アルディフォリアの守護竜
J35Fドラケンのコックピットに座るヴィルゴット少尉の視界には果てしない大空が広がっていた。
――ここは北欧、アルディフォリア王国の領海上空。
この日、スクランブル要員の当直だったヴィルゴット少尉はアルディフォリア王国の領空に国籍不明機が侵入した報を受けて王国の領海上空を飛行していた。
防空指令所から国籍不明機の位置をデータリンクで受け取り、自機のレーダーで捜索する。不明機を発見できれば退去勧告を行うことになっているのだが、ヴィルゴット少尉のドラケンが目標空域に到達するよりも前に不明機は領空から離脱してしまった。
「くそう、せっかくすっ飛んできたってのにとんだムダ足かよ」
ヴィルゴット少尉はマスク越しに不満を吐き出した。
「フリッグ5よりタワーへ、侵入した国籍不明機はすでに領空を離脱した模様。これより帰投する」
発進してきた基地へ向けて旋回。帰投コースに入る。
「どこの誰かは知らんが、毎度のことよくやるよ。まあ、ノルウェー海のど真ん中に国があったら、誰だって迷い込むよな。計器がイカれちまったら、どこ飛んでるのかわからなくなるし」
東西冷戦真っ只中の現代、アルディフォリア王国は永世中立を宣言した国のひとつだった。
東と西、どちらにも属さないこの国にとって領空侵犯を行う飛行機は脅威以外の何者でもない。ある日突然、侵入した飛行機がいきなり核を撃ってきたりすれば、それは王国の滅亡を意味する。
ヴィルゴットはそれを幼い頃から大人たちから教えられてきたため、愚痴をこぼしていても内心では常に緊迫感でいっぱいだった。
「いつかこいつのFCS(火器管制システム)と空対空ミサイルを使う時がくるのかな」
ヴィルゴットはドッグファイト・スイッチがついているスロットルに目を向けた。
次にマスターアーム・スイッチを見る。訓練以外で使用したことのないこれらのスイッチをオンにする瞬間。それは否応なしに自らが引き金を引く瞬間なのである。
その事実を改めて認識すると、緊迫感で総毛立った。
水平線の向こうにアルディフォリア王国の陸地が見えてきた時だった。管制塔から無線が入る。
「タワーよりフリッグ5へ、帰投中のところすまない。レーダーサイトが再びアンノンを捉えた。そちらのすぐ近くだ。接近して直ちに退去勧告を行ってくれ」
「ほんとによくやる。あんまりしつこいと撃ち落とすぞ」
「フリッグ5、あまり手荒な真似はしないでくれ。君も知っての通り、我が国は永世中立だ。米ソ関係なく他国の機を撃てば、世界中から鼻つまみものとして扱われてしまう」
「わかっている、冗談だよ。またいつもの迷子だろ。むさ苦しい野郎だったら勧告してさっさと追い返すし、素敵なカワイコちゃんだったら公海までしっかりエスコートしてやるよ。フリッグ5、ラジャー」
燃料にはまだ余裕がある。追い返すくらいは基地までもつだろう。そう思った時、ふと気付いたことがあった。もし、一戦交えることになれば増槽を捨てねばならないし、その分、飛んでいられる時間も少なくなる。その事態をいま交信している管制員は想像できているのだろうか。おそらくできていない。そんな事を考えられるのであれば、いくら近くとはいえ、帰投中のスクランブル機に任務を与えたりはしない。
「なあ、声からしてコニーだよな。俺にそれを頼むのがどういう事かわかるか?」
「ん?何かおかしいか?いつものように追い返すだけだぞ」
さっきは永世中立だの米ソだのと大真面目なことを抜かしていたくせにその事実を理解できていないのはこの男の方らしい。仮に実戦になったとき、無線の相手のこの男は使い物にならないだろう。彼は己の言葉ほど現実を認識しきれていない。
「俺は帰投すると言ったんだ。さっき聞こえただろう」
「増槽は外してないんだろ?計算上ならまだ問題ないじゃないか」
「そういうことじゃないんだけどな。まあ、いいや、分かった。もうひと仕事してくるよ」
再度、旋回。目標空域へ向かう。
「スウェーデンより舞い降りしアルディフォリアの守護竜か。俺はコイツで飛べさえすれば理屈なんてどうでもいいや。はは、緊張感を持ってないのは俺も同じかな」
スウェーデンからこのドラケンが輸入されてきた時、アメリカ、ソビエトどちらの国でも見たことのない形をした飛行機だと思った。
先進さを感じさせるダブルデルタの翼に圧倒的なSTOL性能、最高速度マッハ2の超音速性能、整備性の良さをもたらす機体構成、それらを考慮すれば癖のある操縦性能や航続距離の短さなんて愛嬌でしかない。
ヴィルゴットはこの鋼鉄の竜に惚れ込んでいた。
目標空域に到達する直前に再び無線が入った。
「タワーよりフリッグ5へ、目標空域にて積乱雲が発生している。視界不良を考慮してIFR(計器飛行方式)で飛行せよ。グッドラック」
「ラジャー(…何がグッドラックだ)」
報告通り積乱雲が発生しており、空域は雷雨に見舞われた。
「ついてないな。燃料にもう少し余裕があれば雲の上に出てVFR(有視界飛行)で飛べるんだが。雨だけならまだしも雷も一緒とはね。とにかく雷の直撃だけは避けないとな」
この天候の悪さでは領空侵犯機も飛ぶのに苦労しているだろう。領海でも公海でも墜落されたら、本当に国際問題になる。早いとこ見つけてお引き取り願おう。
「タワーへ、お客さんが見つからない。位置情報を教えてくれ」
無線で管制塔に話しかけるものの、応答がない。
「通じやしない、ボロめ。雷のせいか」
管制塔からのデータリンクが望めないとなると自分で不明機を捜すしかない。そう思い、自機レーダーの出力を上げたその時だった。
激しい閃光が視界を襲う。機体が雷に撃たれたらしい。
「うわっ!?」
閃光で一時的に視力を奪われる。ヴィルゴットは何も見えない状態だったがスティックをしっかりと握りしめ、機体を水平に保とうとした。ほとんど感覚でやっていた。間もなくして視力が回復。しかしキャノピー越しに見えたのは黒い海面だった。機体は海面に向かってほぼ垂直の姿勢になっていた。それでもヴィルゴットは動じず、冷静にスティックを手前に引いて機体を水平に戻した。
「ふぅ…、ったく。さすがに肝が冷えたぜ」
安堵してHSI(水平状況指示計)に目をやる。その途端、愕然とした。
HSIが機体があらぬ角度で飛行している状態を表示していた。
だが、ヴィルゴットの視界では雷雨の中で僅かに見える水平線が横一文字に広がっているのが見えた。機体は水平であることは間違いない。
「おい、まさかな…」
不安になり、他の計器も確認した。予備水平儀、迎え角指示計、ADI(姿勢方向指示器)、高度計、etc.
全て使い物にならなくなっていた。
「計器はみんなイカれちまったか。無線も使えないとなると管制塔にも連絡できないな。」
こうなってしまってはIFRによる飛行は不可能。
ヴィルゴットはこの悪天候の中でVFRによる飛行を行わなければならなくなった。当然、これ以上の任務の続行もできない。
果たさなければならないのはこの雷雨の中から脱出し、生きて帰投することのみ。
「今日は散々だ。コニーめ、俺が生きて帰ったら覚えてろよ」
ヴィルゴットはクロノグラフと地図を取り出し、それらをアナログのフライトコンピューターとして使用することでこの状況からの脱出を試みた。
悠長に計算している時間はない。燃料も残り僅か。
飛行機乗りにとって、東西の大国間の緊張状態よりもこの日のようにある日突然訪れる緊急事態の方が身近な恐怖なのかもしれない。
「ようし、現在地が分かったぞ。これで帰れる」
陸地にたどり着きさえすれば、あとはあまり荒れていない長めの道路にでも着陸して基地に連絡すればいい。
ヴィルゴットはスティックとスロットルを握りなおし、陸地のある方向に機首を向けた。
突然、レーダーの警告音が鳴り響く。レーダーが3時方向から自機に低速で接近する物体を捉えた。
「なんだ、今さらアンノンか?大荒れなんだからさっさと出ていきゃいいのに」
FCSオン。レーダーを移動目標捜索モードに切り替えて目標を捜す。あまり大きくないようだが、戦闘機にしては速度が遅すぎる。まるで鳥のようだ。
「なんだこいつは」
この速度では旧式のレシプロ機ですら失速してしまう。目標に向かって旋回するドラケン。このまま真っ直ぐ飛べば、12時方向、つまり真正面に目標を視認することができる。
無視して陸地を目指すこともできたが、得体の知れない飛行物体をこのまま放っておくわけにはいかない。
低速、低高度で飛んでレーダー網に引っ掛からずに侵入してくる飛行機もいるこのご時世、たとえ燃料切れを起こしてでも食い止めなければならない。
そうでなければ、この国の守護竜を名乗る資格などない。
「さて、そのツラおがませろ」
目標視認。
視界に捉えたそれは青白く光る、鳥のような生き物だった。
本作の続きは「ファイヤーバード」をご覧下さい。