走か……大怪我を負ったバナ伯爵パウルとクシ伯爵令嬢ヘレーネとの関係についてのあやしいうわさ……。ねえ、まだ魔法師カイさま関連のニュースが載ってない新聞はないの?」


 ざっと目の前に並べられた何部かの母国語の新聞の見出しを拾い読みしたわたしは、途方にくれながら、これらを持ってきてくれたワシを見上げた。しかしそんなことをされても、辺境に住む人々に新聞を売って回るように魔法をかけられただけの鳥は、台所の窓枠に留まったまま首をかしげてみせるだけである。


「そう……まあ、いいわ。じゃあその端から二番目のを一部くださいな。お金はええと、この硬貨が三枚だったかしら? あっ二枚でよかったの? ありがと」


 残りの新聞を器用に自分のカバンにしまい込んで力強く飛びたったワシの新聞屋を見送って、まだずっしりとお金の入っている巾着袋を棚に戻す。それはこの小さな家──ただしこれはカイさまにとっては、である──に来たときにとりあえずと手渡されたものだったが、異国語の書かれた数種類の硬貨のそれぞれの価値は、わたしには今ひとつわからない。

 いつも通り新聞からさっとカイさまに関係のある記事を抜き取って、きれいにアイロンがけをする。それからこの新聞は、朝用にいくらかのハーブをブレンドしたお茶と一緒にお盆にのせられ、わたしにつれられてカイさまの寝室に向うのだ。




 この館は、たしかにカイ様のような貴族の大邸宅で育った方々からすれば、非常にこじんまりとしたものである。台所についている食材部屋ではないほうの扉を出れば食事室につながり、食事室はさらに広々とした居間と玄関ホールへとつながる。他に一階にあるのはバスルームとわたしの寝室、それから洗濯室と物置部屋くらいだ。

 二階は完全にカイさまの空間である。玄関ホールの優美な手すりのついた階段を上っていけば、小さな浴室のついたカイさまの寝室の他に、書斎と実験室へとつながる扉が並んでいる。短い廊下の奥には、バルコニーへと続くガラス入りの扉もあった。


「カイさま」


 私は少し考えて、寝室の扉を叩いた。ときどき書斎や実験室で夜明かししてしまうカイさまだったが、今日は寝室で休まれているはずだ。うん、昨日の夕食はちゃんと降りてきてくれたから……たぶん。

 返事のない扉を開けて中に入ると、すぐに予想が当たったことがわかった。カーテンの隙間から射す陽光によって、大きな寝台に横たわる人の姿が見える。

 ──とはいえ、わたしのこの手の予想が外れたことはない。あんまりにも当たるので、カイさまはいつもわたしの予想を先回りして、わざとそこにいてくれているのではないかと思うことさえ時々ある。

 積まれた本やなにかの資料を避けてテーブルにお盆を置き、カーテンを開けていく。シーツと同化するのではないかと思うような透き通った肌と、そこにまとわりつく青みがかった黒髪、彫像のごとき……それも千年に一度の才を持つ名工にしか掘り出せぬような……美貌。それらがあらわになり、伏せられていたまつ毛がゆっくりと上がって、青緑色の瞳が眩しげにわたしを見上げた。


「おはようございます、カイさま」


 ほほえみかければ、美しい顔にも鏡写しのように淡い微笑が広がる。


「おはよう、テア」

「さ、早くお顔を洗っていらっしゃいまし。今日もワシさんが新聞を運んできてくれましたからね。あ、朝食は何がよろしいですか?」

「いつもと同じがいいな。トーストとすぐりのジャムと……ああ、それから、ゆでたまごが食べたいかもしれない。でもテア……」

「ゆでたまごですね、とろっと半熟の? 承知しました。着替えて支度をして、いつもの時間になったら食堂に降りてきてくださいね」 

「……うん、わかったよ、テア」

                                            

 でも、となおももう出会ってからの十一年で何百回も言った上に、数十回はじっくり話し合ったはずのセリフをまた口にしようとしているカイさまをバスルームに追いやり、わたしは再び台所へと向かった。

 十一年前、八歳のカイさまが十歳のわたしに出会い、名を知ってすぐのころから、そのセリフは彼の口癖となっていた。


『でもテア、ぼくはきみにそんなことをさせたいわけではないんだよ』


 でも? でもカイさま。わたしは階段を下りながら小さく笑った。

 わたしは庭師の娘で、ただの使用人で、あなたとは何もかもが違うんです。幼いころからあなたが与えようとしてくれた、綺麗なドレスも宝石も教育もなにもかも、わたしには分不相応でしかない。


 ──わたしはあなたの本当の姉になんか、なれないのだから。

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― 新着の感想 ―
[一言] 第一話の書き方がとても美しくて(あっ,素敵…)と思いました。 サクサク読んでドンドン展開していく単純明快なのが好きな方にはウケなさそうですが、ワンシーンが丁寧に書かれている感じがこれからを…
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