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間の山奇譚  作者: 葦原観月
1/1

神隠しの謎

今回は、多く投稿します。お付き合いください。

(八)


 常のごとくに朝帰り。素間は寝不足の庄助をたたき起こして「腹がへった」とのたまった。

 粥を炊く庄助を尻目に、「どうだったい?」と横になり、庄助の報告に眦を吊り上げた。


「それでお前はすごすごと引き返してきたのかいっ。紫の君が聞いて呆れる!」


言いながら素間は椀を差し出した。


「だから。邪魔が入ったんや」弁明しながら粥をよそる我が身を哀しく思う。

茂吉は話に乗ってきた。神隠しの裏付けは取れたぞと、がなる庄助の前を、身支度を調えたお杉お玉が三味線抱えて通り過ぎる。庄助は慌てて振り袖を羽織った。本日は間の山での興行だ。客を引く若衆が出遅れてはお叱りを受ける。


「神隠しが起こったから、調べておいでとあたしは言ったんだ」


 かつかつと音を立てて粥をかき込む素間を尻目に、庄助はさっさと帯を締め上げる。

「神隠しの子は牛太郎。茂吉の異父兄弟や」どうだと笑んだ庄助に、

「茂吉に弟がいたとは初耳だ。けどあたしゃ人別帳を作ろうってわけじゃあないんだよっ」

 素間は椀を置いて庄助の胸ぐらを掴んだ。ぐっ、と引き寄せられて息が詰まる。


「菜を採りに行ったまま帰らんて……。お前、おとぎ話を聞きに行ったのかい? 期待外れもいいとこだ」耳に囁いた素間は空いた手を庄助の背に回した。

 警戒して首を巡らせた庄助の襟元から素間の手が忍び込む。「こら、何すんやっ」と噛みついた庄助の額を素間のでこが突いた。秀でた額はことのほか堅い。

 唸る庄助に構わずひやり、と冷たい素間の手は庄助の肌をまさぐり、「ふん、なかなかいい尻だ」背に回った手がつるりと尻を撫で上げる。庄助の肌がふつふつと泡を立てた。

「お仕置きだ」素間の言葉に庄助の背が凍る。

 そんな話は聞いてない、色子になるつもりはない、今一度機会をくれと懇願する庄助に、

「あたしはお前の旦那なんだ」素間はさっさと庄助を抱え込んだ。

「わかった。あと三日待ってくれ。茂吉に話を聞いてくるっ」祈る思いの庄助に、「待てないね」と素間は吐き捨てた。


「お前がみっともない姿でいたんじゃあ旦那のあたしの顔が丸潰れなんだよっ」

 素間は庄助の尻を思い切り抓り上げた。

「遊女じゃあるまいし。襟元にすんなり手が入るような着付けは駄目だ。帯も緩いよ、これじゃあ興行中に解けちまう」

 手早く襟元を絞めた素間は衣のたわみを伸ばし、きゅっ、と締め上げた帯に赤い口元を緩ませた。


「あたしに恥をかかせないどくれ」

 ぽんっ、と叩いた帯がりん、と音を立てた。


     *


 お天道様が黄色く霞む。春の霞みは眠気を誘う。間の山に鳴り響く三味線の音も、どこか眠たげで庄助の瞼も重い。


「あかん、間違えてるよお玉さん」

「嘘、違うてるのはお杉さんとちゃう?」

 言い合う幼い声も眠たげだ。


 春の霞みは異国の魔物――。


 伊勢の民人が言い合う眠たげな霞みは、清らかに澄んだ伊勢の地を恨んで、異国の魔物が扇に載せる欠伸だと言われている。


(お杉お玉が眠とうてはあかんやん。しっかりしてぇや)

 思いながらも庄助も欠伸を一つ。さすがに寝不足が続いては、間の山一の若衆、庄助だって眠い。

 

ここ数日の寝不足は素間のせいだ。かつて素間をこれほど気にした例は一度もない。

目が合えば胸が高鳴り、名を呼ばれれば息が詰まる。

姿が見えねばそわそわと気が落ち着かず、いたらいたで気になって粥も喉を通らない。

 一人、布団にくるまって素間を待つ夜は長く、今頃どこで何をしているかと思えばとても寝られたもんじゃない。


「くそっ。眠いぞっ!」


 思わず毒づいた庄助の後ろから、

「うんうん、ほんま。春は眠いなぁ」目を擦りながら大男がぽん、と庄助の背を叩いた。

 筵を敷いた男が大欠伸をかまし、風呂敷を広げて茶道具を並べる。

 男童が手にした棒を振りながら声を張り上げる。


 ふれやふれやちはやふる、神のお庭の朝浄め、それ、やてかんせほうらんせ――。


 力自慢の大男の肩で、花笠を被った女童らが間の山節を唄う。

 襤褸を纏った女の前で、剣を片手に若衆が舞い踊る。老爺の肩に載った色鮮やかな鳥が、ヤテカンセと鳴いて頭を振った。

 微睡みを誘う春の陽が、一種異様な絡繰りを披露するかのごとく興行前の間の山が雑多な気配に包まれていく。


(毒づいとる場合やないわ)と庄助は掛け小屋の裏に駆け込んだ。


 お杉お玉の三味線が、べんじゃらべんじゃらと姦しく鳴り始めたら、御師らが客を連れて現れる。


 皆出揃ったよ、いつでもおいで――。

 お杉お玉は間の山の客引き一番手だ。


庄助は積み重ねた枕箱を手に取った。庄助の得意とする枕返しは若衆興行の華だ。

 投げた枕箱を積み重ねていく芸は、軽やかな動きと客の気を引く愛嬌が基本だ。新米は積み上げる箱の数に勝負をかけるが、間の山一若衆の庄助は数だけで終わらない。幾つもの技を組み合わせた庄助の枕返しは客の度肝を抜いて常に黒山の人だかり。村長が大きな期待を寄せる客寄せ興行の一つだ。

 放り上げる枕箱が弧を描く。くるり、と体を回した庄助は後ろ手で枕箱を受ける。軽く放り上げた枕箱を今度は肩で受けて滑らせる。伸ばした手に箱が収まりまずは上々。

「やってるね、庄助」不意にかかった声に、手に受けた枕箱が滑って、掛け小屋の裏板にぶち当たった。

「静かにせんかっ!」大年増のお玉が白塗りの顔に皺を波立たせて顔を覗かせた。

「すんません」首を縮めた庄助にふんっ、と鼻を鳴らしたお玉は、濁声の間の山節をがなり立てる。


「お杉お玉に隠居はないのかね」小声で訊ねる素間に、「死ぬまでやるぞ」と返した庄助は枕箱を拾って背を向けた。ばくばくと心ノ臓が踊り始める。


(いかん。芸に集中するんや)勘の良い素間に動揺を悟られたら終いだ。


 かこんかこんと小気味良い音が、庄助の心を落ち着かせていく。うっすらと滲んだ額の汗を庄助が拭って、「あたしはお前の旦那だといったろ?」素間がぼそりと呟いた。手元が狂った庄助は弾き飛んだ枕箱に慌てて手を伸ばす。

「あたしはお前の全てが知りたいんだ」素間の言葉に息を呑んだ。


「秘密は作らないでおくれな」庄助の手から重ね受けた枕箱が盛大な音を立てて崩れた。

「おやまぁ珍しい」素間は細い眉を上げる。

「何の話や」撥ね付けたつもりが、声が掠れて庄助は唇を噛んだ。

「お前、あたしに言ってない話があるだろう」ぴくり、と背が震え、枕箱を拾う庄助の手が止まった。

「お前は。茂吉から神隠しの話を聞き出したが邪魔が入って引き上げたと言ったね」

 庄助の背にすーっ、と冷たい汗が流れた。

「その邪魔とは。こいつと関係あるんじゃああるまいねっ」

 肩を掴まれ身を返した庄助の目に、心配事の種を纏った素間の姿が映る。

「あたしの鼻は良く利くんだ、常にない臭いが村にあると気付けばすぐに元は探れる。木の上に吊すなんて猿にでも持って行かれたらどうするんだ。お前、これがいくらすると思ってるんだい。まだ支払いが残ってるんだよ。そんじょそこらの品とはわけが……」

 捲し立てる素間の言葉は庄助の耳には入らない。来るべき時が来たと庄助は観念した。


「牛のしょんべんや」息を吐いた庄助に素間がひっ、と息を引いた。「お前……」絶句する素間は初めてだ。

「あたしを差し置いて茂吉と言い交わしたのかい!」

 眦を吊り上げた素間は臭う着物を庄助の鼻に押しつけた。

  

  (九)


 拝田村の奥まった一角、ひっそりと佇む堂に狐神が祀られる。狐と言えば稲荷だが、本来、稲荷神社に祀られる神は豊穣神。作物を荒らす害獣を食う狐は神の御使いだ。

 穢所、拝田村に豊穣神を祀るは禁じられやむなく狐となったと長は言うが、世間一般の認識は稲荷と言えば狐。

(お狐さんが神さんでもええやん。失礼やぞ)庄助は思っている。

 芸能の神でもある稲荷神は、拝田村には相応しい祀り神だ。


(いつ見てもきれいやなぁ)


 庄助がうっとりと見とれる堂の中央には女人像が鎮座する。異国の衣を纏った女神は神宮に秘す拝田の守り神だ。

 女人像を守るように伏す狐像は、神宮への建て前上の狐神だが、白木に彫られた毛並みも美しく、躍動感のある造りはまるで生きているかのごとし。狐像を彫り上げた作者の腕は見事だ。素間は性格を除けば完璧だ。


「そらまた……難儀でしたなぁ」


 異国の女神がもし、現にあるとしたら――。

庄助が思わず頬を熱くする相手は美月。拝田村の異国神を祀る巫女でありながら、村で唯一の高級遊女だ。


牛のしょんべんなどものともせず、紫の君の衣装を手にしてにっこりと笑う美月は、床に流れる艶やかな黒髪が古の姫君を彷彿とさせる。常は巫女装束の美月が十二単を着れば物語のかぐや姫とはかくありなんと思う庄助だ。美月たる名も頷ける。


 かのお江戸吉原にある花魁などより高価と聞く美月の揚げ代は、そんじょそこらの者に支払える額ではなく、おのずと客は限られる。下々の者には手の届かぬ美月は、〝姫様〟の通称で通っている。

唯一、「美月」と呼び捨てる素間には腸が煮えくりかえる庄助だが、残念ながら美月は素間と仲が良い。美月への想いを口に出来ん庄助は、ただ口惜しさに拳を震わせるばかりだ。


「庄助さん、つかぬことを伺いますが、茂吉さんとは?」美しい眉を顰めた美月に庄助の頭に血が昇る。

「な、何もありまへんっ。とんでもない誤解です。素間を信じたらあきまへん。あれは人の生き血を吸う化けもんです。そのうち大神様の罰が当たる。姫様、近寄うたらいけまへん。化けもんが移ります……」


 牛谷が余所者を村に迎え入れる時、牛神様の祓いを受ける――。


 庄助の知らぬ仕来りは、意外にも知られた話であったらしい。童の太兵が知っていたかは不明だが、知っていたらただでは済まさん。互いに村の期待を受ける者同士、件の日から太兵とは会っていない。


「随分な言いようですね。あなたは若旦那と親しいとちゃいますん。常に一緒におられる」

 ねめつけるような目が色っぽい。(姫様は素間を……)思えば庄助の胸も痛む。拝田村の巫女、美月は庄助の長年の想い人だ。


 穢所に不似合いな絶世の美女。村神を祀る巫女にして高級遊女とは、世の常識には外れるようだが、男女のまぐわいによって穢れを祓う巫女は、古から芸人女の役割だ。

 よって身売りの意識はない。遊女の名称は御師らの倣いによるもので、間の山の女は遊び女ではなく参宮者の祓いを行う巫女である。


「気儘な若旦那が羨ましい。うちは籠の中の鳥ですもの」ほぅ、と息を吐いた美月は長い睫を伏せた。美月の思いは痛いほどわかる。


 拝田村が異国の女神を迎え入れた理由にはお杉お玉の人気が影響していようが、異国の女神は巫女に憑いた。かつてはそれを誉れとし、こぞって巫女に名乗りをあげた女衆だが、狂い死が数代続いて事情が変わった。


 女神に憑かれた者は祖霊にはなれん――。


 もっともらしく語られる噂に巫女不在が続き、女神様の祟りを恐れた村長は玉家の頭に白羽の矢を立てた。


 対立を続ける杉家玉家だが、杉家は代々荒御魂の巫女を務める家柄である。玉家の不満を慮っての村長の配慮が功を成し、玉家の頭は問題なく巫女を務めた。頭の死は出産によるものと聞く。お産で死ぬ女は多い。

 誕生した美月は巫女を継ぎ、稀に見る美貌がやんごとなき人の目に留まり、祓いに呼ばれるようになって今に至る。

 間の山の看板、お杉お玉の跡目頭に、勝手も気儘も許されん。


「あなたは、若旦那がお好きやないんですか?」

 それはこっちが聞きたいぞと思いつつ、

「とんでもない! わてには迷惑です。そもそも、素間のおかげで……」

 牛のしょんべんをかぶる羽目となった。

「紫の君たる辻占役が人気なんですよね。こない高価な衣装まで設えて……」

 いやそれは、全て素間の悪事の手先として――。

 美月は誤解している。庄助は素間の色子でもなければ、紫の君は人気とりの役柄でもない。素間に騙される美月には真実を語るべきだと、身を乗り出した庄助は、


「庄助さん、こらあきまへんわ、三日経ってもこの臭い」


 美月が突き出した着物に鼻が歪んだ。

「洗い貼りせなあきまへんなぁ。焚き込む香も必要や。ざっと五日はかかりますやろ。ちぃと値がはりますがどないします?」


 いきなり商人に変貌した美月には目を瞠る。

 隠密の紫の君の着物を人目にさらすわけにはいかんと、上質の着物を扱い慣れた美月に話を付けた素間だが、払いのことは聞いていない。


 喜び勇んで美月のもとを訪れた庄助だが、「お前が汚したんだから、お前が払うが筋だろう」頭の中の素間に項垂れた。

「一日一貫文とみて、五日で……」

(高いな)息を吐きつつ庄助は頷いた。

 

    (十)


 橋を渡る一行に頭を下げた庄助は、近づく足音に身構えた。


「おはようさん、庄助」


 丸々と血色の良い顔がげっそりと窶れた茂吉は目の下の隈も痛々しい。金太郎が浦島さんになりよったでとの噂は真実だった。


 乙姫と別れ、里に帰りはしたものの、結局は乙姫恋しやと泣き暮らした浦島はかくもありなんとの様である。茂吉の相手は乙姫ではなく紫の君だ。

 全くの偶然で牛谷の禊ぎ儀式を交わした二人だが、茂吉には忽然と消えた紫の君が忘れられんらしい。


「儂にな、村神様の思し召しがあったんや。牛谷の倣いに従い、禊ぎを受けたもんは村に迎えられる。辻占の紫の君、あれは儂に縁づく女なんや」


 庄助に茂吉がこぼしたのはつい先日。親しくとも互いの村の話題は初めてだ。件の日から七日。着物はまだ仕上がっていない。


「思いの外、臭いがとれません」


 堂の裏手に自然に馴染む蜘蛛の巣は、日ごとに銭を喰う。ともすれば姫様は商売上手ではと、素間の影響を訝る庄助だ。


 故に紫の君は休業中。血眼になって捜し回る茂吉に、紫の君が見つかるはずもない。実はほぼ毎日、宇治橋の下で会っているとは知らぬ茂吉を気の毒にも思う。


「おはようさん、茂吉。どや、許嫁は見つかったか」


 正体を明かせぬ庄助は、気が咎めつつも調子を合わせる。

「あかん。辻におるんは薄汚い乞食ばっかや。あの野郎、今度会うたら伊勢から放り出しちゃる」

(今日から乞食はあかんなぁ)庄助は内心で息を吐いた。

 紫の君が休業でも、素間の仕事は年中無休。

「衣装がないなら、別の者に扮しなさい」と素間は容赦ない。

 襤褸を纏い菰を引っ被って村を出た庄助だが、折り悪く乞食排除が始まった。


 伊勢に多い乞食は、実入りの良い間の山芸人を真似て参宮者に銭を請う。間の山保護のためまた、神域の秩序を守るため神宮側は頃合いを見計らって乞食排除を行う。役目を受けるのが目付衆だ。

 本来、見習い目付衆茂吉は、牛鬼親分のもとに乞食を引っ立てて行くのが仕事だろうが、紫の君が見つからぬ故に機嫌が悪い。窶れたとは言え金太郎の異名を持つ茂吉に手加減なしに向かってこられては庄助もたまらない。


(お前、愛しい女に何しとんのやっ!)


 わけのわからぬ悪態を腹の中で叫びつつ、理不尽な青痣には納得のいかん庄助だ。

「茂吉、八つ当たりはいかんぞ」とりあえず釘を刺した庄助は、

「こう言うたらなんやが……お前の勘違いとちゃうか? 大牛様かてぼーっとすることもあろう。春やしなぁ」そうっと茂吉の燃える恋心に水を差した。

 牛谷の仕来りがどうかは知らんが、紫の君は間違っても茂吉の女房にはなれん。そうそうに熱を冷ましてやるのが親切だ。茂吉とは良き友のまま芸を競い合って行きたい。色恋沙汰で溝を作るなどまっぴらだ。


「何いうてんのや。大牛様が異国の魔物に負けたりするかいな。常にぼーっとしてはんのやぞ。それが暴走してしょんべんまき散らすやなんて……まさに思し召し以外のなにものでもないわ。女が儂に縁づくんは間違いない」

 常からぼーっ、を信用する牛谷の仕来りは理解できん。しょんべんをまき散らしたのはただの偶然。たまたまそこに茂吉と紫(庄)の(助)君がいただけだ。


「実はな、儂が女に会うたんは牛谷の辻なんや」茂吉の言葉に庄助は「えーっ」と大仰に驚いてみせた。

 町を視察中の大牛様が突然暴走し、今在家の辻にいた紫の君を危ういところで茂吉が救ったという武勇伝が嘘だとは、当事者である庄助ははなから承知だ。

武勇伝はともかく、排他的な牛谷が村の辻で商売する余所者を受け入れるはずはない。茂吉の嘘は牛谷の者に向けた偽装である。


「儂も最初は女を追い払おう思うた。何せ夕暮れや、人気のない場所で若い女が独りでおるやなんて……喰うて下さいいうとるようなもんや。そういう類いの女には見えんかったよって」

 確かに。茂吉は紫の君に配慮をみせた。

「儂の気ぃを惹いたんは龍の目や。実はな、儂、牛骨占いに出た、二つ池の龍神様に願掛けをしたんや」

 近頃茂吉が占いに凝っていると耳にしたからこそ、話を聞き出すには辻占の紫の君がよかろうと判断した庄助だ。色仕掛けのつもりは毛頭ない。

二つ池の祈願寺は、雌雄の龍伝説に基づき、厄除け、縁結びに御利益があると言われている。


「それがやで。十日も経たんうちに龍の目ぇを持った女が儂に逢いに来たんやで、偶然であるはずがない」

 紫(庄)の(助)君は余計な口を利いたらしい。

「そんでも。狐狸の類いやないやろなと」

 まじまじと紫(庄)の(助)君を眺め倒した茂吉は、紫の君の美しさに惹かれたわけではなかった……。庄助はちょっとがっかりする。


「そこでふと、女のきれいな目に見覚えがあるような気がしたんや。それもそのはずや庄助」

 ばしっ、と背を叩かれて庄助は跳び上がった。

(ばれとんのかいな)身を縮めた庄助に、茂吉はへらっ、と眦を下げた。


「夢で逢うたと。可愛いこといいよんねん。な、間違いなく龍神様のお導きや。どや、羨ましいか」

 咄嗟に口にした逃げ口上が大事に繋がるとは。二つ池の龍神様の御利益には目眩がする。

「儂らは神さんに祝福された仲なんや。あぁ、紫の君――」

 庄助に抱きついて「紫の君ぃ」を連呼する茂吉は、まさか真実を知るはずもなかろうが、肝が縮む。

「惚れたんや」庄助の耳に囁く茂吉に腰が引けた。


「まさか占いがここまで当たるとは思いもせなんだ」目を潤ませた茂吉は気持ち悪い。

茂吉の腕を振り解いた庄助は水を向けた。そろそろ本題に入らねばならん。

「けどな、女が消えてもうては話にならんて。神隠しやないかと騒ぐもんもおるらしいで」

(こうなりゃ、続きはわてが聞き出しちゃる)

「それやて、庄助」乗ってきた茂吉に庄助は笑みを堪えて渋面を作った。

「儂、見たんや。あの女もどこぞであれを目にしたんかもしれん」

 意味不明の言葉に庄助は首を捻る。

「女まで神隠しに遭うては、間の山の神さんの子ぉが……」茂吉の言葉は謎を深めるばかりだ。

「あぁちゃう、神隠しやない人攫いなんや」牛谷の神隠しは人攫い。

「神さんは籠なんて使わんて。女もきっとあれを見たんや。そやから儂に忠告しようとわざわざ牛谷まで……」籠を使った神隠しとは面白い。

「女は口封じに連れ去られたんかもしれんのや。儂は心配で心配で」

お前の女はぴんぴんしとると、笑いをかみ殺した庄助は一気に畳み込んだ。


「わてでよければ力になるで」


 ぱっ、と顔を上げた茂吉が縋るような目を庄助に向けた。

(よしっ)と拳を握った庄助に、

「庄助ーっ、釜屋大夫からのお礼だよー」素間の声が橋の上から降ってくる。

 見上げた庄助に素間がちろりを投げつけた。庄助の額ががんっ、と音を立てる。

「お前、ええやつやなぁ。まぁ飲めや」茂吉がぶっ倒れた庄助の口に酒を流し込んだ。

    

 (十一)


 酒こそが、伊勢の穢れを担う間の山芸人の祓いである――。


 古の言い伝えに則って、間の山芸人は酒を好む。

 村の中央には常に酒樽が鎮座し、老若男女かまわず日に一度は必ず酒を飲む。古から続く仕来りである。

 酒に強ければ強いほど皆から一目を置かれ、神の寵愛を受ける者として敬われる。

「ま、体の中の臓器が丈夫なだけですけど」とは医学を学ぶ素間の言だが、めっぽう酒に強い素間は村人ではなくとも一目置かれる存在だ。神様の寵愛の基準はよくわからん。


 比べて庄助は三口で昇天するほど酒に弱い。過去に三度の失態は、病を口実にかろうじて乗りきったが四度目はない。間の山一の若衆が酒が飲めんでは皆に示しがつかんと、酒は口にしないと決めている。

 素間のおかげで酒を飲む羽目となった庄助は、上機嫌で酒を呷る茂吉の横でこの世の終わりを感じていた。


 ここで吐けば五十鈴川を穢したと三方会合からお叱りを受ける。長に事情を聞かれれば、酒が原因とすぐにばれる。あっという間に庄助が酒が飲めん事実は村中に知れ渡り、間の山一の若衆の評判はがた落ちだ。加えて五十鈴川を穢したとあれば、拝田村もお咎めを免れん。


(くそっ、素間のやつめ)込み上げる朝飯の残骸と怒りを、握った拳に押さえて項垂れる庄助の横で、「儂の祝言の前祝いや」と茂吉は赤ら顔。河原に転がった酒樽は釜屋大夫のご祝儀か。さすがに金太郎は酒に強い。


 ちろりを振り回し、「目出度いぞ」と叫ぶ茂吉の声が、

「おや、もう飲んじまったのかい」呑気な素間の声にかき消された。

「このやろ、素間っ!」飛びつきたいのは山々だが、ぐっと口を噤んで素間を睨んだ。血の気が上がったり下がったりと忙しい。くらり、と目眩がきた。

 すかさず走り寄った素間の下駄が庄助の足の指を踏んだ。伊達者の素間は、年がら年中派手な下駄を履いている。素足に下駄の歯は凶器に近い。

「いっ」出せぬ声を飲み込み、ついでに込み上がったものも飲み込む。頬を熱い雫が伝った。

   

   *


「下戸の若衆がいるたぁね。あたしの機転に感謝しとくれよ」


 ずきずきと痛む足に血の滲む手拭い。

「豆を潰した」との言い訳が通って庄助は素間の肩を借りて五十鈴川を後にした。

 足はともかく。酒のおかげで一人では歩けん庄助は素間の存在を有り難く思うが其の実、庄助をこんな目に遭わせた張本人は素間である。

 もやもやと苛々に苛まれつつ肩を借りる素間は、ここぞとばかりに好き放題を捲し立てる。


「お前が茂吉と言い交わしてたとはね。朝っぱらから惚れた腫れたと聞いてるこっちが恥ずかしいよ。とっとと夫婦にでもなっちまえと、祝い酒を贈ってやればお前は下戸ときた。世の中上手くいかないもんだ」


 酔いと痛みと苛々と。もはや限界の庄助を引きずって、素間はずんずんと村を行く。

「茂吉にばれちゃないだろうね。紫の君の聞き込みは隠密裏でなくちゃならないんだ。あたしの名がでると面倒なんだよ。ほんとにお前は役立たずだね。少しばかり反省してもらおうか」

 素間はいきなり庄助の背を押した。もんどり打って倒れ込んだ室内は暗い。

「庄助」かたん。と後ろ手に戸を閉めた素間が庄助の顎を掴んだ。恐怖に吐き気も目眩も飛んでいく。


「ちゃうて。情報を聞き出しとったんや。茂吉は籠を見たと言ったぞ。牛太郎は籠に乗せられて連れ去られたんや。お前が酒なんぞ飲ませんかったらもっと――」

 酔った口は余計をしゃべる。すぐさま口を塞いだ庄助だが遅すぎた。素間の目が吊り上がる。

「酒を飲ませたのは茂吉だよっ。あたしは祝い酒を贈っただけ。ついでにお前が下戸だとは聞いちゃない。あたしに秘密を作ったお前の責任だ」


 扇を振りかぶった素間に庄助は身を縮めた。にやっ、と笑った素間が、「庄助、は」意味不明の言葉を吐いた。

「は?」思わず繰り返した庄助の口に、ぽん、と何かが放り込まれる。ごくり、と飲み下した庄助の血の気が引いた。

「童の頃の癖は直らないもんだねぇ」得意げな素間には虫ずが走る。


 幼い頃、庄助が腹を壊すと素間はいつも野間万金丹を庄助の口に放り込んだ。

「苦いから、さっさと飲み込むんだよ」言い聞かされて育った庄助は、口に入れられたものはすぐに飲み下す癖が付いている。

「このやろ、何飲ませたんやっ」身を起こして再び目眩に押し戻される。怒りに胃の腑が騒ぎ出した。「ううっ」唸った庄助に、素間は猫撫で声を降り注ぐ。

「お前のその、単純なところが好きさ。良い夢をごらん」

 かたん。と静かな音と共に、庄助は闇に取り残された。

   

  (十二)


 いったい何のつもりかと、半身を起こした庄助の鼻を甘い香りが擽った。

 目を凝らした庄助の胸が躍り上がる。薄紅の桜模様は先だって、美月を訪れた堂の裏手で見かけたものと同じ。

「姫様?」呟いた庄助に、「来て下さったのね」と愛しき声が耳に囁く。

「うちは庄助さんを――」首に絡みついた腕に激しい目眩を感じた。ばくばくと胸が鳴る。


(わてはどないしたんや)


 庄助の不安をよそに、柔らかな唇が庄助の口を塞いだ。濃厚な美月の香りが庄助を押し包む。掻き抱いた体は軽く、絹のように滑らかな感触が庄助をうっとりとさせる。

「あぁ……」甘い吐息に庄助の箍が外れた。

「姫様、どうかわての想いを……」


 痛いほどにそそり立った己の一物を美月に突き立て――。

「なるほど」場違いな声に動きが止まった。腕に抱いた美月がくたり、と身を崩す。

(あれ?)茫然と夜具を見つめる庄助に、


「素間万金丹桜、媚薬効果あり。幻覚作用に注意、香りと併用で効果大、か……」


 ぽう、と灯った明かりに素間がにまり、と笑う。

「て、てめぇっ!」夜具を放り出し、立ち上がろうとした庄助の膝が力無く崩れた。

「ただし、持続性なし。脱力感を伴う場合あり……」素間はすらすらと筆を走らせる。

「騙しやがったなっ。てめえ何飲ませやがったっ」

「激しい興奮に襲われるが、全身の脱力感に適わず。しばし薬効が去るのを待つべし――と。ふぅん。まだまだ改良が必要ですね。新薬はなかなかに難しい。庄助、気分はどうです」

 しれっ、とのたまった素間に「よくない」と庄助は答えた。

     

  *


 灯皿に照らし出された狐神と女人像。素間に放り込まれた堂に墨の匂いが漂う。

 堂の隅に畳まれた夜具を睨む庄助は、素間の質の悪さを改めて胸に刻んでいる。

 美月の移り香を狙って、十日ほど前に預けた夜具は素間のもの。素間の遊びは用意周到だ。素間の夜具に発情したと思えば情けない。


「お前にやろうか?」素間の親切は断った。日々悶々として寝られぬ夜は地獄に近い。

「まさかお前が美月に惚れてるなんて思いもしなかったよ。お前、ちょっとあたしに秘密が多過ぎやぁしないかぇ? 次は白状万金丹でも作ろうかねぇ」

 素間万金丹はどんどん、悪い方向に向かっている気がする。


 夜具を汚したくない素間の勝手で、庄助は全裸で筵に寝かされている。力が抜けたままの庄助に成す術はない。これ以上の屈辱がないことを祈るばかりだ。

 医者としてここにいると言う素間にとりあえずは一安心。庄助には流行病の疑いがあると触れてあるらしい。だが。

 ただの酔っ払いに医者が必要かと思えば不安になる。


「いいかい、叫んでも無駄だ、誰もこない」素間は庄助の不安に拍車をかける。

「流行病の万金丹は苦痛を伴うと村長に言ってあるんだ」苦痛とは聞き捨てならん。

「何するつもりやっ」叫んだ庄助に素間はふぃと背を向けた。ごそごそと正体の知れん物音は恐ろしい。

「わかっとくれ。あたしゃお前に若松様になってもらわないと困るんだ」

「わてはそんな器やないぞ、ただの厄介もんや」

「男に生まれたからって、気に病むこたぁない」素間は手を止めて肩を竦めた。


 杉家玉家は女で保つ。男子の誕生は凶兆だ――。


 杉家の頭目の男子として誕生した庄助は、そんな芸人の拘りに肩身の狭い思いをして育った。庄助こそが伊勢の大事を守る若松様だと、豪語してやまぬ野間家の御曹司の後ろ盾と励ましがなければ今の庄助はなかったかもしれん。思えば恩を感じる庄助だが……。


「とはいえお前は役立たず。これじゃあ先が危ぶまれる。そこで、だ」振り向いた素間がにまっ、と笑った。嫌ぁ~な予感がする。

「お前の肝を据えてやることにした。何、心配しなくていい。だいたいの当たりはつけてあるんだ。先だって六蔵に罪人の死体を捌かせてね、臓器の位置は確認済みだ。まぁちょっとへたくそな絵だけど……あたしゃ水庵先生お墨付きの弟子なんだ、腹を裂くなんざ、屁の河童、あとは野となれ山となれだ」

 上機嫌で振り向いた素間の手に光る物を見て取った庄助は息を呑んだ。

「まて、早まるな。人殺しは御法度やぞっ」「治療中のしくじりにはお目こぼしもある」

 世の中は理不尽だ。

 動かぬ体では逃げるもままならん庄助は、「人殺しぃー」と声を絞り、「人聞きの悪い」素間は庄助の口に手拭いを捻入れた。万金丹の苦い臭いが鼻を抜ける。

 潤んだ目で訴える庄助に、素間はにっ、と笑って刃物を振り上げた。


(あかん、終わりや)


 据えてもらわんでも据わった肝に、

「庄助さんおられますか?」

 勢い良く開いた格子に素間の手が止まった。

「お美衣様が戻られましてん」太兵の声が息せき切って飛び込んだ。

「庄助。お前の肝は据わらんほうが楽しそうだ」

 にやっ、と笑った素間が刃物を置いた。

   

  (十三)


古から神が芸を好むと知る神宮家は、荒御魂に変調が現れると巫女の召喚を三方会合に命じる。三方会合に名を連ねる三方家御師は中間を遣わして巫女を出迎える。穢所を忌む御師らも荒御魂のご機嫌取りには否も応もない。


 いつごろから拝田の女が巫女として神宮に招かれたかは不明だが、少なくともお杉お玉が伊勢の名物となって後、荒御魂を慰撫する巫女の役割りは杉家が受け持ってきた。庄助が男と生まれて肩身の狭い理由の一つだ。杉家の頭目は御座と呼ばれる社を住屋とする。

 玉家の頭目、美月の住む堂と相対する位置にある御座は、石積みの鳥居を潜った先にある。


「母上様、お帰りなさい」開け放たれた社の前に膝を突いた庄助の横を、「お疲れ様でしたね」素間は平然とすり抜ける。

 おやまぁ、若旦那と華やいだ声を上げる母には頭を抱え、いつお会いしても美しくと返す素間に庄助はちっ、と舌を打つ。

 息子そっちのけで楽しげな母には辛抱以外に何もない。根っからの美男好きの母は、美童の頃から素間に入れ込む大年増だ。


「ただいま。庄助」

 ようやくかかった声に顔を上げれば、色とりどりの衣を敷いた床に座した母は、ほぅ、と息を吐いた。しどけなく足を投げ出し、素間に寄りかかる母の姿に庄助は眉を寄せた。

伊勢広しといえど、稀に見る美貌を誇る野間家の放蕩息子と並んで、引けを取らぬ大年増は母ばかり。御師らはこぞって母を座敷に招く。

 荒御魂のご機嫌取りから解放された母は穢人が一転して神聖な巫女となる。触穢を恐れる御師邸では、初代お杉直系の間の山節と美貌を愛でる機会は他にない。祓いを終えた母は引っ張りだこだ。

常に村で退屈を持て余す母にとって、荒御魂の慰撫は唯一の娯楽。早いご帰還には何か訳があるはずだ。


(お前の肝よりずっと面白そうだよ)


 期待を隠さん素間の目が庄助母子に注がれた。

「庄助、お前が銭に困っているとは知りませんでした」

 静かな物言いに含まれる僅かなささくれに庄助は震え上がった。

「太兵が余所者の娘と、牛谷の辻で物乞いをしていたと私に知らせた者がいる」


 間の山芸人は余所者と組んではならんとは、伊勢のお抱え芸人を保護する神宮側の決め事だが、間の山には古くから余所者を受け入れん習わしがある。

 太兵の行動が村長に知られれば追放は免れん。幼い太兵を思って拝田の巫女に注意を促したのだろう。杉家、玉家の当主は村長に次ぐ顔役である。


「病のお静は太兵だけが頼みだ」母は急ぎ立ち戻って太兵に問うた。

「余所者の娘はお前だと太兵は言う」

 間の山一の若衆が出稼ぎをしてまで銭を必要とする理由は何だ。どこぞの女に貢いでいるのではあるまいな――と。母は勘ぐっているに違いない。

 いやそれは修行のためと、再び庄助が口にした言い訳を、

「聞けば牛谷の茂吉が、血眼となって余所者の娘を探していると聞く。何でも牛谷の倣いに従って契りを交わした娘だとか。これはいったいどういう沙汰かぇ?」

 母はぴしゃり、と膝を打って押しやった。扇を持つ手が小刻みに震えている。


(何でそないな話知っとんや)牛谷の辻で起こった契り事件は、世の噂にはなっていない。 

ちらりと目を向けた素間がにやっ、と笑った。

「あの……申し上げますっ」震えた声を張り上げた太兵に母が目を向けた。


「牛を放ったんはわいです」


 庄助の手を取った茂吉に太兵は青くなった。牛谷坂での稼ぎを見咎められてはただではすまされん。太兵は近くに寝そべっていた牛をけしかけた。牛谷の仕来りなど知らなかった。しょんべんはただの偶然だ、庄助に非はないと、太兵は健気に訴える。

「何やて!」母の眦が吊り上がった。「手ぇまで握って誓うたかっ」

 健気な太兵の言葉がやぶ蛇となった。母の癇癪(へび)が藪から顔を出し、素間が母の耳に何事か囁いた。


「庄助が美月に銭を貢いどるやとぉ?」


 すっくと立ち上がった母はもう、手に負えん。白い頬には朱がさし、目は爛々と輝いている。紅い唇から舌が覗いた。


 杉家の当主は重い役割りだ。癇癪持ちの母は常に自分を抑えている。

 巫女仕事後の伊勢での精進落としは、母にはよい鬱憤晴らしだが、それでも癇癪は起こる。原因は庄助にある。母の庄助に対する思い入れは異常だ。


 杉家跡取りの期待を裏切った男子の誕生に、一族は大いに落胆したが、母は庄助を溺愛した。理由は美童だったからである。

 一族の侮蔑をよそに、母に溺愛された庄助は軟弱者。性根逞しく育ったのは素間のおかげだが拭い切れん弱みが一つ。庄助は虫が大の苦手である。

 とにかく虫が近寄るだけで頭の中が真っ白になる。幼い頃は泡を吹いて倒れたこともあったらしい。特に苦手な這い虫の類いは目にしただけで総毛立つ。庄助には素間よりも恐ろしい魔物だ。


「庄助、食事としよう」


 壮絶に笑った母に背筋が凍る。「あの、母上様……」開いた口はすぐに萎んだ。母の目が据わっている。癇癪(へび)は母を捉えたようだ。

「お美衣さんがお呼びだよ、これ、誰か」澄んだ声で手を叩いた素間に、「はーい」と返す明るい声はねうだ。

「準備はできてますよぉ」旅籠の女将よろしく、にこやかな丸顔を覗かせたねうは、

「こまぁ~。お躾け直しだよー」実に嬉しそうに声を張り上げた。

「はーい、ただ今ぁ~」これまた嬉しそうなこまが大きな器を持って現れた。


 いずれ古参の二人は庄助が物心つく頃から母の身の回りを世話するお杉衆だ。庄助の乳母でもある二人は常に白塗りで、素顔も年齢も不詳だ。


「庄助、三度の飯は――」ふわり、と衣を膨らませた母が床に座し、扇でこんっ、と床を叩いた。

「大神様の御恵み……」姿勢を正した庄助の口から、童の頃から叩き込まれた言葉が突いて出る。

「蔑ろにしてならぬもの――」

「大神様の思し召し、母の躾けに三度の飯」観念した庄助は応えてぐっ、と息を止めた。御座に漂う臭いに目眩がする。


「お待たせしました」ことり、と鳴った床に社の隅で息を呑む気配を感じた。

「太兵、食べていくかい?」猫撫で声の母に「いえ。わいは母ちゃんが待っとります」太兵が上ずった声で答える。

「そうだった。母は大事にせねばな。心配をかけてはならぬぞ」

「はい」と返した太兵は逃げるように御座を辞した。無理もない。

「躾けは人の芯となる。芸人百まで踊り忘れず――。私はお前に甘すぎました。今一度、躾け直さねばなりません」

 母は静かに手を合わせ、庄助も母に倣う。「庄助」母の呼びかけに、

「わては。今から母上に習い、躾け直しに従います。大神様のお恵みを一つ残らず頂戴いたします」静かに言って一礼した。

「始めます」母が伸ばした箸の先で、白くうねるものがぷちん、と音を立てた。

    

 (十四)


 躾直しから三日。素間万金丹の力を借り、ようやく全身のぶつぶつが収まった庄助は本日、御師邸の撒銭拾いにかり出されたお杉の代理で掛け小屋に立つ。二人で対のお杉お玉の興行は、どちらが欠けても成り立たん。


「どうせ銭を撒くなら若い娘に拾わせたいと、大家の檀那の注文です」

 仕度をする庄助に顔を向け、母の上で体を揺する素間には庄助の眉も曇る。


(ほんまに按摩だけやろうなっ)


 今さら母が誰と寝ようがかまわんが素間だけは許せん。素間の毒素が母を蝕み、ウジ虫が湧いて出る想像が拭い切れん。

(あかん。虫はもう忘れんと)

「あぁいいわぁ~若旦那」「いえいえ、お楽しみはこれから……」

 いかがわしい会話に耳を塞ぎ、庄助は渋々、三味線を手に間の山へと向かった。故にすこぶる機嫌が悪い。常は小気味良い三味線の音が本日は苛立ちを掻き立てる。


 くるり、とトンボを切った若衆が三味線を催促する。相方のお玉が姦しい三味線に調子を合わせていく。

「さぁて、皆々様、昨晩はよう眠れましたかいな」御師の声が坂を上ってくる。やれやれと三味線を手にした庄助の袖を、ぐぃと何かが引いた。

「どや、姐さん儂と乳繰りあわんか」吐く息が酒臭い。たまにいる下衆野郎だ。


 御師率いる朝一番の客が連なって登ってくる方角とは逆、坂を下ってきた男は古市帰りか。薄汚い着物に髷は崩れ、穴の開いたもも引き姿に脚絆はない。

(どこぞの中間やな。古市で相手にされなんだか)鼻を鳴らした庄助は、

「お客さん、あたしゃ客を選ぶんだよっ」

 ぱしっ、と袖を払って口の端を上げた。

「このあまっ!」飛びかかろうとした男の足を払って、庄助は勢いよく三味線をかき鳴らす。


 ♬縞さん紺さん浅黄さん、浅黄のもも引膝抜けさん、お杉お玉が百姓の子なら、かねの橋かきよ宮川に――。


ようやく坂を登ってきた一行が足を止めた。

「ふざけやがって!」無様に転がった男が庄助めがけて石を投げつける。

ひょい、と撥で受けた小石が、男の頭を掠めて飛んでいく。向かいに蓙を広げる乞食の竹籠がごろりと揺れた。「おありがとうござい」盲しいた乞食が頭を下げる。

「わぁ」大きなどよめきと共に拍手が沸き起こった。


 それ、やてかんせほうらんせ。伊勢の名物お杉お玉でござぁい――。


 愛想良く笑んだ庄助に、相方のお玉が唄い出した。

 ♬我に涙を添へよとや、ゆふべあしたの鐘の声――。

 なかなかの美声である。一行の中から「よっ、待ってました」とかけ声が上がった。

「さて、皆様も。銭を投げてご覧なさい。お杉お玉は決してしくじりはいたしません。銭は全て升の中。試してごらんになればわかります」

 騒ぎを余興だと思ったらしい。御師はおっとりと笑んで一行を促した。


 一行が懐を探る間、御師はまじまじと庄助を眺め、はっと目を(みは)った。庄助に気付いたらしい馴染みの顔は鍵屋大夫の手代、弥一郎だ。挨拶代わりに目配せすれば、ちらと庄助の横に目を向けた。相方のお玉がはにかんで今度は庄助が目を瞠る。

(へぇ……こらぁまた、春やねぇ)気が緩んだ庄助に、

「舐めんじゃねぇぞ、このあまっ」きらり、と光るものが目の端を掠めた。

(しまったっ)銭でも小石でもない細長い金属がお玉の勘を鈍らせた。きん、と小さな音に赤い花が散った。


「きゃあ」誰かが叫んだ。ざわめきが一行の中に広がる。「お玉っ」腰を浮かせた庄助より早く、弥一郎がお玉に駆け寄った。

「大丈夫かっ、お美代」「へぇ、大したことありまへん」

 お玉(名はお美代というようだが)は袖で頬を拭い僅かに顔を顰めた。手拭いを取り出した弥一郎が、血の滲んだお美代の頬に当てる。


「へんっ。しくじったやないか。お杉お玉が聞いて呆れる。姐さんよ、おめぇが大人しく儂の言うことを聞いとれば、相方は怪我をせずにすんだんや。今からでも遅うないで。どや、儂に付き合うか」

(ふざけんなてめぇ、このやろう)


 着物の裾に手をかけた庄助を、向かいの盲しいた乞食が首を横に振って押し留めた。ささらを振って男衆へ合図を送る。

 目出度い伊勢参りの一行が立ち寄る間の山は、伊勢名物の賑わいどころ。客をもてなすのが間の山芸人の仕事だ。常ならばここで御師が機転を利かせ、一行の気を取りなすところだが弥一郎はそれどころではない。言い掛かり男に一行が不安な目を向け、何とも気まずい気配が漂っている。ジャン。庄助は三味線をかき鳴らした。


 それ、やてかんせほうらんせ。お江戸さんに、縞さん紺さん花色さん。お杉お玉もご愛敬。気儘に花も咲かせましょう。花はめでたや女の花に、男衆も寄ってくる――。


 庄助のお囃子に弥一郎がぱっ、とお玉から離れた。「お伊勢さんも隅に置けんねぇ」ご老人の言葉に一行に笑顔が戻る。

「いや、わてはその……」しどろもどろの弥一郎に対し、お玉はさすがに芸人とあって、にこやかな笑みで三味線の調子を合わせる。

 とんだ災難とはいえ、お杉お玉がしくじれば仕置きを受ける。男衆が駆けつける前に始末はつけて置きたいところだ。


 降り始めた銭を捌き、升にちゃりちゃりと銭の酒が注がれる。本日の客は気前がいい。

 庄助もさることながら、相方のお玉もまた若い別嬪とあって男衆が寄ってくる。

「よっ、いいぞ、お杉っ」「嫌やわ、うちはお玉です」愛想の良い娘には男衆も銭を惜しまん。黒山の人だかりとなった庄助の掛け小屋は大盛況だ。

 ようやく調子を取り戻した庄助が、我に涙を添へよとや……喉を利かせて間の山節を口に乗せ、

「こぉら、どけどけぇい」人だかりを分けた声に眉根を寄せた。虫と共に追いやった不機嫌を藪から蛇が咥えて出る。

「えらい繁盛やないか。儂が盛り上げたったおかげさまやろ。どや、姐さん、儂にせぎょうせぇへんか」

 下品に笑った男の口に、白く引っかかった饂飩が庄助の箍を外した。こいつには躾直しが必要だ。


 ♬よう鳴きはるわ鶏さん、お天道さんめがけて声張り上げて、鳴けど騒げど我が手に落ちぬ、高嶺の花に声枯らし――。


 へんっ、と顎を上げた庄助に男がにやりと笑った。

「威勢の良いおなごやな。けどもう終いや」

 しゅっ、と鳴いた蛇がとぐろを巻いた。男の後ろで手拭いを振り回す男は印地打ちだ。

 今は亡き、拝田の印地打ちは寝ながらにして鼠を射貫いた達人だった。微かな風の音が、床に叩きつけられた鼠を思い起こさせる。(まずいぞ)

 ぴたり、と庄助に当てられた狙いは、手にした撥では返せない。避ければ粗末な掛け小屋は吹っ飛び、「お前には躾けが足りないようだねぇ」母の言葉が待っている。虫はもうたくさんだ。


 誰か、母ちゃんの悪食を何とかしてくれ――。

 大きく振りかぶった男に庄助が胸の内で叫び――。


「およしよ、みっともない。間の山のはらいは銭と決まってるんだ」

 男より頭一つでかい美形が、ひょいと手拭いを取り上げた。

 すかさず身を返した男の笠が人混みに消える。

「ちっ」と舌打ちした下衆男が「覚えてろっ」お決まりの台詞を残して身を翻した。

 

   (十五)


「随分と派手にやったじゃあないか。さすがあたしの庄助だ」


 掛け小屋の裏、素間は上機嫌で赤福を食う。

「お前もお食べよ、腹減ってるだろう?」

 躾直しから日が浅い庄助は弾力のある白い物には腰が引ける。

 頭を振った庄助に、なんだい好物じゃないかと素間は常になく下品に赤福を噛み下す。むにゅっ、と口の端から飛び出した餅から庄助は目を背けた。

「目は心の引き出しを開ける鍵となる――か」素間は感慨深げだがそもそも。

 此度の躾直しのきっかけは素間の余計なひと言にある。

勝手な稼ぎも、牛のしょんべんも母にとっては些細な話だ。いくらでも言い訳の余地がある。だが玉家の頭の名が出ては母の癇癪が飛び出して当然だ。


「てめぇ図りやがったな。どういう了見だっ」吐き気を堪えて噛みつく庄助に、

「言ったろ? あたしはお前のことをよーく知らなくちゃならない」素間はしれっ、と言い放つ。

 躾直しも知らないようじゃあ末代の恥とのたまう素間は躾直しの根源を知らん。

 虫嫌いの庄助を元気づけるため、「こんなものは怖くない」と、母が芋虫を噛み砕いたのがきっかけで母の悪食が始まった。美味かったかどうかはわからんが、母は度々虫を食うようになった。その悪食が元で始まった躾直しは、癇癪を起こした母にとって庄助の弱いところを躾直す正しい行為なのだ。

 母の癇癪は病だ、刺激するなと噛みつく庄助に、お前があたしを裏切るから悪いと素間はしつこい。


「仕事にかこつけて牛谷の若衆に色目を使うなんざぁもっての他だ。あたしはお美衣さんから大事なお前を預かっているんだ、もしもがあればお美衣さんに合わせる顔がない」

 お前は母ちゃんと顔を合わせ過ぎだと庄助は口を尖らせた。

「だから。細心の注意を払いました」

 常より種類が豊富で初めて見るものが含まれていたのは素間のせいか。

「常はおこうさんが畑で見つけたものを飼育していると聞きました」

 常と同じじゃあ芸がない。せっかくだからと朝熊岳で採取したものを取り集め、金魚に食わしてみたという。


「金魚と一緒かっ!」「ご心配なく。金魚が死んだものは除外しました」庄助に言葉はない。

「金魚は人の身代わりになると言います。うちの金魚はお前の代わりに10匹も死にました。可愛がっていたのにね、残念です」

(だったら食わすな)死んだ金魚を気の毒に思う。

「金魚は無駄死にではなかったようです。おかげで本日は良い稼ぎとなりました。立派な卒塔婆が建てられそうですねぇ、庄助」

 岳信仰が盛んな伊勢では宗派に関係なく、故人のために朝熊岳に卒塔婆を建てる習わしがある。

 金魚に卒塔婆とは何か間違っている気もするが、己の身代わりとなった金魚に知らん顔はできん。だが虫の卒塔婆までは知らんぞと、庄助は念を押した。


「おまえの身代わりなんだから、六尺は必要だ。ちんけなのは罰が当たる。三八に探させよう。あれは役に立つ小僧だ。どこぞの役立たずとは大違い」

 金剛證寺の小僧、三八は素間のお気に入りだ。


「ともあれ時を無駄にしたあげく、金魚まで犠牲にしたお前にはしっかり働いてもらうよ。紫の君、復活だ」

 そもそも全ての元凶は紫の君にある。加えて今、紫の君を躍起になって探す茂吉に捕まれば、またまた母の逆鱗に触れる。冗談じゃないと目を剥いた庄助を尻目に、

「庄助、春だねぇ……」素間は花霞みの天を仰いだ。

「土中の虫がもぞもぞと動き出す季節さ」

 素間は庄助に構わずぞっとする言を吐く。

「さて、陽気に誘われて土中から顔を出した虫はいったい何を企むやら……」

 憂い顔の素間は、「ありゃあ、古市に巣ごもりした虫だよ」と呟いた。


 素間の話は常に脈略がない。ぽかん、と開けた庄助の口を素間の扇がばしっ、と叩いた。

「お前の頭は虫食いだらけかっ」

 虫の話はやめてほしい。

「印地打ちの話さ。虫好きのお前のために分かり易くしてやってるんじゃないか」

 わかりにくいし、虫は嫌い。だが印地打ちは気に掛かる。「知っとるんかっ」と食らい付いた庄助に、「あたしを誰だと思ってるんだい」素間は赤福を口に放り込んだ。


「お前に絡んだ破落戸にも見覚えがある。はて、どこの中間だったか」

 常に人手不足の御師邸の中間長屋は、得体の知れん余所者で溢れている。流行の伊勢参りの立役者、御師の羽振りの良さに焦がれるからだ。

「連んだ虫は始末に悪い。せっせと食む葉はあっという間に虫の腹の中さ。そいつが金の糸でも吐けば……と、まぁ虫を縁に小虫をちらつかせてみたはいいが……」

 本日の興行は素間の仕掛けだったらしい。虫を食った庄助を虫の餌にするとは素間はとことん質が悪い。

「小虫が餌ではやはり鯛は釣れん。連んだ虫を見つけられただけでも良しとしよう」

 素間は最後の赤福を庄助の口にねじ込んだ。


第二章 間の山の神隠し

     (一)

 麗らかな春の風に、頭上に結い上げた庄助の髪がさらさらと揺れる。判官贔屓の日本人、牛若丸興行は間の山でも人気の高い出し物だ。

 掛け小屋の裏手の竹藪には幾分か涼しい風が吹く。牛若と弁慶は仲良く並んで一休みだ。


「庄助、いっぺん交代せんか。儂も御曹司やってみたい」白袈裟をむしり取り、ぱたぱたと団扇を使う相方は茂吉だ。

 本日の客は御師邸のいずれ名だたる檀那衆。御師らの要望により、間の山の興行内容も特別となっている。

 ひときわ華やかな興行ばかりの間の山はまさに春。色とりどりの衣装の花が満開だ。

 茂吉と庄助が組む興行には伊勢の住人も多く集まり、大変な賑わいとなっている。


「そら、替わらんでもないけど。お前が乗ったら大薙刀が折れてまうで」

 弁慶の繰り出す大薙刀に牛若がひらりと飛び乗る名場面。大薙刀が折れては興行は台無しだ。

「重すぎるか……ふーん、今しばし痩せとったらよかったなぁ」

 紫の君の一件で、げっそりと痩せた茂吉は今、元通りの金太郎に戻っている。顔の色つやも良く、(前より太ったんとちゃう?)と思わせる茂吉にいったい何があったか。

「わー」表から聞こえる大歓声は数えて三つ。歓声の数で興行の終わりを計る庄助は、身を乗り出して声を潜めた。


「お前、何ぞええことあった?」

 からかうように目に笑いを込めた庄助を見下ろして茂吉がへへっ、と笑う。

「大したこっちゃない」

 ふいっ、と横を向いた口元が緩む金太郎は、単純でわかりやすい。

「件の君かいな。近頃また伊勢の町にでとるそやないか」と探りを入れた。


 素間の命令で再び紫の君として夕刻の辻に出た庄助は、初日に茂吉と出くわした。

祝言の前祝いの後、間の山でも網受けでも、とんと顔を見なかった茂吉は目付衆の手伝いに借り出されていたらしい。

 雄牛のごとく突進してくる茂吉を予測して身構えた紫(庄)の(助)君は、ちら、と一瞥をくれて通り過ぎた茂吉に肩透かしを食らった。きっと忙しいのだと気を取り直して佇む夕暮れの辻で、庄助が仕入れた情報は他愛ない噂話ばかり。

「また余所もんが御師株を買うてきやって。金屋大夫んとこの屋敷、借りおったらしい」

「京の町からきはった、腕のいいお医者やて。橋谷大夫んとこに厄介にいてはるわ」

 神隠しのかの字もない。


やはり茂吉が頼みだとひたすら待った紫(庄)の(助)君に許夫(いいなづけ)は姿を見せず、突然に舞い込んだ本日の興行に期待を寄せた庄助だ。

「紫の君か。あれはもう諦めた」

 素っ気ない茂吉の言い様に、庄助の頭の中で鐘が鳴った。(何でや……)何故か虚しさが込み上げる。


熱心だったじゃないか。大牛様の思し召しはどうした。惚れたんじゃないのかと、思わず熱がこもる庄助の物言いに、

「男は潔ようのうてはいかん。辻占の女は余所もんやし、大牛様はちぃとお歳を召しておられる。勘違いもあろうて」

 茂吉の熱はすっかり冷めているようだ。実に面白くない。

「それにしちゃあ嬉しそうやな。目付衆に決まったんか」


 牛鬼親分の上を行く目付衆になるには、女になどうつつを抜かしとってはいかん――。


 茂吉の考えそうなことだ。決して他の女に気を移した訳じゃないと独り合点しつつ、

「わー」表の歓声は四つ目。(あと二つ)庄助の額から冷えた汗が零れ落ちた。

「ちゃうちゃう。目付衆にはまだなれん。牛鬼親分のように皆に睨みを効かせるには、儂はまだ青いて。第一、若衆の引退にはまだ早い。あと二年は稼がんと」

 もぞもぞと汗を拭きだした茂吉もまた、歓声の数を数えている。白袈裟を巻き始めた茂吉に庄助は焦りを感じた。


「庄助、ちぃと体慣らししようや」立ち上がった茂吉に庄助ははだけた前を合わせた。

 だんっ。弁慶の大薙刀が地を叩いて「わー」と表の歓声が庄助の耳に響いた。(あと一つ)

 ひゅん、と薙いだ大薙刀を軽く跳び、茂吉の目がにやっ、と笑う。たんっ、と正面を突いた薙刀に飛びすさる。地を蹴った庄助が大薙刀に飛び乗って茂吉が目を細めた。

「お前……紫の君に似とるなぁ」呟いた茂吉に足が滑った。大きな腕が庄助を抱える。

「儂、嫁とるんや。すまんなぁ」庄助の腕を取って茂吉はぽいっ、と背に放り上げた。

「と。よう似た男に言うても無駄か。庄助、儂正直、あの女にはえらい未練がある。けど村長の命には逆らえん」


 庄助の息が止まった。


「あの女に会うたら伝えたってくれ。儂のことは諦めて幸せになってくれと。儂は牛谷に神さんの子ぉを誕生させる運命の男なんや、村のために私情は捨てなあかん」

 ばさっ、と裾を捲った茂吉が大見得を切って首を振った。

「庄助さん、茂吉さん、出番です」

 小童の声に茂吉はさっさと踵を返した。

    

  *

 既にいい加減傾いた月の下、素間が神妙な手つきで火に炙る干物は大杉の主の祝儀だ。神饌にも上げられる鯨の干物は素間ですらお目にかかったのは二度目という逸品だ。

 初めて口にした鯨は実に美味い。本日の特別興行に関わっていない幸福家の隠居が、他家を凌ぐ高価な品を贈ってくれた事実を有り難く思う。

 恐縮してちまちまと口に運ぶ庄助に反し、素間はまるで遠慮がない。気がつけば五切れあった干物は残り一切れ。こらあかんと慌てて伸ばした庄助の手を小石が弾き、最後の一切れは素間の口に消えた。


 肩を落とした庄助の小屋の前は散らかり放題。お杉らは酒とご馳走と素間に目がない。(またわてが片付けるんか)常の事ながら素間がいると損ばかりを被る。

 かつん、と音を立てた向かいの杉の木に目をやれば、小石が春の若芽のごとくに突き刺さる。びっしりと若芽をつけた杉の木に庄助は眉を上げた。


「何の呪いや」「あたしゃ負けるのが嫌いなんだ」

 素間は印地打ちに対抗するつもりらしい。

「けど。餌が役立たずじゃあ話にならない。お前はどうも男心を掴み損ねるようだ。茂吉には袖にされ、下衆野郎には忘れられる……」

 素間は本日の賑わいに、二人が乗り込んで来ると思っていたらしい。勝手に餌にされた挙げ句、役立たずとは聞き捨てならん。目を怒らせた庄助に、

「わかっちゃいないようだねぇ」ごくり、と鯨を飲み込んだ素間は、「ありぁ囮だ」と呟いた。


 派手な喧嘩に突然に降る御札。人があっけにとられる囮を使った犯罪が増えている。

「一種異様な雰囲気を醸し出す間の山。そこで忽然と消えた者は神隠しと。間の山に神さんの子ぉが宿るとまで言われる異世界では、神隠しもさもありなんというわけさ。そんな言い訳が通る神域伊勢を狙った犯罪じゃあないかと、さ」

 葉を食んだ虫が金の糸を吐く――。素間の例えは人攫いを意味していたらしい。


「牛谷の神隠しもまだ終わっちゃあいない。穢多村の良介が正三が手伝いに来ないと文句を言ってる」

 穢多村は穢多たる身分の者が牛を糧に暮らしている。排他的な牛谷が唯一穢多村と、交流を持つ由縁は牛だ。牛神様へのご奉仕と称して牛谷の童は穢多村へ牛の世話に出向く。正三は三度の飯より牛好きの牛谷の童だ。

「茂吉の縁談を喜べんお前の気持ちはわかるが。おかしいとは思わなかったかい? 穢多村に茂吉に見合う娘はいないよ。だったら茂吉はどこから嫁を貰うんだい」

「あっ」と庄助は声を上げた。穢多村からの嫁とりが牛谷の倣いだ。見合う娘がいないと嘆いていた茂吉だからこそ、余所者の紫の君に興味を示したのだ。


「騒がしいだろ?」素間は布団に横たわって大欠伸をかました。

「そこでだ」手招きした素間に庄助は身を寄せる。

「お前は太兵の守りをしておやり」素間の話はちっともわからん。

「なんでや」聞き返した庄助の言葉を素間の寝息が押し返した。

    

 (三)


 内宮外宮の間を繋ぐ間の山はまだらの異界。


聖域伊勢にあって、穢人が参宮者の穢れを祓う場所は、精進落としへと向かう人々を俗界へ返す道でもある。聖と俗が混ざり合った異界だ。

 伊勢の鬼門を守る金剛證寺縁の野間家は、異界の入口に出店を構える。古市へと向かう参宮客は伊勢を後にする帰り客だ。

 

――さてお帰りの皆々様、お土産の買い忘れはございませんか。嵩張らぬ野間万金丹は万能薬。お守り代わりに今ひとつ。お持ちになって損はございますまい――。


古市案内の御師らに、素間は念押しを忘れない。出来損ないの御曹司も店への配慮はあるようだ。

 丑の刻を過ぎた今、野間万金丹の出店も眠りの最中。問題の若旦那が不在とあらば店の者が心安らかに眠れるも道理だ。昨今素間はお気に入りの庄助布団で寝起きする。

 しとしとと降る冷たい春雨の中、身を屈めながら小田橋を渡りきった庄助は、


「こんな夜更けにあの坂を越えるんか。化け物は出んやろうな、儂ゃあ女房と化け物はどうも性に合わん」


 近づく提灯の明かりに身を翻した。火の用心の文字の後ろに潜り込む。

「へぇ。間の山に化け物がおるとは聞きまへん。牛谷辺りには牛鬼伝説がありますが。今はその子孫と言われる一族が住んどります。お客さんが昼間ご覧になった間の山芸人の中におりますんや」

 男の一人は御師邸の者だ。客を古市へと案内するらしい。

「芸人の中に角のあるもんは見とらんで。夜に生えるんとちゃうんか。儂の女房も時ににょきにょきと角が生えよんわ」

 春の雨に辺りは暗い。古市には行きたいが、まさに異界の口を開けた間の山の入口に客は蹈鞴を踏んだようだ。


(そやったら帰れよ。わては忙しいんや)


 追ってきた小さな足音は既に雨音に消されている。太兵は足が速い。三日続けて太兵の守りをしくじれば、またまた素間に罵倒される。

「お前の大事な太兵が掟破りで追放じゃあ、お前も寝覚めが悪かろう。せめてお前が付き添って、いざというときににゃあ弁明役を買ってでるべきだ」


 夜な夜な村を抜け出す太兵を案じる素間には合点がいかんが、弟分太兵のためならと、後を追けて三日。初日は野犬に追い立てられ、二日目は正体を失った酔っ払いに絡まれて太兵を見失った。太兵の帰りを待って村に戻る庄助は寝不足だ。

本日こそはと気合いを入れた庄助だが、そぼ降る雨に祟られた。

 急な尾部坂に足を滑らせれば追尾に気付かれる。慎重に坂を降りた庄助から、太兵の足音はすぐさま遠のいた。ようやく追いついた庄助に邪魔が入れば舌打ちのひとつもしたくなる。

 太兵の背はすでにない。提灯に浮かび上がる二つの影は糸のような雨に囲まれている。


「心配せんでよろしい。昔はともかく、今は牛鬼が出るいう話は聞きまへん」

 いささか苛ついた口調の男が提灯を掲げ、庄助は目を剥いた。浮かび上がる顔に見覚えがある。

 本日は崩れた髷も穴あきの股引もないが、ぽつぽつと顎の辺りに顔を出す髯と、はしょった裾が垂れ下がる様が下衆野郎の名残をみせている。

 御師邸に数多いる中間だが、はっぴを着ていない男はどこの者か。客の案内をする以上、いずこかの御師邸の者には違いない。


「儂が言うんは鬼ばかりやない。こんな闇やったら賊も出てくるとちゃうか? 銭も惜しいが命はもっと惜しい。儂が帰らんと女房の角はもっと伸びそうや」

「そやからわてがお供しとります。錦大夫様んとこは腕っ節の強いもんがおらんて、わてを呼ばはったんです。人が集まれば賊も集まる。夜の外出は危険ですがお客様にも事情がある」

 用心棒ならば身なりに気を配るまでもない。


「そらまぁ、あんたがいれば……」口籠もる男はへっぴり腰だ。

「ほんなら出直しますか? 朝になれば間の山童が拾い損ねた銭を集めに来る。童とてひと気があればお客様も安心でしょう」

 くつくつと笑う用心棒はからかい半分だ。日が昇るのを待って遊里へ向かう間抜けはいない。

「いや。行こう。せっかく用心棒が来てくれたんや。儂も明日は発たねばならん。皆と一緒に帰る道中、精進落としを仕損じた男と笑われるんも口惜しい」

 男がぽんっ、と腿を叩いた。用心棒がちら、と後ろを振り返る。目を細めた用心棒に庄助は眉を寄せた。(こいつ……)


「けどあんた、小鬼はどうや。天狗を喰らう小鬼もおると聞くで。童は食欲旺盛や、うちの銭も飯も童が食い尽くしよるで」男は何とも往生際が悪い。

こそっと袖を掴んだ男に用心棒がにやっ、と笑った。

「間の山の小鬼に夜歩きは禁忌。今時分はおとなしゅう寝息を立てておりましょう。ささ、観音様がお待ちかね。ご開帳に遅れては精進落としができません」

 へっぴり腰を押した用心棒に息を呑み、庄助は逸る思いを押さえて小田橋を渡る提灯を見送った。

    

  (四)


 艶やかな花笠が舞い踊る。


 昨日の雨が嘘のように晴れた間の山では、童の興行が春の芽吹きを思わせる。

 いずれも頑是無い童の芸は、あどけなさを以て客の足を止める。女客にとって動物と童の芸に勝るものはない。

 本日のご案内は女客が多い。御師の依頼により内容を変えた興行は、童衆、若衆が中心だ。

 大主家率いる一行は、恰幅のいい男が連れる婀娜っぽい姐さんが数人。鍵屋家が率いる品の良い老婆三人は大店の女隠居か。

 三日市家が率いるは母娘らしき二人とそれに付き添う娘が二人。

 福島家率いる一行は、口煩そうな老婆に連れられた若い娘が三人。

 その他、抜け参りらしい娘の一行と、施行の文字を背負った白装束の母子、老武士を連れた恰幅のいい女と、間の山には女客の姿が溢れている。


 常は財布の紐を堅く縛る女衆も、旅の開放感からか実に気前がいい。じゃらじゃらと鳴る銭の音に芸人らの士気も上がる。女衆の気前の良さにつられ、回りの男衆も威勢良く銭を撒き、間の山は大繁盛だ。


 婀娜っぽい姐さんらは、旦那の目を盗んで若衆の袂に銭を放り込む。間の山一番の庄助は朝から五人もの姐さんに組み敷かれた。袂は銭で重くなる代わりに腰はやけに軽い。

 さすがに手慣れた姐さんらの相手では、若い庄助とてへとへとだ。仕切りの幇間に若衆舞いを断り、掛け小屋の裏に大の字となって体を労っている。腰が据わらぬでは舞いは舞えん。庄助の本業は芸人である。


「へぇ。随分といいご身分じゃないか。本日はもう終いかい? たった五人で店じまいたぁ情けない」と、勝手を言う素間は古市で一晩に二十人斬りをした男だ。その精力を仕事に使ってみろと庄助は思う。遊びで女を抱くならば素間には負けんと自負している。

「だらしないお前に引き替え、太兵は女衆の注目の的さ。もたもたしてると間の山一の評判をとられちまうよ。農繁期の客寄せは大事だからね。芝居小屋に負けちゃあいられない」


 外宮の豊受大神様は農耕の神である。故に御師らはこぞって農村に伊勢講を広め、百姓衆を伊勢に連れてくる。

 よって伊勢は農閑期が一番賑わしい。だが、逆にお武家や商家の旦那方は、人出を嫌って農繁期に伊勢を訪れる。百姓衆よりも銭を持つお武家や商家の旦那方の気を引くのはやはり芸であり、古市には常設の芝居小屋がある。古市と中之地蔵に建つ座では、常にどちらかに興行があり客足を引いている。

 古市にも太兵にも負けてはおれんと思いつつ、寝不足の上に魔物に精を抜かれた庄助に、春の陽射しは容赦ない。


(あかん。眠いわ)とろり、と溶けた庄助の意識を、「その花形童、太兵の件だが……」素間の声が掬い上げた。

「お前の役立たずはいつものことだが、泰蔵から頼まれたのはあたしだ。もしもがあったらあたしの顔が立たないんだよっ」素間の扇はやっぱり庄助の額を打つ。

 親孝行な太兵のことだ、物入りではやむを得んと掟破りに目を瞑ったものの、近頃、犯罪の増えている伊勢の町、童一人では心許ないと太兵を案じたのは泰蔵だったらしい。子のない泰蔵夫婦は、親孝行な太兵を何かと気に掛けている。だが。

 太兵が物入りで野間家の放蕩息子に相談を持ちかけるとは――。じろりと睨んだ庄助に、

「お静の薬はまからんかと、相談に来たんです」素間はしれっと言い放つ。


「まけたれよ」「元が高価なんです」商人には情けがない。

「代わりにお前を守りに付けたものの、まるで役に立たんではお話になりません」

「元はと言えばお前のせいやろっ」噛みついた庄助に、

「虫は動き出しているようです」気に入らん物言いで、素間はさっさと話題を変える。


 掛け小屋の向こうに拍手が沸き上がった。素間の扇が庄助の襟を引っかける。くいっ、と引き上げられた庄助の頭が鼓よろしく素間の肩に乗る。素間はひょい、と掛け小屋の端から身を乗り出した。「ご覧よ」

 興行を終えた童衆が散っていく。深く腰を折った太兵が独り取り残された。

 最後まで観衆に礼を尽くしてこそ本物の芸人。今一度笑顔を向けて四方に頭を下げる様は立派だ。

(やるやないか)思わず緩めた庄助の頬を、素間の扇が突いた。

「どこ見てるんだい、あっちだよっ」


素間が伸ばした扇の先、観衆をかき分けて男が太兵に近寄っていく。男が太兵の手を取った。太兵の小さな手の平で小粒がきらり、と光る。慌てて押し返す太兵の肩を男は親しげに抱えた。

(あの野郎ぉ)腕をまくった庄助を素間が押さえた。

「騒ぎはいけません」庄助の背を叩いた素間はおっとりと懐手をして掛け小屋の脇をすり抜けた。

「お見事でした太兵。あたしがお静さんに本日の勇姿を語って差し上げましょう」

 女衆が息を呑んだ。着流し姿の美形が女衆の視線を集め、件の破落戸が太兵から手を離した。

「素間さん」戸惑いがちに素間に目を向けた太兵の後ろで男が素早く身を返す。


「お前、浦口大夫の中間と知り合いかい?」ぬかりない素間ははっぴの屋号を確認したらしい。首を横に振った太兵に素間は柔らかな笑みを投げた。

「さぁて皆様お立ち合い。間の山一の若衆の登場でござぁい」

 深く腰を折った素間に庄助の襟が引かれる。

(わては魚かっ)やむなく掛け小屋の前につんのめった庄助に、「よっ、待ってました、庄助さんっ」大杉の主が声を上げる。

 素間がすかさず枕箱を投げた。

    

 (五)


「ほんまにぼんは杉家の若松様や」眦を下げたおこうが薪に火を入れた。

「えらい豪勢やわぁ」庄助を取り囲むお杉衆の目は飛びださんばかりだ。並んだ大ぶりの盥が二つ。それぞれに山ほどのご祝儀が載っている。


 大きさも種類も違う魚、みずみずしく色とりどりの野菜。庄助の目に新しい水菓子、大きく丸い餅。他にもスルメや干し魚、庄助にはわからん品も多いが、賑わしいご祝儀は女衆を喜ばせるには十分だ。

 本日の女衆向けの興行は大好評。村長への祝儀を始め、酒や菓子など様々な品が御師邸の中間の手によって拝田、牛谷の村に運ばれた。御師邸から届く祝儀は興行への礼。間の山の注文興行は御師邸のもてなしの一つだ。

 一方、個人への祝儀は人気の度合いを示す芸人の華。間の山一を誇る若衆庄助には多くの祝儀が届くが、際だって豪勢な品は大杉の主からの祝儀である。隠居の身で毎回豪勢な祝儀を贈ってくれる大杉の主は庄助の大事な贔屓筋。常に感謝の思いで一杯の庄助だが……。


「さて皆さんお集まり」お杉衆の向こうから、樽を転がしやってくる今一人の贔屓筋は、

「あっ、若旦那っ」庄助の華を一気に奪い去る厄介者。

 庄助へと向けられた賞賛の眼差しは、すぐさま素間への憧憬の目に変わる。お杉衆を大いに沸かせる様を思えば、確かに間の山一若衆の誉れとはなりそうだがやはり……面白くない。


 盥を覗き込んだ素間は、「さすがは大杉の主だ」と言いつつも、「ほんとにこれで全部かい」と庄助を睨む。

「これだけあれば御の字だ」とがなる庄助の背がひやり、と冷える。祝儀の品はあと二つ。

 かつて器としてしかお目にかかった例のない大ぶりの鮑は、竹皮に包んで布団の下。

 神饌に捧げられる貴重な熨斗鮑は和紙にくるんで懐に。決して素間には渡さんと心に決めている。


 まずは祝杯と、主役の庄助に渡された大杯には目眩がする。数人のお杉が柄杓で酒を注ぐ様に血の気が下がった。(飲めるかっ。死んでまうわ)にまり、と笑う素間には腸が煮えくり返る。


「皆の衆、今宵は盛大にやっとくれ。あたしの庄助の奢りだよ」


 庄助の杯を取り上げた素間が一気に酒を飲み干した。

歓声を上げたお杉衆に文句なく始まった宴に疑問を感じつつ、やれやれと胸を撫で下ろす庄助に素間は異物の入った杯を押しつける。「あたしからの祝儀酒だ」どぶ色の異物に顔を顰めた庄助に、(酒にするかい)と耳打ちする素間は性悪だ。 

 飲むわ食うわの芸人村。庄助の祝儀はどんどんと減っていく。素間の祝儀酒は苦く不味く、食う物全ての味を台無しにする。


(ほんまにわてが主役やろか)と、若いお杉らの撥合戦を眺める庄助に、

「山田奉行所に投げ文があったよ」酒臭い素間の声が囁いた。

「牛谷の村に余所者が入り込んでいる。人攫いの籠を捕らえ、どうか童らを取り戻して頂きたい。とね」

 素間は庄助の杯に異物を注ぎ込んだ。


「牛谷坂の乞食の話、知ってるだろう?」

 目付衆が躍起となって探していると話題の乞食は、深夜に出るとの噂だが、見た者も少なく実在は怪しいものだ。

 深夜の物乞いなど稼ぎにならん。いずれ諦めて出て行くとは拝田側の意見だが、外宮内宮を繋ぐ街道は間の山芸人の領域である、縄張りを侵されては放ってはおけんと牛谷側の鼻息は荒い。

「今宵、太兵は美月んとこだ。お静の祈祷に付き添ってる」

 太兵が羨ましい。

「夜遊びはないだろう」

 手にした盃をぐぃ、と傾け、投げ上げた素間に嫌ぁ~な予感がする。


「乞食に会っておいで。籠の有無を確かめてくるんだ」

 すらり、と立ち上がった素間に女衆の歓声が上がる。受け取った盃をかざし、妖艶な笑みを浮かべる素間に、

「よっ、日本一の若旦那!」幇間の惣介が高らかに囃し立てた。

    

  (六)

 灯りに集うは虫ばかり。


(虫は入っとらんやろな)訝りながら庄助は急な尾部坂を駆け上がる。

 そもそも夜目の利く庄助だが、やけに冴えた夜道と吹き飛んだ眠気に祝儀酒の威力を思い知る。目指す日中を思わせる灯りは古市。男の虫を食う女郎蜘蛛の巣だ。

 千鳥足の客に連れ添う遊女をやり過ごし、床机に腰掛けた強面から顔を隠して足早に通り過ぎる。

 ひときわ明るい建物の前、遊女と連れ立った男が数人、影絵と映る総踊りをうっとりと見上げている。備前屋の亀の子踊りは伊勢名物。近頃では女衆の見物も増えていると聞く。


 備前屋、油屋と、盛大に提灯を吊り下げた建物を通り過ぎれば辺りは急に暗くなる。

 灯りを消した店は既に客の床入りが済み、男衆も店じまいだ。

 庄助の空きっ腹がぐぅ、と鳴る。

 街道沿いの遊郭の路地裏には、そこかしこに一杯飲み屋や飯屋が軒を連ねる。遊里の客や旅人、客に付添う御師や中間らを相手にどの店も賑わっている。古市を過ぎれば牛谷坂だ。

 牛鬼伝説の残る牛谷坂は、地元の者でも夜歩きを拒む薄気味悪い場所だ。

 客を引率する御師や中間の腰には酒徳利がぶら下がる。牛鬼は酒を好むらしい。

 客を待つ御師らは路地裏の飯屋で時を潰す。うっかり顔見知りのお伊勢さんにでも出くわせば暇つぶしの相手をさせられる。朝方まで付き合う気のない庄助は、灯りの途絶えた街道の先に目を凝らした。幸いにも辺りに人影はない。

 ぽっかりと口を開けた闇を目指して庄助は走りだした。刹那、ぼよんと跳ね返されて尻餅をつく。

「おや。これはまた異な場所で。間の山の若衆も女の毒気にやられましたんか? あんさんの塒は反対ですやろ。この先は牛谷でっせ」

 ふくよかな手が庄助の腕を掴んだ。人好きのする丸顔は春木家の殿原、松右衛門だ。

 人懐っこい噂好きは、伊勢の噂の本家本元。庄助の素間の色子疑惑もご多分に漏れず。松右衛門の語るでっちあげは、当人に悪気がない分始末に悪い。

 暇さえあれば誰彼かまわず捉まえる松右衛門の噂話は実に面白い。ついつい引き込まれて要らぬ口を叩けば、すぐさま噂話ができあがる。ある意味優れた才能の持ち主でもある。


「まぁ。庄助さんかてお年頃。古市の女は天女ですよって、酔いしれたかて詮無しですわ。けどちょっと聞きなはれ。おもろい話仕入れましたんや……」

 ぐぃ、と近づけた顔から出汁の匂いが香る。庄助の腹がまたまたぐぅと鳴った。

「奢りまっせ。はざま屋はすぐそこです」

 別火を持つはざま屋には芸人がよく出入りする。

「燗もできまっせ。庄助さん、酒いけますんやろ?」酒の言葉に庄助の胸が焼ける。

「せっかくですけど。急ぎますんや」

 残してきた鮑が心配だ。さっさと仕事を片付けて帰りたい。

「つれないこと言わんと」

 庄助の腕に絡みつく、芋虫のような指にぞっとする。よほど相手が欲しいらしい。下手な噂は命取り。人気商売のお伊勢さんは松右衛門の才能に恐れを成しているに違いない。

急いでますんやと芋虫を引っぺがす庄助に、聞かねば後悔する話、何せあの若旦那がと、芋虫はしつこく食い下がる。

 素間の噂になど興味はない。素間は噂話よりもずっと信憑性の薄い男だ。

素間に興味はありまへんと口を開いた庄助は、不意に頭をよぎった名案にほくそ笑んだ。


「その素間の用事で急いどりますんや」

 堪忍と片手で拝めば、「なんですのん?」話し好きの芋虫が糸を吐く。

「ウズメさんに届けもんがありますんや。刻限過ぎたら素間の顔がたちまへん」言って、慌てて口を塞いだ。

「ウズメはんがきはりますんか」食らい付いた芋虫に満足する。

 天鈿女命を祀る長峰神社は古市の街道沿いにある。間の山芸人を始め、芝居小屋の役者、古市の芸奴らが参る芸能の神様だ。

 参拝者が芸人ばかりの社には社務所もなく、閑散とした雑木林に覆われた場所にある。

 ウズメさんとは地元民が天鈿女命を親しんで呼ぶ呼称だが、人目を忍ぶ逢い引きに使われる場所柄、情婦を指す隠語にも使われる。

「知りまへん。わては頼まれたもんを届けにいくだけです。祠の裏に……いや、わて明日は網受けですよって、早うに寝たいんですわ」

 困惑顔で口を濁せば、松右衛門はしたり顔で頷いて庄助に道を空けた。


 野間家の御曹司が人目を忍ぶ相手。深夜に色子を使って届けさせる品。松右衛門は大いに想像を膨らませているに違いない。


 してやったり――。


 庄助はにやりと笑って松右衛門の脇をすり抜けた。

  

   (七)


 ぽつりぽつりと闇を照らす提灯は、迎え火を思い起こさせ庄助の怖気を誘う。今や伊勢名物となった古市では、夜間の灯は街道沿いの店の決め事となっている。

灯りの途切れるその先は下り坂。黒門近くの常夜灯まで漆黒の闇が続く牛谷坂だ。鬱蒼と茂る木々に覆われた辺りは、月夜の晩でも薄暗い。


(乞食なんてほんまにおるんかいな……)


巷の噂は当てにはならん。

「行き倒れとちゃいますの」

 おねうの言葉には頷ける。

 客を引き連れた御師が穢れに関わるなどとんでもない話だ。死人を乞食と偽って、触穢を逃れる様は、死者を生きていたと偽って墓まで送る伊勢独特の風習、速掛けを思わせる。御師が取りそうな手段だ。

「阿呆言うたらあきまへん。出没する言うてますんや。死人が出たり消えたりしますかいな」

 にたーと笑ったおこうに、総毛立ったのは昨晩の話だ。


(まさかな。牛鬼は伝説や。素間は乞食に会うてこい言うたんやで)庄助は気を取り直す。

「なるほど隠語でんな。参宮者で成り立つ伊勢に牛鬼の噂なんぞ立っては客足に響く。乞食やったら伊勢に掃いて捨てるほどおりますなぁ」

 意に反して蘇ったおねうの言葉が、庄助の足取りを重くした。

 頭を振った庄助は、突然飛び出して来た人影を避けて蹈鞴を踏んだ。「すんまへん」と一目散に灯りに向かって駆けていく後ろ姿は女だ。

(あぁ、そやウズメさん)庄助はにっ、と笑って雑木林に飛び込んだ。


 枝を分けて踏み入れば色とりどりの布を纏った祠が目に留まる。芸の上達を願った庄助は片袖を裂いて祠に掛けた。芸の神に参る芸人は己の衣装や帯を奉納するが倣いだ。

(ちょっと拝借)祠が纏う布のうち、一番派手な布端を手に取った庄助は、素間の手を真似た文字を載せて祠の裏に押し込んだ。


――どうか。素間の良縁が纏まりますように。


素間のウズメさんに興味津々の松右衛門は必ず祠の裏を覗きに来る。松右衛門にかかれば明日には間違いなく伊勢中に噂が広まる。さすがの素間も今回ばかりは涼しい顔はしておれんはずだ。庄助が素間のお相手に選んだ女は誰もが一目を置く大物だ。

(ええこと思いついたわ、ウズメさんのおかげさま)

 今一度手を合わせた庄助は、(帰るか)と祠に背を向けた。

 噂が広まれば素間は乞食どころではなくなる。庄助が乞食に会いに行く必要はない。

踏み出した庄助の足を、するりと何かが撫でた。目を向けた庄助の肩を誰かがぽん、と叩く。振り向いた先に人の姿はない。

(気のせいやて)ごくり、と喉を鳴らして先を急げばかさり、かさりと足音が下草を踏む。ぴたりと足を止めた庄助に音も止まった。


「誰や」上擦った庄助の声を木々のざわめきが巻き上げた。

「庄助さん……」か細い声を拾った庄助は、「やめてー」と叫んで走り出した。実を言えば臆病である。

 人気のない暗がりは嫌い、牛鬼はもっと嫌い、牛鬼かもしれん乞食には会いたくはない、早く皆のいる拝田村に帰りたい――。


 街道の薄明かりに手を伸ばした庄助の背を、誰かがどんっ、と突いた。よせば良いのに勝手に首が振り向いた。金色に光る目が庄助を覗き込む。

「ひゃあー」もはや恐慌状態の庄助はつんのめるようにして街道に転がり出た。人を求めて薄明かりに向けた足を、伸び上がった金色の目が押し戻す。闇を舞った金の目が庄助の行く手を塞いだ。

 踵を返した庄助の足が下り坂に勢いをつける。途端に足がもつれてすっ転んだ。鋭い爪が肩に食い込む。


(終いや)観念した庄助の頬をぺろり、とざらついた舌が舐め上げた。みぃ~んと甘えた声に、庄助の思考が寸の間止まる。


(阿呆らし)脱力した庄助は地べたに寝転んだ。丸顔の斑猫が庄助の腹の上で丸くなる。

「お満さんとこへ行く途中か。母ちゃんが怒るで」

 お杉お玉と芸人らに親しまれる間の山にいる数匹の猫は、愛想を振りまき客を寄せる。丸顔の斑猫は庄助の母が可愛がる雌猫のお杉。茂吉の母、お満にも良く懐くお杉は今宵、牛谷に向かう途中だったらしい。馴染みの庄助にじゃれてきたのだろう。

息を吐いてお杉を抱えた庄助に、「ええ匂いがする」すぐ先の闇がもそり、と動いた。庄助の鼻を異臭が突いた。

(乞食やん)思わず力の入った庄助の腕から、お杉が身を捩って逃れた。

「あの……」口籠もった庄助に、

「ええもんもっとるなぁ」もさもさと音を立てた闇が近づいた。鼻を突く異臭に庄助はのけぞり、大男が目の前に胡座を掻く。薄汚れた灰色の髪がゆさゆさと揺れた。


 男が顔を上げた。灰色の髪から覗く目はぎろりとでかく、闇のような黒い瞳が庄助を見据えた。

 震える手で渡した竹筒に男がごくり、と喉を鳴らした。素間が準備した竹筒には野間家の蔵から持ち出した上等の酒が入っている。


 ともあれ大事を尋ねた庄助に、

「おう。見た。黒塗りの籠や。ほれ、すぐそこの……」

 竹筒を口にさし込んだまま、男は牛谷の村を指さした。

「林の間から出てきおったわ。えらい勢いでな、さすがの儂も声をかけそびれた。あらぁ新手の化けもんかいな、お前、あんなもんに興味あるんか」

 身を乗り出した異臭に左右に首を振り、庄助は懐に手を入れた。使いは済ませた、早く塒に帰りたい。目の前の乞食は、実は盗賊の親分だったとおちがついても不思議ではないほどの迫力を持っている。


「ちぃと待てや」懐に入れた庄助の手をはし、と男が掴んだ。

「お礼や」慌てた庄助は巾着を押しつける。男が口を曲げた。

(こらあかん)素早く背を向けた庄助の腕を男が掴んで引き寄せた。

「足らん言うても持ち金全部や。堪忍」

 身を捩る庄助の尻を男がつるり、と撫で上げた。「喰わせろ」


 冗談じゃないと庄助は渾身の力を込めて男の腕を振り解いた。踵を返した庄助の背後から、男の腕が絡みつく。

「ええ匂いや」ぱくり、と開いた男の口が蜘蛛の巣のごとき銀色の糸を引いた。

 あかん、紫の君の祟りや――。

 男の赤い目が弓のように細まった。


     *


 尻を叩かれて庄助は悲鳴を上げた。

「わあっ」飛び退いた色黒の大男が、「生きとるか」と大きく目を剥いた。顔見知りの牛谷の三平は黒門の番人だ。

 通称黒門と呼ばれる宇治惣門は、外宮と内宮を繋ぐ道を守る門である。常夜灯の灯りを守り、不審者の警戒のため牛谷の者が常駐している。


「びくともせんから死んどるかと思った」


 黒門を覗いた馴染みの斑猫の後を追った三平は、夜道に倒れた人影を見つけた。声を掛けたが返事がない。こらあかんと顔を覗き込んで仰天した。

 まるで反応のない庄助の顔色は真っ青で、とにかく背負って黒門に連れ帰ったと、三平は酒臭い息を吐いた。


「まぁちぃとしたら五郎が戻ってくる。拝田に使いにやるつもりやったんや。死人を咎めるんは気が引ける。儂らが黙っとればええ話や」

 拝田、牛谷は互いに距離を置く間柄だ。深夜に牛谷を彷徨いた庄助を牛谷側が見過ごすはずもない。拝田の者がこっそりと庄助を引き取りに来れば事は荒立たんと、三平なりの配慮らしい。


 庄助の横で顔を洗うお杉に目をやり、狐に抓まれたようだと頭を振った庄助は、

「おおきに。お世話をおかけしました」深々と腰を折ってくるり、と踵を返した。

「そうはいかん」丸太のような腕が庄助の肩を押さえこむ。(だよな)庄助はがっくりと肩を落とした。


「わざわざ猫を迎えにか?」

「へぇ。お杉がおらんと母の機嫌が悪うてかないまへん」

 庄助の言い訳に三平がようやく頷いた頃、辺りが白み始めた。

 乞食が受け取らず残った銭と庄助の大事な熨斗あわびの欠片で、三平は上機嫌で庄助を見送った。

 戻った小屋には既に人影はなく、辺り一面散らかり放題。肩を落とした庄助に、

「お帰りぃ~庄助。あとはよろしくって若旦那が」

 しどけない姿の母が胸元も顕わに庄助に飛びついた。

「母ちゃんっ、何しとるんやっ」

「決まってるだろう? お前を待ってたんだよぉ。でもあんまり遅いからなくなっちまった」

 へらっ、と笑った母が胸に手を入れた。大ぶりの中身をなくした器に、庄助は頭を抱えて膝をついた。

 

   (八)


 暮れゆく夕日に蜘蛛の巣が光る。


「ほんならわては……」見えぬ目を覗き込んだ男に、紫(庄)の君(助)は龍の玉を押し頂いて頭を垂れた。

「想い人は諦めなさい。大神様はお二人の仲をお許しにはなりませぬ」

 あぁ、と顔を覆い、小田橋に膝をつくのは鍵屋大夫の手代弥一郎だ。


 細面の色男の窶れた頬に夕日が射し込み、背を彩った夕焼けがやけに寒々しく見える。

 寒の戻りを見せた伊勢にはひらひらと雪が舞う。反して薄雲の空には赤い陽が焼けて今にも全てを燃やし尽くしてしまいそうだ。


「与えられた縁をお受けなされませ。大神様の御心に背いてはなりませぬ」

 いささか心苦しく呟いて、庄助は龍の玉を懐深く仕舞った。明日は野間万金丹で集まりがある。野間家当主のお宝は床の間に飾られる予定だ。


 小田橋にまで響く慌ただしい足音に庄助の気も逸る。野間万金丹出店の女中頭、お勝は今、青くなってお宝を探している。

 集まりは出来損ないの御曹司、素間の拠点となった野間家の出店で催される。伊勢の跡取りばかりの集まりで重大な発表がある。紫の君の前に項垂れた男、弥一郎がその主役だ。弥一郎は鍵屋大夫の一人娘美緒と夫婦となり、鍵屋大夫の後を継ぐ。

 隠居や旦那衆へのお披露目は、後日鍵屋大夫の屋敷で盛大に行われるらしい。


 中間からの叩き上げ、今や鍵屋家を代表するお伊勢さんとなった弥一郎は見目良く賢く働き者。息子のない鍵屋大夫が一人娘の婿にと思うは当然で、娘の美緒もまた弥一郎にぞっこんとあれば弥一郎にとっては願ってもない良縁。ところが上手くいかんのが世の常だ。


「わては美緒お嬢様とは……」


 弥一郎の苦悩はよくわかる。先だっての一件で弥一郎の想いは承知だが……。

(間の山芸人と、お伊勢さんではなぁ)実るはずもない恋である。

 既に素間から弥一郎の縁談を聞いていた庄助は、紫(庄)の君(助)の前に立った弥一郎を見るなり「成らぬ恋は諦めなさい」と進言した。弥一郎が愕然とするのは当然である。

「大神様はあなたを慈しんでおられます。与えられた縁は、末永く我に仕えなさいとの思し召しです」

 あらぬ方を見据えた紫(庄)の君(助)は薄く笑って手を合わせた。静かに立ち上がって蓙を丸める。焼けた赤が雪に消され、そろそろ闇が這い出でる頃だ。雪のおかげで人通りも薄れ、野間万金丹の丁稚が長椅子を片付けにかかっている。お勝の声が響いた。


「誰か、押し入れにあった桐の箱を知らんかい?」


 びくり、と背を振るわせた弥一郎が青い顔を上げた。紫の君に銭を握らせ、深く頭を垂れた。気の毒だが拝田村に御師を迎えるわけにはいかん。


 とぼとぼと雪に消える弥一郎の背を見送って、人影途絶えた小田橋の欄干に庄助は手を掛けた。

 ひらり、と飛び降りた橋下には野間万金丹の文字を記した小舟が一艘。気儘に勢田川を渡る素間の娯楽舟だ。

 脱いだ着物を舟底に隠し、庄助はそろそろと土手を登る。本日、紫の君の衣装の下は黒の小袖に野袴だ。投げたかぎ爪の手応えを確かめ、庄助はするすると縄を登る。廂に足を掛ければ二階の連子(れんじ)はすぐ目の前。素間が万金丹を調合する小部屋は、勢田川を臨む裏手にある。

 かつて小部屋に押し込められた素間が、脱出のため細工した連子子(れんじこ)は回せば外れる仕組みとなっている。


 真っ暗な小部屋はそもそもが布団部屋。放蕩が過ぎて押し込められた折り、その狭さが気に入って以来、素間は万金丹の調合部屋として使っている。使用人の出入りを禁ずる小部屋は隠し物にはもってこい。階下で丁稚を叱りつけるお勝の探す、お宝を入れた桐の箱はここにある。

 お宝を箱に戻し、こっそりと部屋を出れば庄助の仕事は終わり。れっきとした跡取りが、家宝を隠していようが玩具にしていようが何ら問題はない。親爺様の説教など屁とも思わん素間を案じる必要もない。


 闇に目が慣れた庄助は四角い箱に手を伸ばし、「喰わせろ」くぐもった声に固まった。昨夜の恐怖が蘇る。

(嘘やん)手を引いた庄助の背をぐっ、と何かが押さえ込む。階下で捲し立てるお勝に助けを呼べん庄助は身を捩って抗った。外した連子から零れる僅かな月明かりが異様な影を映し出す。にょきり、と尖った二つの影は――。

「ひぃっ」叫んだ庄助の口を大きな手が覆った。

「良い匂いがする喰わせろ」昨夜の恐怖が現実となって押し寄せる。するり、と冷たい手が庄助の懐に忍び込んだ。

「これこれ。滅多に手に入らない熨斗鮑、あたしの好物なんだ」

 不気味な鬼の面を外した素間が庄助のお宝をぱくり、と口に放り込んだ。

 

      *   


 伊勢の鬼門を守る金剛證寺は野間家と縁が深い。

 金剛證寺は東岳文昱和尚を開基佛地禅師とした臨済宗の禅寺だ。野間家の祖、宗祐は東岳和尚に従伴した、尾野知多郡野間の出身であると野間家の書に記されている。

 寺のご本尊、虚空像菩薩様を深く信仰した宗祐は、一夜の夢に虚空像菩薩様から霊薬の処方を授けられた。


 人の体を蝕む鬼を祓う妙薬――野間家に伝わる万金丹である。

 伊勢に万金丹店舗は数あれど、正真正銘の霊薬はわが野間家に伝わる野間万金丹である――。


 代々、野間家当主が誇りを持って唱える宣言は、山より高い野間万金丹本店の屋根よりも高い。

「鬼がいなきゃあ、鬼門を守る意味がない。金剛證寺の価値が下がるってぇわけだ。うちの丁稚が鬼を信じないなんて困るんだよ。仁松にはよーく、わからせてやろうと思ってね」

 鬼の面は丁稚を懲らしめるためだったらしい。


 説教の長いお勝に間を持てあました素間は、連子子を外した庄助に暇つぶしを思いついた。

「まさかお前が熨斗鮑を隠し持っているとは知らなかったがね。お前、ほんっとにあたしに隠し事が多いねぇ」

 素間は最後の欠片を口に放り込んだ。

「それで? お前の守備はどうなんだい」

 乞食の証言を告げた庄助に、素間は「でかしたっ」と庄助の膝を打った。

「裏付けがとれたじゃないか。お前も役にたつようになったねぇ」珍しい褒め言葉には気を良くするが、

「紫の君が茂吉に捨てられちまって、探りの糸が切れちまっただろ。かといって深夜の牛谷坂を見張るわけにもいかない。下手に警戒されちゃあ元も子もないからね。乞食の証言は重要さ」捨てられたとは心外だ。


「投げ文は黙殺されたよ。牛鬼親分が否定したんだろ。つまり、牛谷に神隠しは起きちゃいないんだ。この意味がわかるかい?」

 童は牛谷公認の上、村を出た。間の山を出ることを禁じられる芸人が勝手に村を出たとなればただでは済まされん。茂吉が紫の君は口封じかもと案じた事実も剣呑だ。

「奉行所は忙しいんだ、穢人の童になんぞ関わってる暇はない。ろくな調べもないから童の病死が成り立っちまう。ただでさえ人数の少ない牛谷だよ、牛谷の取引する相手が、どんな条件を出したかは知らんが――」

 人攫いを黙認はできん。間の山芸人は大神様にお仕えするためにあるのだ。


「どうするんや。人攫いをとっ捕まえるんかっ」意気込んだ庄助に、

「まさか。たかが乞食に腰抜かすお前に大捕物ができるわけないだろう」素間はふんっ、と鼻を鳴らす。

「乞食ちゃうて。あらぁほんまの鬼や。わてはもう少しで喰われるとこやったんやぞっ」

「お前ね、平安の世でもあるまいに。今時、人を喰う鬼なんかいやしないよ。鬼は意外と美食家なんだ」

「わてがまずい言うんかっ」

「からかわれたんだよ」

 鬼を信じない丁稚を責めるわりに、素間は庄助の話を信じちゃあいない。

「赤い目ぇして、口の中に蜘蛛の巣を張る乞食なんかおるかっ」

 ほぅ。口をすぼめた素間は、帳面と筆を手にとった。

「素間万金薬湯、精力回復に効果あり。ただし、幻影を見る恐れあり。時に前後不覚に陥る。改良の余地あり――と」

(あれかっ!)合点のいった庄助は、連子子を素間に叩きつけ、月明かりに飛び出した。


     (九)


「庄助さん、ほんまに助かりましたわ」

 橋桁まで降りて来る御師は珍しい。にこにこと愛想のよい笑顔は松右衛門だ。

「急な話で困ってましたんや。何せお武家様は我が儘でいけまへん。思い立ったが吉日と言わはりますが、誰もが吉日ばかりではおまへん」

 穏やかな物言いと低く心地よい声は、滑らかな舌に載って止めどなく流れ続ける。誰もが松右衛門の話に耳を傾けざるをえん理由は、隙間のない言葉の流れに入り込む技を持たんからだ。

 先日は思い切って断ち切った庄助だが、松右衛門のおかげで随分と稼がせてもらった本日はそうもいかん。贅沢な母を養うには銭がかかる。庄助は今、毎日届くでっかい鮑のため、身を粉にして働いている。


「悪いもんを全部祓いたい言わはっても、こっちかて都合があります。お呼ばれは予約やて御師の決め事ですやん。勝手をしたら弾かれます。若旦那が不在ですんや、わてどないしたらええかと……」

 庄助は松右衛門の肩越しに、そぼ降る雨を見遣って口の端を上げた。


(ざまぁみぃ。ちぃとは世の厳しさを知ったらええんや)


 ウズメさんの祠裏、庄助の仕掛けは功を成した。伊勢の破落戸どもを牛耳る御影(みかげ)姐さんは素間の行方を追っている。さすがの伊勢一番の放蕩息子も、腰の据わった大年増には手も足も出んようだ。庄助が野間万金丹の出店で鬼に出会って後、鬼はふっつりと庄助の前から姿を消した。見事な鬼遣らいに庄助は満足している。


「大神様のお導きですやん。まさか小田橋で会うとは思いまへん。庄助さん、ほんまは若旦那、小田橋の店に潜んではるんやないでしょうね、あそこのお勝はなかなかのもんです。床下やら屋根裏やら……若旦那を隠してはるんとちゃいます?」

 さすがに噂の達人。さっそく庄助に水を向けるが、素間の行方は庄助にもわからん。日々、やせ細っていくお勝は気の毒な限りだ。

 昨日、庄助が小田橋に出向いた理由は母にある。

 待ちかねた鮑に業を煮やし、興行から戻った庄助に母は鮑の出迎えを命じた。偶然にも鮑小僧の前を歩く松右衛門に捉まり、本日のお呼ばれとなった次第だ。

「ともあれ。何とか顔も立ちましたわ。ご一行はこのあと芝居見物やと張り切っておられます」


 農繁期が近づいて百姓衆の参拝が減り、増え始めた商家や武家の旦那衆はしとしとと降る春の雨を嫌う。お愛想程度の蒔銭でさっさと宇治橋を渡る参宮者に、網受け興行は上がったりだ。

 加えて常に客の顔色を見る御師らは、屋根のない間の山を通り越して古市の芝居小屋へと客を導く。よって人出の少ない間の山は春の雨にしばし一休みだ。


(ほんまなら、わてもちぃと一息いうとこなんやけど)


 贅沢好きの母のおかげで、稼ぎもないのに大出費。飛び入りのお呼ばれには大いに感謝する庄助だ。

「素間は芝居にでとるかもしれまへんな」

「ありえますなぁ。いっぺん探してみましょ」

 かかかと笑った松右衛門の後ろで、五十鈴川の川面がべちべちと雫を上げだした。

「本日の興行は終いですなぁ」

 にやっ、と笑った松右衛門は、橋板から漏れる雨水に大風呂敷を広げた。

 

     *


「弥一郎さんが?」

「へぇ。ここだけの話。神隠しに遭うたんやないかと……」

 大きく広げた屋号入りの風呂敷の下、庄助は膝を抱えた松右衛門と甘酒を啜る。色白の松右衛門の頬はうっすらと紅を差し、甘い香りが庄助を覆う。

(むむ、侮るべからず伊勢の大雀)

 大雀の囀りについ、飲み過ぎた甘酒は庄助の胃の腑を満たして今にも溢れそうだ。もう飲めんと器を伏せた庄助に、

「終いですか。わてはこれが好きでねぇ。常に持ち歩いてますんや。御師は体力勝負ですよって、滋養が必要ですんや」

 へらっ、と笑って大蛤の器を傾ける松右衛門は既に十杯は飲んでいる。

(滋養の取り過ぎもようないとちゃう?)

 丸々した体を突けば、甘酒が出てくるのではと庄助は訝るばかりだ。


「神隠しやなんて、んな阿呆な」

「言葉の綾ですやん。ええ大人が神隠しなんぞに遭いますかいな。弥一郎さんは切れもんです。神さんは好みまへんなぁ、もちっと阿呆やないと」

 阿呆は言い過ぎだが、そもそも神隠しは童に多い。次いで若い女、少々おつむの足りん者と、神さんは無垢な者を好んでお召しになると母は言う。御師邸の切れ者と聞けば、無垢とはほど遠い気がする。

「そやからですな、同じ神さんでも、悪い神さんに連れ去られたと。御師の世界も厳しいんですわ。旧家の二男三男は羽振りの良い御師邸に婿入りを狙っとる。余所もんに横取りされてはおもろない」

 つまりは跡目狙いのいざこざか。

「まさか死ぬようなことはありますまいが。御師には戻れんですやろ。旧家の子息らは結構荒っぽい。自分らの手ぇ汚さずとも、気に食わんもんにお灸を据えるなんぞ朝飯前。弥一郎さんにはえらい災難でんな」


 御師らの間には互いに様々な決め事があるようだが、同業者が故に摩擦は生じる。それを円滑におさめるのが、宇治、山田三方の両会合だが、銭が絡めば円満解決が難しい世の中だ。町の破落戸が喰いっぱぐれないのは御師邸のおかげだと素間は苦く笑う。伊勢の花形御師とは、結構泥臭い商売である。


「残念ですわ。ええお人やったんですけど。見目の良さと切れる頭が禍しましたなぁ。わてのようにほどほどが一番ですわ。美緒さんの婿は旧家からとりますやろ。そもそも、鍵屋大夫様はそのおつもりやったそうですが。美緒さんがどうしてもと言うんで折れたようです」

 出る釘は引っこ抜く、と。何とも酷い話だ。

 神隠しの噂が広まればいずこかでのされている弥一郎も諦めるよりない。下手に戻れば面倒となる。とはいえ、他家へ移るわけにはいかん弥一郎は伊勢を出るより道はない。

 恐ろしい話だ。だが。

 御師を辞めても人は人。穢人と添うは許されん弥一郎には良い機会だ。

(こら、ほんまの神さんの思し召しかもしれへんで)庄助はほぅ、と息を吐いた。


「春は芽吹きの季節です。人も物も動きますんや」と、流れるような口調の噂話はまだ続く。

「伊勢屋の若旦那が江戸から帰ってきはります。さて嫁はどっからとるかと隠居の間で賭けが行われとるそうな……」

 年寄りは暇らしい。

「今在家の橋谷家に、腕のえぇ医者が滞在中でしてな。誰でも気さくに診てくれるそうで診療代も安い。近頃巷で人気ですんや……」

(あぁ、そんな話も聞いたなぁ……)

 胃の腑を満たす甘酒に、五十鈴川の川面を打つ雨の音。

 耳に心地良い松右衛門の声は庄助の眠気を誘う。

 大風呂敷から滴る春の雨は冷たいが、噂話に酔った松右衛門からは熱気がほとばしる。体格の良い松右衛門は汗かきだ。冷たい雨はすぐに温もって大風呂敷を覆う。


「聞いてますんか、庄助さん」

 こくり、と頷いた庄助にごろごろと天が喉を鳴らす。

(お杉か?)顔を上げた庄助にぴかり、と辺りが輝いた。

「あかん、わて、雷苦手ですんや」立ち上がった松右衛門に、一気に冷気が押し寄せた。

 くしゃん、とくしゃみをした庄助の前に雷を背にした影が立ちはだかる。松右衛門が一目散に逃げだした。

「母ちゃん、本日、漁は無理やと思う」

 ぶつぶつと悪態を吐く母の姿を押しのけて、庄助は宇治橋を後にした。

  

   (十)


 広々とした板間に桧が香る。閉ざされた蔀戸に室内は暗い。

 ぽっ、と灯った灯りに庄助は目を向けた。村長の館である。

 村の中央に位置する村長の館は、事あるごとに男衆が集う集会場だ。


「すまんすまん。待たせたかいな」


 拝田の村長は、天鈿女命の縁者が残した血族の末裔と言うが、素間曰く干からびた猿である。煮ても焼いても食えんと素間が呆れるほど即身仏に近い生き物だ。

「穂高が儂を離さんのや。独り身の儂には穂高ばかりが愛しゅうてな。ようやっと獲物を咥えさせて宥めたんや。おなごの機嫌をとるんは難儀やな、若い頃は朝飯前やったが。歳は取りとうない。もう客はとれんて」


 まさに月の化身のような――。


 光り輝く美貌は月読命のごとく。ひと目見れば心奪われぬおなごはなしと、伝えられる村長は、間の山若衆のはしりだと長老らは語る。

 その人気たるや他国の姫君すらをもときめかせ、村は常に文と貢ぎ物で溢れていたと豪語する長老らはいい加減呆けていて、真偽のほどはわからない。

 ともあれ、歳もわからん村長は今は干からびた猿であり、杉家から上がった伴侶は疾く昔に亡くなった。独り身の村長が溺愛する穂高は、村人からも一目置かれる村長の現伴侶である。

「近頃つとに姿を見ませんが。穂高はお達者で?」

 本日の呼び出しに合点のいかん庄助は、まずは村長に話を合わせた。

「達者は達者やが。近頃虫がついてかなわんのや。春はいかんな、悪い虫が多すぎる」

 どかり、と腰を下ろした村長に庄助は改めて手を突いた。

「お呼びに預かり、参上いたしました。春木大夫のお呼ばれは無事終わりましてございます。春の悪天候故、本日の興行はなしと聞いております。童らの芸をみてやれと権蔵さんから……」


 不始末はしていない。素間が不在で庄助の回りは静かなものだ。母の贅沢がなければ文句はないが、鮑ごときに夢中ならばまだいい。手に入るものならば母に癇癪の心配はないし、躾直しのとばっちりもない。

「そう、それや庄助、童……」村長は大きく息を吐いた。

「正太、与兵、竹造の三人が行方知れずとなった」

 ここ数日、春の雨が続いている。昨日は昼八つの頃から僅かな陽が射し始め、久々に村総出の興行が行われた。さすがに天気が良ければ御師らも間の山に参宮客を連れて現れ、間の山は久々の熱気に覆われた。

 中でも評判が良かったのが童衆で、溜まった鬱憤を晴らすような勢いある演技はいささか気がたるみがちな大人らの気を引き締めた。童らは時に檻にでも閉じ込めるが良いと真顔で腕を組んだのは権蔵だ。


「杉家では、童の外出には目を光らせております。おこまが飯時に童らに言い聞かせて廻りますが」


 近頃牛谷坂に鬼が出るよ。深夜に人を喰いに出てくるらしい。うちのもんが命からがら逃げてきたんだ、村から出るんじゃない――。


 おこまの脅しには目を剥いたが、どうせ素間の進言に違いない。

「うん。そら承知や。牛谷の件があるからな」さすがに村長は牛谷の神隠しを承知らしい。

「そやお前、黒門の世話になったそうな」

 ひやり、と肝が冷えつつ、本日の呼び出しに合点がいった。

「それには事情がありまして」庄助は慌てて言い立てる。

干からびた猿でもその俊敏さは庄助など足元にも及ばん。力自慢が数人で持ち上げる大岩を足先で蹴り転がす強者だ。

「死人扱いとは気の毒やったなぁ」欠けた歯を見せた村長は、「乞食に喰われそうになったて?」とけたけた笑う。情報源はやはり、素間に違いない。

「そんなんはええんや。問題は神隠しや。童らは間の山で消えた。人ごとやのうなった」

 久々の興行に昨日は誰もが浮き足立っていた。隠居衆は元気の良い童の興行が大層気に入り、実に派手に銭を撒いた。景気のいい檀那衆に大いに盛り上がった間の山は日が落ちるまで興行が続いた。

「さてお前の言う通り、おこまが常の倣いで村を廻ったんやが、夕べは童らが大興奮で収拾が付かなんだ」


大人らは常に倣って大宴会。素間の不在にお杉衆は盛り上がりに欠けたが、鮑の大食いでぶっ倒れた母のおかげで杉家は大騒ぎ。童にまで気が回ったかどうかは心許ない。

「今朝になって点呼をとった権蔵が三人がおらんと気がついた」

 ただし、昨夜村から出た者はいない。夜間の拝田村の警戒は厳しい。太兵の夜遊びは泰蔵の容認があったからこそ成り立ったのだ。つまり三人は間の山から戻っていないことになる。

村を上げての捜索を、お呼ばれで不在の庄助は知らん。鮑しか頭にない母は三人の童の失脚は念頭になかったらしい。

村長は牛谷の公認の神隠しに口出しするつもりはなかった。だが拝田にとばっちりがきては黙って見過ごせん。話をつけねばならんと腰を上げた矢先――。

「三人の失脚は牛谷とは無関係やと知れた。早々に片を付けるにはお前の力が必要とのお達しやっ!」

 村長は懐から取り出したものを、庄助の目の前に突きつけた。


 野間万金丹――。


 金色の文字が浮かび上がる。


(嫌がらせか?)

 顔を顰めた庄助に村長がこほん、と空咳を一つ。

「こらぁ腹痛の薬やが。あかん、どこやったかいな、穂高っ」村長が天を仰いだ。

 黒い梁の一部が欠ける。ふわり、と浮いた黒が落下した。

(わっ)頭を抱えた庄助の額を何かが蹴った。思わずのけぞった庄助の目に、大きな翼が風を送る。

「おう、穂高。ご苦労。これや庄助、若旦那から文が届いとる」


 庄助、よくもあたしを嵌めてくれたね。だがお前はすぐに後悔する羽目となる。拝田の危機だよ、童を救いたきゃあまず、件の中間を探るこった。こりゃあ、牛谷の神隠しのような呑気な話じゃあない――。


 ご丁寧にも、村長の現伴侶、穂高は庄助の目の前に素間の文を突きつけた。

「穂高はな、若旦那のお呼びには応じるんや。梟も色男には弱いらしい」

 村長の伴侶にまで手を出すとは、素間はまったく油断ならん。

「救いたいわな」穂高を肩に載せた村長からは、大岩を蹴る気迫が漂う。ぱちり、と琥珀色の目を瞬いた穂高が羽を立ち上げて重心を前に移した。

「はい。救いたいです」縮んだ肝で応えた庄助に、

「穂高、あとは庄助に任せて、飯でも食うか」

 クルゥと小さく鳴いた穂高は庄助に目を向けてこくり、と頷いた。

 

     (十一)


 件の中間を探れと言われても手立てに困る庄助は、ともすれば素間の伝言があるかもしれんとの期待もあってまずは、野間家本店を訪れた。女中頭お舟は、素間が可愛がる庄助に至って気さくに応じ、時に菓子をくれたりもする気の良い大女だ。

 庄助の顔を見るなり、「うちの若旦那知らんか?」と飛びついたお舟に、伝言を諦めた庄助は、浦口大夫について訊ねた。

「うちとこは御師やないよって、新参者の御師邸の事情はわからん。そら若旦那やったら知ってはるやろが。ほんまどこ行きはったんやろ、お勝が気の毒でなぁ。旦那様までもが青ぅなってはうちかて気が気やない。若旦那は神隠しに遭うような柔なお方やないわ。そもそも若旦那相手やったら神さんが疲れはる」

 さすがに乳母を務めただけあってお舟は素間を良く知っている。大きな体を屈めて庄助に顔を寄せた。


「大きな声じゃあ言えんけど。庄助さん、あんたほんとに若旦那の居場所知らんか。御影さんとこの若い衆が度々若旦那を訪ねてくるんけど、やけに丁寧で気味が悪いんよ。若旦那は賭け事を好まんから、御影さんの世話になるようなことはない思うんやけど……。お勝んとこにも何度となく来たそうや、間の山にはどない?」

 来たらしい。庄助の留守中、母を訪ねた御影姐さんは、素間が姿を見せたら知らせて欲しいと、大ぶりの鮑を置いて行ったそうだ。巫女仕事の後、賭博場で遊ぶ母は御影姐さんとは懇意だ。

「お前も見かけたら知らせておくれよ」と庄助に念を押した母は今、素間を鮑で売るつもりだ。

「そうかい。いったい何があったんやろうねぇ。若旦那が姿をくらますなんて初めてや。そやから旦那様は神隠しやないかと騒いどる。弥一郎さんの一件もあるし……」

 知ってるかいと、お舟は団栗目で庄助を覗き込んだ。さすがに伊勢の花形の噂は早いらしい。

 伊勢の破落戸を束ねる御影姐さんが素間を探しているとなれば、素間の親爺様が弥一郎の神隠しと重ねて案じるのも当然だ。


(そんな物騒な話やなく、もっと色っぽい話やけどね)


 五十に手が届く御影姐さんと素間ではさすがに誰も色恋沙汰を思いつかんらしい。おそらくは御影姐さんは躍起となって最後の賭を求めているはずだ。


 朝熊主様の思し召しにより、此度の子授け万金丹は、伊勢の日陰にひっそりと咲く、(あだ)(ばな)に捧げることにいたしました。かねてから姐さんには、一方ならぬ想いを抱いておりました。どうか私の種にて見事な実を付けて頂きたく――。


 庄助の仕掛けは、入れ込んだ役者の死を悼んだ御影姐さんが、深夜にウズメさん参りをするとの噂に基づいたものだ。御影姐さんは見目良き男に弱い。傷心中の姐さんが、伊勢中の女の注目を浴びる素間から言い寄られ、飛びつかんはずはない。

 大々年増の御影姐さんは色黒で厳つい顔の大女、おまけにそこらの男衆より腕っ節が強く、伊勢の賭博場を仕切る親分だ。素間につり合うこれほどの大物はいない。我ながら良い縁組だと庄助は思っている。


「まさかあの若旦那が破落戸ごときに伸されるはずもなし。うちもそないな心配はしとらんのやけど」

 素間ならば。鬼に捕まったとて、喰われるどころか逆に鬼を喰って帰るだろう。事実、素間には庄助の悪戯に文句を言い、潜伏先で拝田の危機を知らせてくるだけの余裕がある。今頃はどこぞの妾宅にでも上がり込み、呑気に酒でも飲んでいるに違いない。

「けどな、失踪はあかんのや。それやのうても跡取りとしての気構えがない、妾の子に示しがつかんと親戚一同から非難を浴びとる。庄助さん、うちはな、若旦那がやっぱり可愛いんや」

 ほぅ、と息を吐いたお舟の胸の内はわかる。

 常に気儘に我が道を行く素間も、全てに恵まれているわけでもない。

 素間の母は子を産んですぐに他界した。故に当時、赤児を産んで間もない通い女中のお舟が素間に乳をやり、育てたのだ。素間はお舟を〝かかさま〟と呼び、誰よりも慕っている。

「旦那様もね、子息が一人では後々が案じられると、後添いを探しておられた頃やったんや。けどどうしてもお恵さんが忘れられん。良縁を断り続けふと、出会ったお道さんには因縁を感じたんやろうなぁ。うちは旦那様の気持ちはわかる」

 親爺様の妾お道は館町に妾宅を構え、小唄の師匠をしながら細々と暮らしている。素間も度々顔を出す妾宅には男子が一人。今年六つになる健介は手習いもよく学び、素間を「兄様」と慕う賢い童だと耳にする。


 そもそもお道は朝熊岳へと向かう街道沿いの旅籠の娘だ。兄の放蕩により潰れた店の借金苦に両親は早世し、残されたお道は借金のかたに油屋へと身売りが決まっていた。

 同じ朝熊岳の大店の主として、不運な十四の小娘に何かと相談を受けるうち、情が移って縁ができた。後妻に入らなかった理由は素間への遠慮らしい。

「お道さんは悪い人やなし、健介さんも素直なええ子や。野間家の跡取りを狙うようなことはせん。けどあの兄さんはあかん」

 お道の兄は今も館町の妾宅に出入りする。健介の教育のためと言うが当てにはならん。虎視眈々と野間家の財産を狙っているに違いない。お恵さんが生きていたらと、お舟は大仰に顔を覆った。


「つまり、若旦那の不在が続けば野間家はえらいことになるんや。親戚筋は若旦那の放蕩を責めはるやろし、お道さんのあの、しょうもない兄さんが健介抱えて乗り込んでこんとも限らん。何や近頃金の工面に走り回っとるいう噂やし……」

 野間家も大変らしい。

「とにかく。若旦那の居場所が知れたらうちに知らせてぇや。放蕩はええが失踪はいかん。老舗の看板を狙う親戚筋を押さえとるのは素間万金丹の売り上げや。若旦那はあれで立派に野間家を支えてはる」

(わての悪戯が。何や、えらいことになってきよったで)

 お舟の差し出した飴を辞退し、再び降り出した雨に背を丸めた庄助は、朝熊岳参りの一行を横目に岳道を下った。

  

   (十二)


 雲は多いものの、薄日が射す天気に人出も上々。

 母の鮑代を稼いだ庄助はさっさと宇治橋を後にしておはらい町の路地に駆け込んだ。大杉の暖簾の前で蹈鞴を踏んだ庄助は、水桶の影に飛び込んだ。からり、と開いた戸から庄助の胃の腑を刺激する香りが流れ出る。

「ご馳走さん。お熊、ご隠居によろしゅうな」

 体格の良い男は羽織袴姿。腰の大小が馴染む男は山田奉行所の同心か。

(危ない危ない)

 役人などと出くわせば「何用か」と誰何される。別火を持たぬ大杉に、庄助が顔を出せば要らぬ詮議を受ける。世話になる大杉の主に迷惑はかけられん。


 先ほど宇治橋を覗いた大杉の主は、そろそろ朝の散歩から戻る頃合いと訪れた庄助だが、男の口ぶりからまだ戻っていないらしい。

(出直そう)立ち上がった庄助の背を、

「お早うさん、ええとこに来た。一緒に朝餉でもどうかね」肩に乗った大きな手に、庄助の腹がぐぅと応えた。

 はざま屋から別火を分けて貰ったから気にせずにと座敷へ誘う主を、庄助は頑なに拒んだ。穢人との同火同座は禁忌だ。当人には二十一日の物忌みが科せられ、触穢は店にまで及ぶ。御師を隠居した主ならば当然承知のはずが主はまるで意に介さない。


 饂飩を手にした庄助が地べたに座り込めば、すぐさまそれに倣う主に辟易として、やむなく長椅子に並んでの朝餉となった。誰かに見られやせんかとひやひやものの庄助だ。   

とはいえ、「好きなだけお食べなさい」との言葉には抗えず、あっという間に三杯をも平らげた饂飩は格別に美味い。

「庄助さんにうちの料理をご馳走したくてね」

 目を細める主にはなんだか照れくさい。

「若旦那にお知らせしようと小田橋に出向いたんやが……」

 逆に「うちの若旦那を知りまへんか」とやせ細ったお勝に問われて仰天したと言う。


「若旦那、どないかしはりましたん?」

 わてのおかげで御影姐さんに追われてます――。

 とは言えん庄助は、「さぁ」と応えて四杯目の饂飩汁を啜り上げた。

「狐隠しやないかって。はざま屋のおつたが言うてました。母親が愛しい息子を連れ帰ったんやないかと」

 まだ食べるやろと、五杯目の饂飩を差し出したお熊が口を挟んだ。

「えっ。素間は狐の子ぉやったんですか?」目を剥いた庄助に、主がからからと笑った。

「らしいやろう? 狐の子と言えば人並み外れた美貌やら、才覚やらが騒がれる。若旦那にはぴったりや。けどそれはただのお伽噺。若旦那はちゃんと人の母親から生まれた子ぉや。野間家とは代々の付き合いがあってな、お七夜には呼ばれて祝ったもんや」

 色白で整った顔立ちを除けば、素間は別段変わりのない赤児だったと言う。


「庄助さんはお恵さんを知らんなぁ。朝熊岳の天女と評判の別嬪やった。東風屋近くの茶屋の娘でなぁ。一時は伊勢参りとかける金剛證寺の参拝客がこぞって立ち寄る名所となった。どこぞの領主様から奥向きにと所望されたとか、江戸の豪商から妾の話があったとか。とにかく、引く手数多やったんや」

 素間は母親似らしい。素間の親爺様は特に癖のない十人並みの容貌だ。

「野間家当主もご多分に漏れず。付け届けを惜しまずにかき口説いた。親はやきもきしたようやが、当人はなかなか度胸の座った娘でな、回りの騒ぎを面白がっておる風やった」

「罰があたったんですよ」お熊がぷうっと口を尖らせる。

「朝熊岳の天女はいずれ天に帰るんだ。下界の男衆なんか相手にしてる暇はない、なんて。傲慢な口を叩くから狐憑きになっちまった。家に火を付けたのもきっとあの女ですよ」

「これ、亡くなった人を悪く言うもんじゃない」と、主は苦笑してお熊を窘めた。

「あたしらの間では評判でしたよ。きっと朝熊岳の主様がお怒りになり、あの女を懲らしめたんだって……」


 散々に男衆の気を揉ませたお恵は、十七の歳に突如、狐憑きとなった。

 獣のような咆哮を上げ、宥める両親には喰らいつく。素っ裸で朝熊岳を駆け回り、鼠を咥えて戻る日もしばしば。困惑した両親が法師を頼めば、娘とは思えぬ力で殴りかかる。美しいだけにその姿はさしずめ鬼女のようで、さすがの法師も尻尾を巻いて逃げ出す始末。

「とはまぁ、噂話ですが。両親は気に病みますなぁ。ぴたり、と戸を建てて閉じこもってしまいました」

 大きな物音に女の泣き声、時折響く咆哮に人々は震え上がった。相談を受けた金剛證寺の和尚が近隣の人々と山門を出たところで、大きく燃え上がる火に目を剥いた。

「あっという間に燃え上がったそうです。和尚が駆けつけた時には茶屋は焼け落ちて……」近隣に燃え移らず済んだのは朝熊岳の主様のご霊験と、皆が感謝して後始末にかかったとき、ひょっこりとお恵が現れた。

 錯乱状態のお恵は寺に引き取られてしばし。正気を取り戻した。両親の死に涙する姿は憐れな娘そのものだった。


「お恵の行く末を案じた和尚に、すぐさま名乗りを挙げたのが野間家当主でしてね。とにかくぞっこんでしたんやろ。当時は若旦那でしたが、親の反対を押し切っての縁組みとなりました。大層な騒ぎでしたよ。私も反対しましたがね」


 曰く付きの娘なんぞ娶れば家が祟られる。野間万金丹は終いや――。


 世間の噂をよそに、お恵は元の美貌を取り戻し、また、以前の傲慢さはなくなって良く働いた。そもそもが看板娘だったお恵は、野間家でも看板女将となって大いに売り上げに貢献した。


「まぁ……。気の病やったんかもしれまへんな。若い娘がちやほやされれば傲慢にもなります。一方で嫌がらせも多かったんとちゃいますか。女は嫉妬深いですよって」

 主がちら、と目を向けたお熊が、ぷいっとそっぽを向いた。

「ようない噂もそんな出所ですやろ。気の毒なんはお恵さんです。ようやくと幸せを掴んだところに可愛い我が子を抱くことなくのうなった」

「そやから、狐隠しなんです」お熊は畳みかけるように言って、頬を膨らませた。

(いやいや。素間は狐隠しやなくただの隠れ遊びです)

 放蕩三昧の素間にも色々あるようだが、庄助は素間物語を集めているわけじゃない。


「ご馳走様でした」と手を合わせた庄助は、

「今度はもっと美味いものをご馳走しよう」と皺深く笑う大杉の主に、本日の用件を切り出した。

「浦口大夫かね。うーん、ようは知らんが、御師株を買うて師職につくもんは意外とおる。羽振りがよう見えるんやろが、そない甘いもんでもない」

 一見、儲かっているように見える御師邸だが実際、出費も多い。

 檀那を集めるには旅費もかかるし無駄足も多い。檀那が増えればその分、人手がいるし、派手なもてなしには大層な銭がかかる。

 他家との付き合いはもちろんのこと、道中の宿や茶屋との付き合い、土産物や神楽奉納の手配、名所巡り等々、とにかく手間と銭なくして成り立たんのが御師邸だ。

「続かんやろうなぁ。そもそも不慣れな者ばかりで商いを始めるなど無鉄砲すぎる。せめて殿原だけはどこぞから頼むべきやな。先達に頭を押さえられ、不満を抱える若い殿原はようけおる。銭次第では動くと思うな。何や庄助さん、御師株でも買うんかいな」

 滅相もないと庄助は頭を振った。


 新参の御師家との付き合いは、旧家との兼ね合いに困る。素間が不在のため加減がわからぬから、ご隠居にお伺いしてくるようにと村長に命じられたとの苦しい言い訳に、大杉の主は気の毒そうに頷いた。

「そやな……間の山にも事情があろうて。隠居の儂が下手を言うてもいかん。ほんならうちの左平に聞いたらどないやろ。あれはあちこちの中間に顔が利くんや。今夜、はざま屋に使いに出すつもりやった。庄助さん、本日の予定はどない?」

 願ったり。幸福家の中間、左平は素間と懇意だ。小柄で色黒の左平は鷹に似て、足も速ければ口も速い。素間との会話は喧嘩のように聞こえるが至って気の良い男だ。

「へぇ。もちろん」

 丁寧に腰を折った庄助は、大杉の暖簾を後にした。

    

 (十三)


 ぱちぱちとはぜる火に、小さな影が跳ね上がる。


「あぁ下手くそっ。あたしの顔に泥を塗るつもりかい?」

「すみません。もう一度」

 滴る汗を拭って太兵が笛を口に当てる。相方の祐助もまた、額の汗を拭って構え直す。


 久保倉大夫の言いつけで、明日は童衆による牛若が披露される次第となった。童衆の一番手太兵に、若衆見習い祐助が組むと村長が決定したのは暮れ六つ。かれこれ半刻ほど続くお美衣の叱責に、童二人は緊張と恐怖と興奮に汗だくである。

(すまんね。けど、いつか役に立つから)庄助が胸の内で手を合わせる興行は嘘である。

本日、左平と会うために古市まで出向かねばならん庄助は、太兵には大人しく村にいて欲しい。だが、村長に太兵の掟破りを告げるわけにはいかん庄助は、「母が退屈しているから」と村長に童興行の嘘を願い出た。

「鮑に飽きたか?」さすが村長は母を良く知っている。

「はい。そろそろ」庄助の答えはまんざら嘘でもない。


「そらあかんな、ふむ、お前も難儀やな」物わかりの良い村長のおかげで、太兵の心配はなくなった。母の指導の厳しさは身に染みている。童二人は今宵、寝る暇すらないはずだ。

「母ちゃん、頼んだぞ」

「ああ。和尚によろしく伝えとくれ。若旦那が戻ったら間の山のお美衣が待っていると伝言も忘れるんじゃないよ」

 本日、間の山節を聞かせに金剛證寺に出向くという庄助の口実は、厳戒態勢の敷かれた拝田村から庄助を送り出す村長の案である。昨日、童がまた二人消えた。村中が人の出入りに目を光らせる今、庄助がこっそり村を抜け出すのは不可能だ。

 童を失った親が問題を起こさぬとも限らん懸念がある以上、確証が掴めぬ内は、件の中間への疑いは伏せねばならん。穢人が町の住人に手を出せば結果は見えている。ことは慎重に運ばねばならん。


「ご苦労さんやなぁ。和尚の申し入れやったら断れんもんなぁ。庄助さん、あんたなら心配要らんとは思うが……十分、気ぃ付けてや」

 門番の弥彦が縄を引けば、きぃきぃと音を立てて竹組が口を開ける。

「おおきに。わては平気です。狙われとるんは頑是無い童ばかりやから。和尚に何ぞええ案はないかと聞いてくるように言付かってます」

「うん。そらええ。和尚は知恵者やからなぁ。村長の相談役と言ってもええくらいや」


 大神様にお仕えする間の山芸人だが、拝田、牛谷共、各々が守る氏神がある。拝田を纏める信仰は山神様に由来する。大神様を天と見なせば、氏神様は地だ。

 ウズメ様縁の拝田一族は、そもそも山にあって芸能に必要な様々な道具を作っていたとされる。間の山芸人のささらや、茶道具などはその名残であり、今も間の山では竹を使った様々な道具を作り、御師らの手によって売られている。


 拝田村では、美月の守る女神像を拝するのが倣いだが、女神様の上には〝主様〟がおられる。全ての山の神を束ねる存在が〝主様〟であるらしい。

 つまり、人の世に置き換えるならば、女神様は代官様であり、主様は領主様、御神様は将軍様と、庄助は理解している。神様の世界も複雑だ。

〝主様〟は伊勢の霊山、朝熊岳におわし、朝熊岳には金剛證寺がある。

 そもそも、朝熊岳を霊山と認めた空海様に、朝に熊、夕に虚空像菩薩が現れたのが始まりで、宗派は変われど今も虚空蔵菩薩様が金剛證寺のご本尊とされる。


 朝熊岳の主様は、呼び名は違えど確かにおられる――。


 然るべき理由で、村長と和尚は親しく交流がある。

 神職らと違い、穢れを厭わぬ和尚は間の山芸人を差別視しない。野間家とも縁深い金剛證寺の和尚は、変わり者の素間がお気に入りだ。故に庄助とも馴染み深い和尚を口実に使うには多少の気が引ける。

 だがとにかく今は拝田の危機を救わねばならんと、庄助は間切られた闇に飛び込んだ。

 

       *


 雨続きのせいか本日の古市は静かだ。風が強く大店以外は灯を落としている。庄助は待ち合わせのはざま屋の軒下にしゃがみ込み、街道のやり取りを眺めている。


「旦那さん、寄ってかんせ」

小店の遊女は男と見れば袖を引く。今や伊勢名物の亀の子踊りは大店に限った見世である。

「へんっ、罰当たるわ」袖を振られた遊女の悪態を、笠を目深にかぶった男は相手にもしない。軒下に蹲った庄助に目を留めた男は、「ここで飯が食えるか?」と低く訊ねた。

 こくり、と頷いた庄助に男ががらり、とはざま屋の戸を開ける。

 ぷん、と香った匂いに(早うこんかなぁ)庄助の正直な腹が、抗議の雄叫びを上げた。

(あかん、何ぞ食うかな)腰を上げた庄助は、ウナギの寝床のようなはざま屋の建物に沿って裏手へと回る。女将のおつたは奥にいるはずだ。

「おう、庄助。おつな計らいをするじゃあないか。ご隠居の奢りたぁ有り難い」

 長椅子を引きずった左平の後から、「ご注文は?」酒徳利を下げたおつたが愛想良く笑って七輪を置いた。

 

    (十四)    


「手代は近江の商家の二男。長男が勘当されて跡継ぎとなった。一通り仕事にも慣れ、そろそろ嫁をと家の中が落ち着いた頃、長男がひょっこり戻って元の鞘に収まった。まこと世の中はわからない。気の毒なのは二男でござぁい」

 久々に聞く早口は健在だ。流れるような口調を耳に、庄助は蛤の汁を啜りながら杯の酒を下へ流す。上機嫌で捲し立てる左平と、七輪で魚を炙るおつた相手なら、下戸の誤魔化しも容易い。


「別れの杯もそこそこに。憐れ二男は伊勢国へ。親の餞別も底を突き、とうとう借金に手を出した。伊勢の金貸しは質が悪い。出世払いで良いからと、重ねた借金に利息が膨れ、商人ならばと押しつけられた役がお伊勢さん――」

ぼうぼうと燃え上がる魚を七輪から取り上げ、がぶりと食らいつく様は豪快だ。「さすが。江戸もんは違うねぇ」と、おつたはぱたぱたと風を送る。

「憐れな二男って、浦口大夫様んとこの駒次郎さんのことなん?」手酌で杯を満たしたおつたは、くいっと白い喉を見せる。

「浦口大夫様は駒次郎さんの借金を肩代わりしたんですか?」

「そうじゃねぇ、金を貸したのが浦口大夫さね」


 古市の食い物屋路地のどん詰まり、はざま屋の裏手は生い茂る木々がなだらかに坂を下る。人が通らぬ店の裏手、間の山芸人らが気兼ねなくゆったりと飲み食いができる場所は伊勢広しといえどここ、はざま屋をおいて他にない。

 女将のおつたは遊女上がり。松坂の木綿問屋の隠居に身請けされ、古市の一角に飯屋を開いた。

 隠居は共にはざま屋で寝起きしていたが、数年前に亡くなって今はおつたが年季の明けた遊女二人と切り盛りしている。古巣での営業は顔見知りが多く出入りし、大年増ばかりの店は旅人も安気なのか、常連客も多い。


 庄助らが飲み食いするはざま屋の裏手からは朝熊岳が一望出来る。朝に夕におつたが手を合わせる朝熊岳には、亡くなったご隠居の卒塔婆が建っている。

(はな)から使えそうな余所もんを物色してたんだろうよ。伊勢にゃ、余所もんが多くいるだろ? 抜け参りなんてなぁ体の良い夜逃げだよ。いい若い衆がたった一人、ぐたぐだと宿にあれば人目に止まる。そもそもが若旦那だった駒次郎は知らぬ土地で職のあてもない」


 さて私は近々御師として一つ屋敷を任される殿原だが、お前さんにはどうやら穢れが纏わり付いている。一つきれいに祓ってみたらどうかね――。


「浦口大夫が言ったかどうかは知らんが、不運に見舞われた駒次郎だ。伊勢の御師に進言されちゃあ、祓わずにはおれんだろうよ。おいらだって伊勢に来るまでは、神職が各地を廻って檀那を集めてるんだと思ってた。ただの手代だなんて知らなかったよ」

 神楽奉納に加わったり蒔銭をしたりと、言われるままに銭を使い、銭が底をつけば立て替えを申し入れる。


 祓いは自分の銭でなきゃあいかん。何、銭は後で返してくれればいいよ。大分穢れが薄れてきたね、あと少しだ――。


「駒次郎は生真面目な男だよ。生真面目ってぇのは結構危ないもんなのさ」

 借金をしてまで祓いに拘る男がいるとは驚きだ。ともあれ、駒次郎は浦口大夫の口車に乗せられ、借金を重ねた。


 穢れは落ちましたね。お前さんはなかなか健気なお方だ。どうです、私の元でお伊勢さんになりませんか。大神様もお喜びになられましょう――。


「とまぁ。そんないきさつだろうよ。ほんとのとこはわからんが」

 ぐいっ、と杯を空ける左平に「なるほど。ありそうな話や」おつたが目の縁を染めて酒を注いだ。

 現実のような話は臆測らしい。

(ここにも松右衛門がおるんか)

 いささか気落ちした庄助におつたがにっ、と笑った。

「人読みや、庄助さん。左平さんの人読みはよう当たる」

 ちょっとした人の仕草や癖、言葉尻からその人の境遇や生い立ちなんぞを推測する技を左平は持っているらしい。

(占い師か)眉を寄せた庄助に左平がからからと笑った。


「当たるも八卦、当たらぬも八卦」

「信じるも八卦、信じんも八卦……やよねぇ」

 あはははは……。

(あかん。もう出来上がってるやん)

 店の裏から出てきた左平は、既に飲んでいたらしい。おつたの笑い声に細める目は、赤く染まって潤んでいる。

(あかんやん。大事を聞きそびれとる)

 浦口大夫が悪党だとはわかった。手代の駒次郎が気の毒なのもわかった。だが、庄助が知りたいのは中間の事情だ。

 左平の潤んだ赤い目には、常の生気がない。おつたが網に載せた魚に目を当ててかくん、と首が傾いた。慌てて戻した首が再び傾ぐ。


(まったくお前は役立たずの大横綱だよ)素間の言葉が、ポカリと庄助の脳天を叩いた。


「ほんなら中間はどうやの? 一人おるよね、左平さん知り合いやろ?」と畳み込み、「どんな人? 人読みしてくれん?」興に入ったかのように身を乗り出した。

「中間?」かくり、と傾いだ首を元に戻し、左平はぎろり、と赤い目を向けた。

 

    (十六)


「あの野郎、いつか簀巻きにして小田橋から放り投げてやるっ!」


 突然いきり立った左平に、庄助は目を剥いた。

「なんやの、左平さん、物騒なこと言わんといて」

 左平の拳に手を置いて、やんわりと宥めるおつたはさすがに古市の女。男の扱いに慣れている。

「視えねぇんだよっ、こんちくしょう。こんなことは初めてだっ」

 苛立つ左平は人読みの話をしているらしい。

「気にせんと。当たるも八卦、当たらぬも八卦」

「易と一緒にするなっ。おれの人読みは遊びじゃねぇ」

(さっきとちゃうやん)庄助は眉を寄せる。

「へらへらしてやがると思えば客あしらいが上手い。誰とも上手くやっているようで付き合いは悪い。口下手かと思やぁ、東国言葉も西国言葉も達者だ。江戸弁までしゃべりやがる、何もんなんだ」

 つまりは得体の知れんやつだ。庄助は耳を欹てる。


「誰も知らねぇんだ、奴の国がどこなのか。親兄弟のあるなしも、どこから来て何で浦口大夫んとこにいるのかも。何一つ、奴の情報を知るもんはいない」

 ぐいっ、と杯を空けた左平に、

「何や事情があるんやないの? ええやない別に。人んちの中間やし」

 しなをつくって酌をする古市の大年増は手慣れたもんだ。「まぁ、そうだけど」左平の苛立ちも少し治まって、おつたが庄助に目配せした。


 この話はおしまいにしよう――。


 実に残念だ。

「けどね、本当に当たるんだぜ、おれの人読みは……」

「知っとるよ評判やもん。左平さん、怒るかもしれへんけど、下手な占い師よりよっぽど当たるって。そういやぁさ、おったよね、謎の占い師。ほら、天女の如くって男衆を湧かせたあの、紫の君。近ごろ見かけんけどどないしたやろ」

 庄助の咽でネギが止まった。げほげほと咳き込んで、左平がにぃっ、と口を広げる。

「庄助、お前もか」くくく、と意味深に笑う左平には、(何がやっ)と、内心で噛み付いた。紫の君はもうたくさんだ。

「嫌やわ、殿方は若いおなごに目ぇがない。あの子のおかげで一時古市も客足が減ったんやで。たかが辻占の小娘やない。あの子は身は売らんかったそうやないの」

(売ってたまるかっ)庄助はぺっ、とネギを吐き捨てた。


「そこがいいんだよ。辻に立ち、占いをする盲しいた美少女。いかにも男心をそそる危うさだ。ところがあの子の前で男どもはしゅんとなっちまう。まさに天女なんだよ。触れたらいけないような、この子に嫌われたらこの世の終わりのような。ああいう女は不幸かもしれねぇな、一生男に縁なく終わるのかも……」

 できればそうありたい。

「そんなん……。宝の持ち腐れやん。女と生まれたからには、飛びきりの男に抱かれたいわ。せっかく別嬪に生まれたかて一生生娘やなんてうちは嫌や」おつたはぷぃとそっぽを向いた。

「男には男の理想ってもんがある。な、庄助。お前も紫の君を思って、悶々とした口だろ。手が出せないが故に、独りあれこれ想像して……燃えるんだなぁ、これが。あの子の吐息を想像するだけで立っちまう。だから天女様なんだよ、手を出さずして男を逝かせる――」

 まさか。辻にいるだけで、そんなことになっていようとは。伊勢の男どもの慰みものになっていたかと思えばぞっとする。

「女の話はええわ。それよりさ、さっきの続き、聞かせてくれへん?」

 幾分か気を取り直した左平が据わった目をおつたに向けた。「どこまで話したかな?」

「山人やないかってとこまで。用心棒が山人やなんてうち、気になるわ」


 人読みの話か。庄助が来る前、二人は店の中で飲んでいたのだろう。用心棒とは店の客か。読める相手には左平も気分がいいらしい。

「あの男からは山の匂いがする。足や腕の筋から見て樵とは違うな。野山を駆けまわり、獲物を獲る類いだ。耳が立ってるだろう? 隙がない男だね、用心棒には持って来いかな」

 腰に大小は帯くものの御師(商人の手代)では心許ないと、用心棒を連れ歩く客もたまにある。お伊勢さんの得物は良く回る頭と口先。破落戸と知りつつ、御師邸が流れ者を雇い入れる由縁だ。

「へぇ! 猟師なんか、誠二郎さん」

 おつたの頓狂な声に庄助は目を剥いた。横で左平が魚を咥えて顔を上げた。

「なんだ、知り合いか」左平がぺっ、と魚の頭を吐き出した。

「鈴屋の用心棒、うちの常連や。およねがぞっこんでね。昔の男に似てるって言うんや。ひょっとしてあの人の息子やないかなんて……。あはは、とんだ勘違いや。およねのいい人はお武家さんやった。部屋住みの厄介者で……」


 遊郭の用心棒か。ちょっと何かが引っかかる。

「いや。勘違いともいいきれんぞ。あの男、武士だ」

「嫌やわー、左平さん酔うてはるのん? いま猟師やいわはった」

「猟師もしてただろうって言うんだよ。お武家だってピンキリだ。飯を食うにはお武家だって猟にも出るさ。仕官の道は厳しいからな。ただあの男は……然るべき主を持った経験がある、郷士の倅にしちゃあ――」

 思案げな左平の言葉を、

「おおきに。またおこし~」

 女の声が遮った。がらり、と戸が開いて男が一人、暖簾を押し上げる。


「あ、誠二郎さん」

 前掛けで手を拭いたおつたが立ち上がり、左平がちら、と赤い目を向ける。庄助も何気なく目を向けてすぐさま男に背を向けた。

(そうか。用心棒……)素間の言葉を思い出す。印地打ちの男だ。

「どうした? 庄助、気分でも悪いか?」

 覗き込んだ左平に頭を振って、「いえ、何や腹が減って。饂飩でも食いたいなぁと」左平の肩越しに男を覗き見た。

 おつたを見下ろす男の顔が、店から漏れる灯りに照らされ浮かび上がる。

 きりりとした目元のなかなかの好男子。爽やかな印象の若い男だ。大年増らが騒ぐ気持ちもわかる。

(とても破落戸の相方を務めるような雰囲気やないぞ)

 ふと、顔を上げた男から庄助は顔を背けた。

(なるほどただ者やない)鋭い視線を感じつつ庄助は、落ち着かなく背を向けた。


     (十七)


 誠二郎と入れ替わりに路地に駆け込んできた女が左平の袖を引き、庄助もまた腰を上げた。ちらちらと裏口から覗くおよねの目が店じまいを告げている。

 飯屋を追い出された客はいずれ女の待つ宿を訪れるばかり。塒に戻る庄助独りが薄暗い街道を急ぐ。油屋、備前屋辺りまで行けば、夜通しの灯に目も覚めようが、安女郎屋ばかりのこの辺りでは丑の刻に灯のある店はない。


 建てた戸の向こうから番人の大鼾と、闇を這うような女の細い声が零れてくる。古市の客は疲れ知らずだ。


(わてはもう寝たいわ)


 酒飲みに付き合ってちまちまと食う肴では腹は満たん。饂飩すら食えなかった己はやはりついてないとしみじみ思う。明け六つには宇治橋に出向かねばならん。本日庄助は網受けの当番だ。

 母の食い残しでもあればいいと祈りつつ道を急ぎ、吹き付けた突風に二の腕をさすった。山間の街道の夜は冷える。

(あかん)ぶるっ、と身震いした庄助は、闇に沈んだ一軒の角を曲がり込んだ。そわそわと前を開き、下帯に手をやって……

「あぁ……、もう堪忍」「まだまだ儂はいかんぞ」

 薄っぺらい壁の向こうからの声に手を止めた。ここでしょんべんは失礼だ。

 股間を押さえたまま路地を進めば竹藪が見えた。用を足した庄助がほっと、息を吐き、微かな音に飛び退いた。竹がびしっ、と音を立てる。

「いっ」と身を引いた庄助の鼻先を風が掠めた。


 竹藪に飛び込んだ庄助は、身を潜めて気配を覗った。かつん、と竹を打った音に方向を見定めて小石を投げた。微かに闇が動く。

(誠二郎か)

 夜目の利く庄助が目を凝らせば、蹲った闇が庄助に向かって狙いを定めた。鋭く風を切った小石に庄助が身を屈めた。ぴしっ、と音を立て庄助の髪が舞い落ちる。

(切れたやん、毛)目を剥いた庄助は身を低くして竹の間を移動する。印地打ちの礫が、容赦なく庄助を追ってくる。


「痛っ」庄助は右肩を押さえた。破れた着物の隙間から生暖かいものが指を伝う。

 走り出した庄助は竹に体をぶつけ、根に足を取られ、葉に着物を切られ、礫に血が噴き出しと散々だ。


(何でわてが狙われるんや)


 ひょい、と岩を飛び退けて顔を上げ、月明かりに見えた目的地に胸を撫で下ろした。

 腿を掠めた石礫に顔を顰め、庄助は大竹に飛びついた。大地の途切れた先はぽっかりと黒い口を開けている。

 いつぞやの鉄砲水に流れ落ちた大地は深い溝を作り、今も脆い土に地元の者ですら近寄らん。溝に隔てられた向こうには雑然と木々が生い茂る。飛ぶには持ってこいの場所だ。遊び好きの素間に連れられ、腰に縄を掛けて飛んだ昔が懐かしい。


 棒昇りの要領で竹に足を絡みつかせた庄助は、

「なるほど、男にしておくには惜しい」

 背後の声に息を呑んだ。

「お杉に玉があるとはな。なるほど、間の山はまだらな場所だ」

 ひた、と首に当てられたものが庄助の肝を縮ませる。刃物は嫌いだ、素間の肝とりを思い起こさせる。

「お前、何者だ」僅かに刃物が引いた。乾いた痛みに、「んっ」庄助は息を漏らした。

「間の山の庄助」別の声が近づいた。

「男だ」刃物の手が応え「さよう人違いだ」近寄った声が穏やかに応じた。

「貴殿は甘うござる」「拙者は使命を全うするまで」

 近寄った男は誠二郎に違いない。既に礫は止んでいる。

「生かしてはおけん」刃物男の押し殺した声に庄助の肝がさらに縮み、「殺しは役人を動かす」はざま屋で垣間見た姿に似つかわしい、涼やかな声が立ち止まった。


 外された刃物に庄助はすかさず体を引き上げる。伸び上がった体がぴたり、と止まった。節くれ立った手が庄助の足首を掴んでいる。

「穢人は人別帳に載らぬ」「間の山の芸人は大神様の(しもべ)

 緊迫した気に目を向ければ、懐手をした誠二郎を、庄助の足を掴んだ総髪の男が見据えている。

(何もんや)思った刹那、二人の頭上を白い影が飛び越えた。一目散に庄助に向かってくる。

「いいっ」身を強ばらせた庄助に、すかさず誠二郎が小石を放った。白い塊が落下する。息を吐いた庄助の体が空に浮いた。見る間に二人が遠ざかる。顔を上げた総髪が遠ざかり、庄助はそのまま深い闇に吸い込まれた。


お付き合いくださり、ありがとうございました。

不慣れですので、章分けは本分にて進めさせていただきます。

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