3-16 鈴木みのりの過去
――鈴木みのりの視点から――
バスを出た僕は駐車場を出て意味もなく海を眺めていた。
ううん、違う。僕はこの美しい海を眺めに来たのではない。ただ独りになりたかっただけだ。
だけどしばらく経ってから、僕のあとを追いかけてきたお節介なロボットが隣にそっと現れてしまう。
「人は悲しい事があるとどうして海を眺めるのでしょうか?」
「虚しい気持ちになれるからだよ。少なくともこの圧倒的な孤独に包まれたら、人と関わる事で傷つき疲れる事からは解放されるから」
「成程、ロボットのワタシにはわかりません。でもそれはきっと悲しい事なのデス」
ナビ子ちゃんはしょんぼりとして、それっきり何も言わず僕に寄り添ってくれる。ただ少しだけ申しわけなさそうにポツリとこう言った。
「ナビ子はお邪魔でしたか?」
「いいよ。ナビ子ちゃんは特別だから」
「そうデスか」
僕はそう言ったけれど、ナビ子ちゃんは何故か喜ぶ事はなく複雑そうな表情になってしまった。
「では、ヒロさんとつるぎさんのお二人は特別ではないと」
「昔は特別な親友だった。でも今はもう他人だからどうでもいいよ。時間が経つってそういう事なんだよ」
「そういうものなのデスか」
「そういうものだよ」
そして沈黙。日本海の波は激しくうねり、ドロドロとした毒沼のように澱んでいた。あの中に飛び込み、人間としての一切のしがらみを捨て手足を切り落とし魚になれたのならばどれだけ幸せなのだろうか。
「ううん、嘘。やっぱり少しは悲しいかな。もうあの世界の事は忘れたつもりなのに、あんな情けないヒロの姿を見せられたらやっぱり心が揺らいじゃうよ」
「でも、人間ってそういうものデス」
「そういうものなのかな」
「そういうものデス。ナビ子は人間ではないデスけどね」
あっけなく本心を吐露してしまった僕に、ナビ子ちゃんはようやく嬉しそうな微笑みを見せてくれる。
やっぱり僕の知らない僕自身の事まで全部を見通していたナビ子ちゃんは、よっぽど人間らしいと思うよ。
「ちゃんと話した事なかったよね。向こうの世界での、僕の事を」
それは僕がずっと心の中に蓋をしていた暗い過去。そして向こうの世界に捨て去った現実。あの記憶はこの安らかな絶望に満ちた世界では不要なものだったから、あえて思い出さないようにしていたけれど。
「無理しなくていいデスよ、話したくなければ。それはきっと辛い事なのデスよね」
そう気遣ってくれる、どこまでも優しい親友に僕は頑張って笑みを向けた。
「ありがとう。でもナビ子ちゃんには聞いてほしいから」
そして僕は勇気を振り絞り、あの世界の日々を語りだした。
「僕が子役タレントで音楽活動をしているっていうのは話したと思うけど、当時はそれなりに有名人だったんだ」
天才ギター少女、鈴木みのり。自分で言うのもなんだけど僕は日本中で知らない人間がいない程度に知名度がある芸能人だった。
「よくあるママ友同士の付き合いから始めたパターンだったけどね。元々僕は引っ込み思案で芸能活動にそこまで乗り気じゃなかったけど、歌は好きだったからそれなりに楽しかった。最初は鳴かず飛ばずだったけど島根県でやっている有名なミュージカルで主役に大抜擢されてからは忙しくなったね」
「ほへー、凄かったんデスね」
そのミュージカルは環境問題を題材に扱った作品で山陰に住む人間なら誰もが知っているミュージカルだ。全国的な知名度もそれなりにありそこからプロの役者になる人もまあまあいたりする。
「思えばあれが一番楽しい仕事だったなあ。余計な事を考えず楽しみながら歌っていればよかったから。でも、仕事が増えて有名になったせいで色んな問題が起こったんだ」
あまり話したくないけれど話さないといけない。ナビ子ちゃんに僕の事を知ってもらいたいから。そして僕自身が話す事で楽になりたかったから。
「お母さんは最初、そこまで子役活動をさせる事に本気じゃなかったけどだんだん僕よりも熱心になった。いや、妄執するようになったのかな。まず路線を意識して、一人称を僕に変えさせてボーイッシュな見た目にした。バシッと需要にハマったおかげで僕はもっと仕事が増えて、クールビューティーで中性的な魅力がある鈴木みのりっていうタレントが生まれたんだ。虚構で塗り固めたありきたりなつまらない歌ばかりを歌う子役崩れの芸能人がね」
それは僕の暗黒時代。大型音楽特番の舞台セット上にいたのは人型のジュークボックスと成り果てた鈴木みのりという少女だった。
スポットライトに照らされた鈴木みのりは売れっ子の人が作った量産品の歌を歌い、客席に座っている書き割りのような人々はそれに喝采を浴びせる。まったく、どうして視聴者の人もあんな死んだ目をした子供を持てはやしたのだろう。
僕は舞台上からはけてセットの裏側に移動する。煌びやかなセットも裏側は剥き出しの木材で、狭い通路には資材が散乱し薄暗かった。
感動に浸る事なく僕は次の現場に移動する。カロリーを摂取するためだけにケータリングを腹に詰め、お母さんと一緒にタクシーに乗りそこから去っていったんだ。
「僕はだんだん歌う事が嫌いになったんだ。男の子みたいな格好も嫌だった。本当はもっと髪を伸ばして可愛い服を着たかった」
ナビ子ちゃんは黙って話を聞いてくれる。とてもじゃないけど彼女の顔を見る事が出来なかった。
「僕が稼いだお金でお母さんはブランド物をたくさん身に着けるようになった。付き合う友達にも口を出したせいで友達は一人もいなくなった。オトコオンナって虐められるようにもなった。僕は寝る暇もなく働いて学校にもあんまり行けなくなってさ、普通の生活をさせたいお父さんはお母さんと毎日喧嘩をするようになって結局離婚しちゃった。僕のせいで家庭は滅茶苦茶になったんだ」
「……それは、みのりさんのせいじゃないと思います」
だけどナビ子ちゃんはその後の事を言わなかった。普通は悪いのはお母さんだと言うしかないのだから。
僕はその事をあえて口にしなかった。何故なら僕にとってお母さんという単語はまるで悪い魔法使いのように、その名を呼ぶ事すら忌避すべき言葉なのだから。
『いい加減にしろ! みのりが可哀想じゃないか!』
『何言ってるの! 今が一番大事な時期なのよ! みのりの夢を奪わないで頂戴!』
『お前がちやほやされたいだけだろ! それだけじゃない、みのりの稼いだ金を勝手に使い込んで! お前はそれでも母親か!』
『ええそうよ、私は母親なんてつまらないものじゃない! 私はどこにでもいる主婦なんかじゃなくてマネージャーなの! 今を時めく鈴木みのりの敏腕マネージャーなのよ!』
家の中は毎日のように怒鳴り声が聞こえたけど一番きつかったのはお母さんのこの言葉だった。もうお母さんは僕の事を娘として見なくなっていたのだ。
いつしかお母さんは料理を作らなくなり、添加物で味を誤魔化したコンビニやスーパーのお弁当を僕は独り、吐きそうになりながら毎日食べていた。
「それで、ヒロと出会ったのは向こうも荒んでいた頃だった。あの頃のヒロはガキ大将で虐められた僕を助けてくれてね。ヒロの家も問題を抱えていて、なによりヒロは鈴木みのりの事を知らなかったから友達になれたんだ」
「へえ、随分と情熱的な方だったんデスね」
「今は見る影もないけどね。何があったんだか」
僕はヒロと再会した時の事を思い出した。飲まず食わずで疲れていた事もあるのだろうけど、ヒロはひどくやつれ、不健康そうで、バタフライナイフに頼らないと喧嘩が出来ないほど非力そうだったからまあまあびっくりしたよ。
「それで毎日ヒロと、つるぎちゃんと一緒に遊ぶようになってさ。二人と居る時は鈴木みのりを演じず、ありのままの自分でいられたんだ。だから結構楽しかった。けど今言ったように関係を知ったお母さんがヒロを怒鳴り散らしてね。特にヒロは素行が悪くてお父さんもちょっと問題を抱えていたから。だけどそれでもヒロたちは僕の友達でいてくれたんだ。それがどれだけ嬉しかった事か」
「いい人じゃないデスか。あれ? でも、それならどうしてこんな事に?」
「うーん」
僕は少し考えこんで、こう言った。
「ただのくだらない意地だよ」
「意地、デスか」
「そう、人間が持っている、あらゆる道理を無視する最も非生産的で無意味な感情さ」
僕はバスの中にいるヒロに思いを馳せる。
折角会いに来てくれたのにひどい事を言っちゃったかな。でも、確かに僕も悪かったけどヒロだって。
ううん、これが無意味な思考だって事はわかっているんだけどさ……。