6-32 その手を離さない
そこは、世界の狭間にある場所。
時間も空間も存在せず、果てしなく虚無の宇宙が広がる世界。
その世界はあらゆる生きとし生けるものが存在する事を拒絶し、もし哀れなる何者かが迷い込んだ場合闇に飲み込まれて容易に消え去ってしまうだろう。
そこに人間が愚かにも立ち入ってしまった。
希望は漆黒の世界によって一瞬にして奪われる。世界は彼らを概念から存在する事を否定し、意識は瞬く間に霧散してしまう。
(ナビ子ちゃん……ヒロ……つるぎちゃん……)
みのりは肉体が消えゆく中で親しい人間の名を念じて自我を保とうとした。しかしそんな事には何の意味もなかった。
(生きたい。生きたい。生きたい。あの世界に、帰るんだ……!)
みのりは闇に飲み込まれながらもなおも懸命に抗う。たとえそれに意味がなかったとしても。
そして無力なる人間がもう一人。みのりを助けに来た御門善弘だ。
(みのりッ! みのりッ!)
彼は必死でその名を叫ぶ。けれどもう声を出す声帯も彼は失ってしまった。
親友の手を掴むはずの手も。
天使のような歌声を聴くための耳も。
無垢な笑顔を見るための目も。
少しずつ彼は肉体を失っていく。
(どこだ、どこにいるんだ、みのりッ!)
ヒロは必死でみのりを探し続けた。しかしこの広大な宇宙で一人の人間を見つける事など不可能だ。砂漠で米粒を探すほうが遥かに容易だろう。
ああ、やはり無駄だったのか。希望を抱かなかったほうがよかったのか。
永遠の孤独は二人の心を蝕む。みのりも、ヒロも、その強い想いは打ち砕かれ徐々に世界の意思に飲み込まれようとしていた。
――そして僕らはその日を待ち続ける
(……………?)
だがその時何処からともなく歌声が聞こえた。その声を聴き二人の意識は自らの元に戻ったのだ。
――君にまた会うため
その歌声は彼らの仲間であるナビ子のものだった。それはトランシーバーから聞こえてくる。
――何年も何十年も何百年も
(そうかッ!)
これはナビ子がくれたチャンスだ。この音がする場所に彼が、彼女がいるのだ!
――僕らは何度だって巡り合って友達になるんだ
二人は一筋の光を逃さないために最後の力を振り絞る。その手を伸ばし互いの手を掴み取るために!
肉体は光の粒子によって再構築され、曖昧な存在であるものの彼らはどうにかその存在を保つ事が出来た。
――そしてまた会う日が来たのなら
そして二人は互いの存在を認識し、無我夢中で手を伸ばした。
――この歌を贈るよ
「ヒロッ!」
「みのりッ!」
二人は互いの名前を呼びその手を掴んだ。もう二度と離すものかと力強く握りしめて。
「ヒロッ! みのりーッ!」
その瞬間を見計らったかのように宇宙に銀色の扉が出現し、そこからつるぎが現れる。
その場にいるはずのない親友に二人は驚愕しつつも、細かい事は一切考えず生きて帰るために必死で扉を目指した。
「さあ、帰ろう、俺達の世界に」
「うん。僕はもう怖くないよ。世界がこんなにも優しいって知ってしまったから」
ヒロとみのりは互いに微笑みあい、つるぎが二人の手を掴み、同時に銀色の扉をくぐる。
そして、そこで三人の意識は途切れた――。
最初に意識が覚醒したのはつるぎだった。まだ意識はもうろうとしていたもののそれは次第にはっきりし、身体を持ち起こしたあとすぐ近くに二人の親友が横たわっている事を確認して、彼女はホッと胸をなでおろした。
「う、ぐ……」
次に目を覚ましたのはヒロだった。彼は意識が覚醒する前に真っ先にみのりの手を取る。
しかし返事はない。まさか失敗したか――とてつもない恐怖がヒロとつるぎの心に広がった。
「お、は、よう……」
「「みのりッ!」」
しかしそれはすぐに杞憂であると二人は理解した。ずっと眠っていたはずのみのりは、親友たちを安心させるように力なく微笑んだのだ。
自分たちは親友を救う事に成功した。一度は諦めた希望が成就し、そのあまりの嬉しさにヒロたちは狂おしいほどに喜び、泣きじゃくっていた。
「みのり、みのりぃッ! 俺は、ようやく、お前をッ!」
「うぉっしゃああッ!」
「もう、泣かないで……変な顔……」
肉体はずっと眠り続けていたためみのりの笑顔は弱々しかった。けれどそれはずっと二人が見たかった笑顔だった。
「お守りのご利益があったかなぁ」
使命を成し遂げ、満ち足りた表情のつるぎはずっと大切にしていた銀の鍵のお守りを懐から取り出す。しかしそのわずかな違和感に気付いてしまった。
「ありゃ?」
どういうわけかフェルトのお守りの中にあったはずの、ずっと肌身離さず持っていた鍵がいつの間にかなくなっていたのだ。
恐らく先ほど訪れた虚無の宇宙で無くしてしまったのだろう。大切な思い出が詰まったお守りが失われた事でつるぎは少なからず落胆してしまう。
「ま、いっか」
だがそれは些細な事だ。親友二人が戻ってきた喜びに到底勝るものではない。それに強さを手に入れた今の自分には必要ない物だ。
ぴーひゃら、ぽんぽん。
ぴーひゃら、ぽんぽん。
「?」
聞き慣れた笛と鼓の音が上空から聞こえる。彼女たちが見上げるとそこにはオクラとオヨシが、異形の天女の周囲で演奏しながら嬉しそうに舞を踊っていたのだ。
「カカサマ、カカサマ!」
「ツレテイッテタモレ!」
「ええ、オクラ、オヨシ。行きましょう……随分と待たせてしまいましたね。この身勝手な母親をどうか許してください」
白く、歪な姿をしたその神は醜悪でありながら不思議と怖ろしさを感じない。彼女は慈悲深い眼差しを大地に横たわる三人に向けた。
「人の子よ。私の子供たちが迷惑をかけましたね。にもかかわらず助力をしていただき感謝します。これはささやかながらも私からのお礼です。どうか受け取ってください」
「から、だ、が……?」
白い邪神は温かな光を放ち、それはみのりの肉体に注がれる。その光を浴びた事により衰弱しきった彼女の肉体は急速に癒されていったのだ。彼女は自分の身に起きた事に喜ぶよりも先に戸惑ってしまったようだが。
「おお! ありがとよ、天女様!」
「礼を言われる筋合いはありません。我が子が迷惑をかけたのですから当然です」
ヒロは天女に感謝を伝える。異形の神の表情はわからないが微笑んでいるように見えた。
「なあ、どうしてあんたは子供たちを見捨てて元の世界に帰ったんだ? 俺にはどうもあんたがそうしたようには見えないんだが」
「……ああ、そちらではそう伝わっているのですね。私は我が子を見捨ててなどいません。いついかなる時もずっとずっと二人の事を想っていました。しかし私が無力ゆえに二人に辛い思いをさせ、人々に災厄を振り撒いたのは事実。今更何を言っても言い訳にしかなりませんが……」
「なんだ、そうだったのか。それを聞いて安心したよ」
白倉山の天女伝説がそうであったように、神社の古文書もまた時の人間により歪曲された歴史だったのだ。伝承の真実がどのようなものだったのか彼らに知る由はなかったが、ヒロはそれだけ聞ければ満足だった。人間でも、異形の神でも、親子仲がいい事は幸せな事なのだから。
「じゃあな、達者で暮らせよー!」
「ええ。さあ帰りましょう。私たちの世界へ。ここは限りある命がある者たちの世界です。我々がいるべき場所ではありません。本当にありがとうございました」
「アリガト!」
「サラバ!」
そして常世の神々は時空の歪みを通ってこの彼らの住むべき世界に帰って行く。ヒロたちはそれを見届け、ようやくすべてが終わったのだと安どした。
もう心残りは何もない。後はいつも通り毎日馬鹿をやって、生きて、死ぬだけだ。それが人間というものなのだから。
「行っちゃったね」
ゴンは打吹公園から山頂を見上げ満足げな笑みを浮かべる。傍らにはボコボコにされたトオルもいたが、彼の顔はどこか晴れやかだった。
「ま、ギリギリだったが結果オーライ、良しとするか。けどお前も少しは手加減しろよ」
「あたしの半身を虐めた罰だよ。罰としてたい焼き奢ってね」
「はいはい」
トオルは多少釈然としないものがあったがその申し出を承諾する。
それくらいの罰は甘んじて受け入れよう。自分はそれだけの事をしてきたのだから。
瘴気は晴れ、暗雲は消え去り町に光が戻る。澄み渡る空に秋風が吹き抜け、一枚の紅葉が飛んでいった。