3-31 雨宿りと、コーヒーの温もり
御門善弘が警察で事情聴取を受けていた頃、白倉市内の某所にて。
局地的な土砂降りにより増水した川は荒れ狂う。そんな河川敷で一人の男が橋の下でボロボロのブルーシートに座り雨宿りをしていた。
(そろそろ、か)
ホームレスの男はこの先何が起こるのかすべて知っていたが、特に思う事は何もなかった。
自分が殺した老人にも人生があったのだろう。精神が狂う人々は元々悪意を抱いていた者ばかりで、笛と鼓の音を聞かなくても平気で法を犯すような人間ばかりだ。彼もまたそうだったという事がせめてもの救いだろうか。
だがそれでも殺していい理由にはならない。ゾンビが蔓延る世界でならばともかく自分のした事は殺人にほかならないだろう。
しかしもう彼は何も感じなくなっていた。機械的に役割を全うし物語を進める。それが自分に課せられた使命なのだ。
彼はコーヒーを飲もうとポケットの中をまさぐる。だがちょうど切らしており男は舌打ちをした。
金はあるので自動販売機に行って買えばいいだろうが、この夕立の中ずぶぬれになるのも嫌だ。
カフェインが恋しいものの自分には時間は無限にある。急ぐ事もないだろうと、ため息をついて彼はブルーシートに寝転がり瞳を閉じた。
「あのー」
けれどその時少女の声が聞こえ、彼は目を開く。
どこか不安げな少女はホームレスの男の顔を覗き込み、彼はひどく困惑してしまった。
この世界で彼女と自分は赤の他人のはずなのに、なぜ……。
「これ、どうぞ」
そして少女は――柴咲一花は缶コーヒーを手渡す。男は戸惑いつつ受け取るとその手にじんわりとした温かさを感じた。
「何のつもりだ。お前みたいな華の女子高生がこんなみすぼらしい男に声をかけるだなんて」
「すみません。けど、いつもあなたはここにいますし、川も増水しているからなんか心配で」
「……………」
その信じられない優しさにホームレスの男は言葉を失う。誰も視線を合わせない社会の外側にいるゴミのような自分に愛を与えてくれるだなんて。
だが同時に納得もしてしまう。彼女は誰よりも優しい柴咲一花という人間なのだから。たとえ生まれ変わってもその魂の本質が変わる事はないのだ。
「まあ、くれるのなら貰うが……」
男は動揺を隠し缶コーヒーのプルタブを開ける。口にしてから振るのを忘れた事に気が付くが、もう遅かった。
ああ、なんと美味いコーヒーだ。過度に甘く胸の奥まで熱くなる。雨で冷え切った自分の身体は芯から温まってしまった。
「あ、コーヒーで良かったですか?」
「構わない。だが何故コーヒーにしたんだ」
「えと、なんとなく」
彼女にも、どうして水でもお茶でもなく缶コーヒーにしたのか明確な理由はわからなかった様だ。
きっと特に考えていないのだろう。この選択に深い意味はない。彼女は自分の事を覚えているはずがないのだと男は必死で自分に言い聞かせた。
「礼は言うがとっとと帰れよ。最近は物騒だからな。あとこんな目つきが悪くてあからさまに訳ありな人間に声をかけるものじゃない。普通の人生を送りたければ俺みたいな連中と目を合わせるな」
ホームレスの男はそう忠告する。だが彼女は不思議そうな顔をして、
「でもあなたは何だかすごく優しい目をしています。悲しそうな目もしていますけど……」
と言ったので、ホームレスの男は彼女から目をそらしてしまった。
その純粋な瞳が直視出来なくて。彼女は本当にあの頃と何も変わっていなかったのだ。
「まったく。とにかく帰れ。あともう俺には構うな」
「はい、すみません」
ホームレスの男は柴咲一花を突き放す。これでもう二度と話しかけてこないといいのだが。
そうであってほしかった。そうでなければ自分の精神は崩壊し狂ってしまうのだから。
自分はもう愛など求めない。それらは弱さとなりこの世界を護るという使命の邪魔になるだけなのだから。
彼は缶コーヒーを飲み干し濁流を眺める。ゴウゴウと音を立てて荒れ狂う川は、当分元に戻る事はなさそうだ。