春先の恋
1
広島駅のコンビニで、ビニル傘を買った。五百円とすこしだった。今日、午後に雨が降り出すのを知らなかったのはわたしだけで、街中の人々も、スマホの天気予報も、そして牛間も、雨降りを知っていた。ビニル傘を買うのは、街に取り入る儀式みたいに思えて、なんとなく滑稽だった。四百円とすこしのお釣りをうけとる。
今日の予定はあいまいだった。とくに遊びの計画を練ったわけでもなし、行き当たりばったりのていをとる。ただ気の向くままに広島市内を歩く――強いていうなら、そういう計画である。
コンビニの外で待ち構えていた牛間は、わたしが現れるなり「じゃあ、どこに行こうか」と訊いた。数分の協議のすえ、まずはお昼ごはんということに相成った。
路面電車に乗り、本通りのほうへ向かう。スマホで牛間がおいしいところを探すあいだ、わたしは時速三十キロメートルで流れる広島の街を眺めている。そして時折、牛間を見た。彼女はこのあたりのサーチに没頭している。
牛間はわたしの親友だった。小学校からの付き合いで、中学でのこの三年間、こいつほど親しくした相手はひとりとしていない。元気な子猫がそのまま人間になったようなやつで、じっとするより動き回っていたいらしい。髪は短いのを好み、たいていは動きやすい衣服を着ている。
しかし今日に限っては、衣裳もあか抜けていてかわいらしい。めったに見ない服装で、実は若干どぎまぎした。そのうえ牛間はなんともないふうにふるまうから、よくわからない。
このあと彼氏とデートの予定でも入れているとか。急にふだんと変わるって、そういうことかもしれない。その気配はみじんもないけれど。ただの気まぐれかもしれない。そのほうがしっくりくる。
「カレー」と、牛間が唐突にいった。「カレーはどう、結ちゃん?」
「いいよ」
牛間の好みは変わっていないらしい。やつはカレーが大好物だ。だから、やはりこいつは牛間なのだ。
本通駅で下車、わたしたちは本通りに入り、路地にそれる。そして小さなビルに入る。入口には、手書きの看板が立てかけてあった。『今日の日替り・京風パスタとイタリアンカレー定食、スパニッシュ福神漬けを添えて』……なんというか、粋である。
エレベーターで二階に上がっていく。わかりにくい店であるのに、牛間の案内はスムーズだった。この調子だと、もしかすると一度来たことがあるのか。
店内は空いていて、待たずに座れた。こじゃれた内装で明度は高く、客席の数はすくない。いっとう目を引くのが窓際のグランドピアノで、ちょうど赤いドレスの女性がその前に腰かけるところだった。
席に通されたあと、かばんと新品のビニル傘をてきとうに置いて、メニューを開く。わたしは……ふつうのカレーでいい。日替りを頼むには勇気が足りない。店員を呼ぶ。
牛間が日替りを頼んだ。正気だろうか。
なにを思ってあれをオーダーしたのか、思わず問い詰めてしまう。牛間の答えはいたって明瞭、冒険したいだけであった。勇気のある行動である。まぁ、わたしも『スパニッシュ福神漬け』なるものは見てみたかった。
呆れ半分、『スパニッシュ福神漬け』に淡い期待をしていると、ピアノが流れ出した。どうやら先ほどの女性が弾いているらしい。聞いたことのない曲だったが、わたしは海の静謐さを想像していた。
静かでなめらかな瀬戸の内海の水面――穏やかなそれのうえを船が走り、尾を引く――海は微かに波打つ。その光景。
しかしその光景もあと数日で見られなくなる。ふいにそう考えて、はっとした。広島を去る。長野へ行く。その事実が急に質量をもった。わたしは水を飲んだ。
「牛間」と、気付けば呼んでいる。「このあと、結局、どこいく?」
「うん、ショッピングとか? あぁ、あと、広島でやり残したこととかある?」
「やり残したことね」
また水を飲む。そして思案している。
「資料館とか?」
「えぇ? 平和公園の」
「そう。いったことないから、どうせなら」
「変わってるね。最後の思い出作りでいくとこじゃない」
結ちゃんらしいけどね、と牛間はいった。わたしは肩をすくめてみせる。
「じゃあ、ちっとくらい本通り見て、平和公園ね」
苦笑まじりでいわれる。わたしもへんな気がしてきた。水をほんの数ミリリットルだけ飲む。そのときちょうどカレーが運ばれてきて、スパニッシュ福神漬けとも対面した。スパニッシュ福神漬けは、白かった。
一通りのショッピングを楽しんで、わたしたちは打合せどおり平和公園へ向かった。牛間は買い物袋をいくつか提げて、愉快そうに先立って歩く。わたしは唯一、梅干を買った。笑われた。
平和記念資料館に着いたのは、午後三時のことだった。そのとき外はまだ晴れていた。これは五百円を無駄にしたのではないか、と不安に思う。入館料は百円。
初めて入る資料館は、時間の流れがどこか違って、回り続ける歯車をどうにか止めようとする場所に見えた。それは是でも非でもない。そういう役割というだけのことだろう。
とにかく、わたしはその空気が気に入った。そして凄惨な展示を見て回り、なにか途轍もない力の残骸を目の当たりにした。牛間はわたしの後を黙って着いて来、たまに展示を説明してくれた。どうやらいくぶん詳しいようだった。
「いつ見ても」と、牛間はいった。「いつ来ても、違うね。うまくいいあらわせないけど、なにか違う。いったいなにがそうさせるのかわからないけど」
「そういうこと、考えるんだね、牛間」
「結ちゃんにあてられたかな」
牛間は眉をしかめて、もっともらしく呟いた。
展示でなかんずく鮮明に刻まれたのは、原爆の映像である。どこにあったかは実をいうと覚えていない。ただ、モニターがあって、映し出される映像……
◇
パッと光って、一瞬縮む。
まばたきをひとつ、そのあいだ、一秒にも満たないうちに、光の渦。そして、灼熱が呑む。
上空の映像に切り替わる。見下ろすに、きのこ雲がもうもうと広島の上空にたちあがり、スピーカーからはノイズのかかった英語が聞こえた。
映像が切り替わる、こんどはモノクロの焼け野原だった。戦時のテレビ特有の、万能感と悲壮感が混在した音楽。ナレーターの抑揚のない声は、日本語なのに聞き取れない。
電柱が燃えてる、と牛間がいった。画面の右端に、たしかに映っていた。ぼぉっと、やみのなか、黒い炎が揺らめいている。よく見れば、電柱だと認められる。
でも、わたしには、なにも見えなかった。電柱は見えたが、なにも見えていなかった。唾をのむ。あたまのなかが真っ白になる。炎が黒い、めらめらと黒い。世界の深淵にぽっと咲いた花のように真新しい炎だ。それが、だんだんと迫ってきて、わたしの身の回りが白黒に燃え、そしていずれわたし自身に燃え移ってしまって――
「結ちゃん」
名前を呼ばれて、はっとした。牛間は、
「どうかした?」
と不安げにわたしを見た。どこかから雨の音が聞こえた。
2
資料館の外はしっとりした雨だった。わたしはビニル傘を差し、牛間は猫柄したかわいい傘を差した。いまは三月だった。
最近になって雨が多い。この時期の長雨を、菜種梅雨というらしい。三月の半ばから四月にかけて、あたたかさを孕んだ雨がしとしと続く。
わたしたちは雨降りの平和公園を歩き、違うどこかへ向かっている。そして互いに無言でいる。雨でせっかくのおしゃれがすこし濡れてしまう。牛間が先を歩いていく。
横断歩道が現れる。赤になる。止まる。
牛間がわたしを見る。
「どうだった?」
資料館のことだろう。わたしは頷く。
「行ってみるもんだね」
彼女は静かに口角を上げて、わたしから目をそらす。十三秒経つ。青信号になった。
「行けてよかった」
呟きは雨に消える。
喉が渇いたと牛間がいい、わたしたちは落ち着いた雰囲気のカフェで休むことにした。やがて運ばれてきた熱いコーヒーにスティックを二本、ミルクをひとつ入れる。牛間はわたしの倍の量をそれぞれ入れた。
ケーキも、きた。わたしのはモンブラン、牛間のはチーズケーキ。オーダーはこれですべてだった。
「魂だろうね」
そう、突然わたしがいうと、牛間は目を丸くした。
「なにが?」
「うん、いってたでしょ。何回来ても感じ方が違うって」
「あぁ」チーズケーキを口に運びながら、「資料館のことね?」
「そう。違うのは魂だろうなって。牛間の魂を構成するものが微々に変化していて、その変わりようが感じ方を違うものにする」
「ふうん?」牛間は目を細め、首をかしげる。「むずかしいね。とにかく抽象的だし」
「わたしもそう思う」
「あのさぁ」
吹き出して、牛間はまたチーズケーキを食べる。しばらくわたしもモンブランを食べるだけにした。でもあまり食指は進まずに、無言の時間は案外はやく終わって、
「今日はどうでした?」おどけた調子の牛間。「楽しかったかな、最後の広島」
「うん、牛間のおかげでね」
「照れるなぁ」
コーヒーを啜る。苦みが喉の奥に居座る。それがモンブランの甘みと絡みあって、ちょうどいい塩梅である。
「長野か。遠いねぇ」
「近いよ。いまのご時世なら」
「そうかもしれないけど」牛間は言葉に詰まる。「……あー、でも遠いよ。なんといっても遠い。だってもう気軽に会えないし。朝におはようなんていって、そのあと『あのドラマ見た?』って訊いて、結ちゃんがおきまりの『見てない。興味ないからね』をいうなんてことも、もうできないんだよ」
「ラインでもできるよ」
「そうなんだけど、そうじゃなくって」
牛間はフォークを置いた。視線を落とし、頸動脈のあたりを人差し指で掻いて、
「なんか、薄情」といった。
淋しいなら淋しいといえばいいのに。でも、そういうことじゃないんだろう。それで片付いたら、わたしたちはこんなに困惑していない。
「モンブラン、たべる?」
「いらない」
「また会えるよ。すぐ会える」
「うん」
牛間はかぶりを振った。あー、だめだ。それからすぐ笑う。夏休み、長野行くから、わたし。本当? うん、本当、案内してね。わかった、楽しみにしてる。そんなことをいう。モンブランを平らげる。コーヒーをのみほす。雨音がいつのまにか強くなっている。
「出ようか」
ビニル傘を持って立ち上がる。若干遅れて、牛間もついてきた。会計を済ませて喫茶店をあとにする。傘を差す。強い雨が打ち付ける。
わたしたちは広島駅へ向かう。路面電車に乗って、思いのほか空いていたのでロングシートに並んで座る。他愛のないおしゃべりをする。広島駅に着く。
山陽本線の銀色の列車は十分後に来る。わたしたちはそれを待っている。最後の一日が終ろうとしている。
3
「いつ帰るの」という電話越しの母の声に、
「六時くらいかな」と返す。「五時四十三分の電車だから」
「そう」事務的な声だった。「気を付けてね」
「うん」電話を切る。「牛間」
「なに?」
「今日はありがとうね」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。なにに驚いたのかはしらない。もしわたしの感謝がめずらしくて驚いたのなら、あたまをはたいてやろう。
「めずらしい」
あたまをはたいた。牛間は叩かれた箇所をおさえて笑っている。
「ひどいなぁ」
「ひどいのはそっち」
「そうかもしれない」
電車が来た。それに乗り込んで、ボックスシートのひとつに座る。わたしは窓際に、牛間は通路側に。電車のなかの空気は重い湿気を身ごもっており、浮ついているでも落ち込んでいるでもいない、春先の独特なありさまをしていた。
「結局、買ったのは梅干だけ?」
牛間がふいにいった。そういえば、そうだ。なんという詰まらない買い物だろう。手荷物がすくないのはいいが、最後にしては味気なかったかもしれない。
「まぁ、でも、楽しかったし」それでいいや、と思う。「ねぇ牛間。ずっと気になってたんだけど」
「ずっと?」
「実をいうと朝に一瞬思っただけではある」
「ふうん?」
「今日はどうして衣裳に凝ったの」
「え」目を丸くする。「似合ってなかった?」
「そうはいってない」
「なら、よかった」
牛間は頸動脈のあたりを人差し指で掻いた。電車が動き出すのは、もうすこし経ってから。やがて牛間がいった。
「『ただあなた以外の世界がひどくけだるく、僕は高速度撮影の映画の中の俳優のように、ゆっくり煙草に火をつけるのだ』……」
「なに、それ」
牛間は肩をすくめた。どうでもいいことなのかもしれない。とても重要なメッセージなのかもしれない。わたしはその判別もつかないままに、電車に揺られている。牛間は、いまこのときに限ってすんと澄ましており、底が知れない。
広島駅を出ると、屋根をうしなった車体に雨粒が襲い掛かってきた。窓も濡れていく。思い返している。原爆の映像だ。まだあの炎は燻っている。静かに。なにか大切なものを見落としながら。わたしは二度と広島から真に離れられないのかもしれない。
小さく咳をした。牛間が「大丈夫?」と問う。「うん」と頷く。すこし淋しかった。