未来への飛翔
第5章 未来への飛翔
イザラはサッカーを教えることにする。久しぶりに体を動かして汗を流すと気分が爽快だ。
リュウは今度の試合にミヤコを出さない理由を話さなければと、タイミングを見計らっていた。
試合を翌日に控えた朝。いつものようにプランターの苗に水やりをしていたリュウのところへミヤコが姿を見せた。
「…あれ、早いね」
ベイズへ戻ってきて以来、ミヤコの態度は何となくよそよそしく、リュウを避けているようにも感じた。ご機嫌を取るために持ってきたわけではなかったのだが、結果としてクローバーの球根はミヤコの曲がったおへそを少し修正してくれた。
「おみやげ」
リュウの前をぷいと通り過ぎようとしたミヤコの腕を捕まえ目の前に差し出した。
「…これって…球根」
「そうだよ。このポットに植えてミヤコの部屋で育ててごらん」
その言葉にミヤコの味気ない顔が一瞬にして笑顔に変わる。
「…私の部屋で? 本当にそんなことして良いの?」
きらきら輝く瞳。このミヤコの笑顔には絶世の美女も敵わない。
「…水やりはしっかりとね」
「はい」
ミヤコは素直に頷く。
それでもふたりの間には距離があった。さすがにミヤコもリュウに対して仏頂面は見せなかったがなにか違和感が漂っていた。
そして、今朝のミヤコはやけに険しい。
「あなた、何者?」
鋭い視線でリュウを睨む。リュウは手を止めてミヤコを見つめた。
「葉っぱが出たんだね」
なんとも優雅に微笑むリュウ。ミヤコはますます表情を強ばらせる。
「今日は総てを話さなければならないかな」
身構えているミヤコにリュウは初めて厳しい表情を見せた。
「僕の話は決して君にとって愉快なものではない。君の人生そのものを左右する可能性が大きいから。それでもいつかは聞いてもらわなければならない。時期を選ぶのは君の自由だ。今日一日考えて欲しい。夕方、僕は図書館にいる。決心が付いたら来て欲しい」
整いすぎているリュウの美しい顔。一切の優しさも温かさもなく機械的に言葉を発するリュウを見つめミヤコは戸惑う。
心細げにリュウを見上げるミヤコ。リュウはミヤコを抱きしめる。
「僕を信じて」
大きな胸、力強い腕。耳元で囁かれた優しい声。ミヤコを胸から離すとリュウは温かい瞳で見つめる。
「あの球根は四つ葉のクローバー。幸せを呼ぶ葉。痣と同じのね」
「…四つ葉のクローバー…」
リュウは静かに頷いた。
夕方、ミヤコは図書館へ向かう。足取りは重い。リュウは痣のことを知っていた。そして、髪の色も瞳の色もミヤコと同じ。それだけでも自分と関わりのある人間であることは充分知れる。物心付いた時、両親から血の繋がりがないことを教えられた。その当時は理解出来なかったが、今はそんなものの繋がりよりも自由に育ててくれた両親が一番大切だ。リュウは本当の両親を知っている。だが、それが今更なにになると言うのか。
ラートンがミヤコを図書館の奥へ案内する。
「…こんな部屋があったんですね…」
滅多に人が訪れない図書館の一番奥まったところにある資料庫。
ラートンがノックするとリュウの返事が返ってきた。
「ミヤコを連れてきましたよ」
「ありがとうございます」
リュウは満面の笑みでミヤコを見つめた。
部屋のドアが静かに閉まる。なんの音もしない静かすぎる空間にふたりきり。
「座ってくれるかな」
今日のリュウはミヤコが知るサッカー上手の院生とはまるで別人。威圧感こそないが冷徹な軍人のようだ。
ミヤコはリュウの向かいに置かれている椅子に腰を下ろす。
「君の本当の名前はイサヤ・ウー。現帝王の姪だ」
ミヤコは他人事のように無関心な表情を見せたが、一呼吸おいて身を乗り出す。
「…ウーって…金髪黒眼じゃないのに?」
リュウはミヤコを見つめた。
「君の母親は僕の父の妹。君は僕の従妹ということだ」
「…それって…私は伝承されている母親の瞳の色を受け継ぐ異端の子ってこと?」
「そう言うことだね。おまけに現帝王には子がない。今のままだと次期帝王は養子だ。養子の場合、戴冠式で正当な帝王の承継者である証として宝玉が手渡させる。その宝玉とは君の首に掛かるエメラルドの椎の実だ」
ミヤコは慌ててペンダントを取り出した。ビロードのつやで輝く美しいエメラルド。
「その椎の実がなければ誰も帝王にはなれない。だから、帝王になりたい奴が、宝玉と君の命を奪うために手段を選ばない人間をこのベイズに送り込んでいる」
「…だから試合には出さないと…」
「そうだ。今一番その椎の実を欲しがっているのはカー一族。第3教育院のキャプテンの家だ。カー一族に君の体に刻まれた証を見せるわけにはいかない」
ミヤコは肩をすくめた。
「あなた、やっぱり院生じゃないわよね」
「いいや。歴とした院生だよ。ただね、もう一つ別の顔があることは確かだけど」
ミヤコは特大の溜息をつく。
「さしずめ私の命を狙う刺客を消す為のリー総帥の隠し駒ってところ?」
「…鋭いね」
「私は髪の色と瞳の色で、このベイズでも特別視されてきたの。ずっとね。おまけに一つのことに集中出来ない出来損ない。だけど、顔色を読むのは得意よ」
ミヤコは立ち上がると窓に寄った。外の採光はすでに夜へと近づいている。
「…私はどうしても空が見たいの。太陽が見たい。それだけしか望まない。あとは何もいらない」
ペンダントを外すとリュウに手渡す。
「欲しい人にあげて。それで総てうまく行くんでしょ」
リュウは手の中で輝くペンダントを見つめる。化学変化と地殻の圧力で珪酸塩が鉱物に姿を変えただけ。その中にベリリウムとアルミニウムと酸化クロムと鉄分がたまたま含まれていただけのこんなものが権力という魔物を生み出すのだから、阿保らしいと言ってしまえばそれまでだ。
「僕もそう思う。君を王位争いの渦になど巻き込みたくない。しかし、カー一族がノアールを支配するのは危険すぎる」
「何故?」
「権力欲が強すぎる。彼らが頂点に立ったら何を言い出すか分からない。自分の気に入らないものは総て排除してしまう可能性だってある。優秀な人材を輩出するベイズは権力者にとってとても邪魔な存在だ。ノアールの歴史を見ても分かるだろう。礎を築いたのはリー一族だが300年前にウー一族が帝王の座を継承している。ベイズは何時の時代も権力者には驚異なんだよ。差別をしているのは畏怖の念があるからだと思う。ミヤコが特別視されるのもね」
リュウはにっこりと笑って見せた。
「…えっ?」
「話が逸れたね。人の上に立つにはそれなりの器がなければならない。誰でも上に立てばよいとは言えない。分かるかな。民のことを考え、どうすればこのノアールがより良い世界になるのかを自分のためではなく考えられる、そんな人でなければ帝国を治めることはできない。好き勝手に国を動かせば500年前に逆戻りだ。それはどんなことをしてでも避けなければならない。違うかな」
ミヤコは小さく頷く。実際に戦火に見舞われたことなどないが資料を読む限り繰り返してはいけない惨状だとそれは解る。
「今、君に帝王になれなんて言わないし、僕は別の方法があることを信じたい。しかし、カーをはじめとする玉座を狙う豪族に、帝王の血筋が存在することをアピールする必要はあるんだよ。おまえ等がいくら騒いでも玉座には座れないんだぞと牽制するね」
リュウは小さな箱を取り出し蓋を開ける。部屋の明かりできらきらと輝いたダイヤモンドの椎の実。
「…綺麗…」
ノアール随一の輝きと透明度、硬度を誇るガトーのティガード鉱山から掘り出された原石を磨き抜いてできている宝石。500年前、ノアールを統一したシェン・リーとガトーの支配者サザラ・マーが友情と和平を誓いお互いの瞳の色を映す貴石を使い造ったものと伝えられている。本来はリー家がダイヤモンドをマー家がエメラルドを持っていたらしいのだが、帝王の宝玉とされ受け継がれているのはエメラルドの椎の実。そして、マー一族の瞳の色は決して透明ではない。その辺の疑問はあるにせよ、マー一族の当主が守り通してきたダイヤモンドの椎の実が、今、目の前で輝いている。
リュウはミヤコの首にダイヤモンドの椎の実を掛けた。
「…これは…」
戸惑うミヤコ。
「マー一族に伝わる宝石。ガトーの支配者としての証だよ」
「どうしてそんな大切なものが…」
「リー一族もマー家も玉座は正当な血筋の姫にと考えている。ダイヤモンドの椎の実はイザラの父上から預かったものだ。君の助けになるものだからと」
「…イザラさんがここにいるのもその為?」
「いやいや、あいつが居るのは別の目的。この件とは全く関係ないよ」
リュウはミヤコの両手を優しく握ると真っ直ぐミヤコを見つめた。
「僕は何が何でも君をシフォンへ連れて行く。その目で見てごらん。空を太陽を星を。そして、感じて欲しい。椎木の森を川を緑豊かな大地を渡り花の香りや鳥のさえずりを運んでくる風を」
「…風…」
リュウは大きく頷くと微笑む。ミヤコはリュウをじっと見つめた。
「…本当に私をシフォンへ連れて行ってくれるの?」
「約束する」
ミヤコは心から微笑んだ。その輝く笑顔はミヤコの胸で揺れるダイヤモンドよりも美しい。
試合当日。
「ロイカ。頑張ってよ!」
ベンチで笑顔を振りまくめっきり明るくなったミヤコ。
イザラがリュウを小突く。
「おまえ。まさかとは思うがミヤコを…ものにしたんじゃないだろうな」
リュウは涼しい顔でイザラを見やる。
「だったらどうする。僕と決闘でもする?」
イザラは肩をすくめる。
「考えとくわ」
笑いもせずにそう言ってピッチのメンバーに視線を移したイザラ。
リュウは身震いした。
ガトーはとても頭の硬い人間が多い。ベイズを蔑視することもそうだが女性に対する偏見も相当ある。子を産む道具とまでは言わないがそれに近い考えが未だに残っている。イザラはリュウの女性関係をとやかく非難するが、リュウは来る者を拒まないだけのお気軽さを楽しんでいるだけだ。しかしイザラは自分の感情のはけ口として女性を利用する。マー一族の頂点に立つ超一流の血統なので、どんな形でも寵愛を受けられれば良いと考える女が沢山いるのだろう。子でも授かれば一族並みの扱いになる。イザラの母親は軍人だったので、ガトーでも特殊な環境で育ってはいるが、女性蔑視の基礎はきちんと刷り込まれている。女性にものを教えるなど有り得ない行動だった。使い捨てに近い女性観しか持たないイザラが女のために決闘を受けて立つなど今までなら決して考えられない。
イザラは剣術ができただろうか? 自分の思考の結論にリュウは苦笑する。
相手チームがベンチ入りした。選手の顔ぶれを見渡していたリュウとイザラは同時に立ち上がる。
「正解だったな」
イザラがリュウを横目で見て笑う。
「本人がお出ましとは、何か情報を持っているってことだな。油断はできないね」
「あれ? なんであいつがいるんだ?」
イザラはベンチに座っているトーマ・カーの隣にいる男を顎で杓う。
「…あの子って確か以前戦ったガトーの第3教育院の選手だよ。ゼッケン7番。でかいだけでボール捌きは子供並み。ミヤコがパスをカットして…」
リュウは言葉を切った。イザラが爆笑する。
「馬鹿! 完璧にばれてるんじゃん」
「…だってさ…クザラが咬んでるなんて知らなかったし…」
イザラはさっと顔を曇らせる。
「ごめん余計なことを言ったね」
「いや、いいんだ。もう結論は出してある」
「イザラ…」
「おまえとの約束を破るのは初めてだな」
メガネの下の知的で整ったイザラの顔に一瞬沈痛な表情が走る。
「…どうせばれてんならさ、ミヤコを使おう。後半30分。絶対1点取れるぞ」
イザラは楽しそうに笑う。
「どんな事態になるか解らないだろうが」
「騒ぎを収めるのがおまえの仕事だろ」
言うが早いか、イザラはミヤコの肩を抱き何やら耳打ちする。ミヤコの顔がぱっとほころぶ。リュウはどうぞご自由にとイザラに試合を託す。イザラは全員を集め作戦を綿密に練る。試合の流れを何通りも想定し対応策を指示する。リュウとはまた違った指導にメンバーは素直に従った。
「練習したとおりやればいい。さあ、行くぞ!」
イザラの掛け声に皆がおおと応じる。
イザラはピッチの側へ出向き次々と指示を出す。ベイズが試合開始15分で1点を取る。前半は1点を守りきる。後半開始直後にシフォンに1点を取られてしまう。
「ミヤコ。できるだけ掻き回してやれ」
「はい!」
後半30分。イザラの合図で選手が交代。ミヤコがピッチへ走った。
「トーマ様。あの娘です」
ガトーの選手が耳打ちした。
トーマの叔母ララは誰もが認める帝国一の美人だ。が、どうしてカー一族の男はああも不細工なるのかと囁かれている。ご多分に漏れずトーマも団子鼻のあばた顔。しかし、頭の切れと欲深さは超一流。政治手腕も見事で20才にして自分の内閣を有し、表舞台へ立てば後に続く者が大勢いる。
「…あ…あんな女なのか?」
想像していた見目麗しの姫とは似ても似つかないミヤコに呆然とするトーマ。
「椎の実を頂いたら、用無しだ。帰るぞ」
中座をするトーマの姿を遠巻きに確認しリュウは苦笑する。
絶世の美女と言われたサシルの子なので相当期待していたようだ。トーマが侍らせている女は皆とびきりの美人だと聞いている。
「お生憎様。ミヤコの美しさがおまえごときに解ってたまるか」
リュウはトーマの後ろ姿に内心舌を出す。
どんな馬鹿でも教育院にいるミヤコに手は出さない。機会は半年に一度の里帰り。その日は5日後だ。相手もここまで出張ったのだ。相当の準備はしているはず。とりあえず父に状況報告はしておこう。援軍ほど大仰な助っ人は不要だが、トーマ一味を生け捕るには2、3人の精鋭がいると助かる。ついでにミヤコの実家を覗いておいた方がよさそうだ。
「…ミヤコ今だ!」
イザラの大きな声にピッチへ目を向けたリュウ。こぼれたボールに食らいつくように走り込む。大きな体に行く手を阻まれた瞬間、体を翻し見事に交わして進路を確保するとゴール目がけて走る。素晴らしいバネと健脚。キーパーの頭上を越え見事ネットに突き刺さるボール。蹴り上げた右足の太ももに鮮やかに刻まれたリー一族の証、四つ葉のクローバー。飛び跳ねて喜ぶミヤコの胸に輝くのはノアール一美しいダイヤモンド。
イザラはミヤコの胸で揺れる椎の実を見つけ驚く。
「…聞いてないぞ…そんなこと…」
次の瞬間、笑い出す。
クザラは仰ぐ人間の見極めを誤った。マー一族にとって何よりも大切な宝玉ダイヤモンドの椎の実。父はその門外不出の宝をミヤコに託したのだ。それはマー一族がミヤコに忠誠を誓ったことを意味する。それはとりもなおさずガトー星の総てがミヤコに従うという意思表示だ。ウー一族をベイズへ幽閉し星全土を500年の長きに渡り支配てきたしたマー一族の権力は揺るぎないもの。ガトーでマー一族の長たるカザラに逆らえるものは何人たりといえどもいない。それは血を分けた息子であっても。
試合終了のホイッスル。
皆がベンチへと駆け戻ってくる。ミヤコは頭を撫でられたり抱きしめられたり。メンバーに絶賛され屈託なく笑っている。
「おまえさ。うちの親父殿をも味方に付けてるわけな」
「いいや。あれは父上経由で託された」
「…マジ! その方がよっぽど恐ろしい」
リュウは頷く。
「300年経って歴史が動く…そんな気がする。でもね。あの子だったらありかもと思えるのは僕だけ?」
イザラは仲間と喜んでいる底抜けに明るく素直で快活なミヤコを見やった。
「…いいや」
同意を待っていたリュウの美しい笑顔にイザラは苦笑する。
「あとはイザラに任せるから」
「はあ?」
「ここからは僕の仕事。ミヤコのことよろしく」
リュウは慌てて校庭をあとにする。
ベイズのポートセンターからゼンへ出ると軍の基地へ向かう。基地の統括官へ面会を要求する。下っ端兵士は眉間に皺を寄せリュウを監視していた。1時間以上待たされて、部屋に統括官が慌てて駆け込んでくる。
「…申し訳ございません。取り次ぎに不手際がありまして」
「カンナ将軍。お久しぶりです」
リュウは丁寧に頭を下げる。将軍と呼ばれた相手は恐縮して最敬礼をする。
「極秘伝令を総帥あてでお願いしたいのです」
「承知しました」
リュウはカンナ将軍の案内で基地の管理センターへ通される。統括官専用の通信回線を使い、リュウは父シェナ宛にトーマの登場と精鋭兵士若干名を調達されたしと伝令を打つ。
カンナ将軍に礼を言い、再びベイズへ戻ってきた時にはベイズは夜の闇に包まれていた。ミヤコの実家の場所はナビパネルが示している。繁華街のなかにあるレストラン。
「ちょっと有名って言ってたな」
頻繁に人の出入りがある。その流れを遠巻きに見つめている男を発見。どう見ても目つきは軍人。
「さて、金で買われた奴はどれくらいの腕なのかね」
リュウはその男が暗がりへ向かうのを確認し背後から近づき一気に羽交い締めにし口も塞ぐ。慌ててもがく男を後ろから眺め溜息をついた。
「ノアール軍も平和呆けしてるな」
みぞおちに一撃を与え気絶させると肩に担ぎトラドの病院へ向かう。
「先生にちょっと預かって頂こうかと」
トラドはおもいっきり不機嫌な表情を見せた。
「断る。ここは病院だ。そんなものを預かる場所ではない」
トラドは薬ビンを取り出し中の薬液を注射器に移すとリュウが担いでいる男の首にぷすりと投与する。
「さっさとここを出て行け。隣は空き家だ」
トラドは指で左を示す。
「お邪魔しました」
ドアに手をかけたリュウに薬ビンが飛んでくる。続いて注射器。しっかりと受け取ったリュウは病院を出て左の家へ。ドアは簡単に開いた。中は真っ暗で何も見えない。何歩か進んだところで足に何か触った。つま先で突いてみると柔らかい。この感触は人間だ。腐臭はないので死体ではない。
「くそ! ベイズじゃ月もないからな」
目が慣れるのを待つしかない。とりあえず重たい荷を下ろして暫く待つと転がっているのが15、6人の男であることが解った。くすりと笑うリュウ。
「先生もなかなかやるね」
リュウは教育院へ戻る。そしてポケットにしまってあった薬ビンを確かめ絶句した。
医療現場では滅多に使用されない致死率の非常に高い危険な筋肉弛緩剤。即効性で30秒と経たぬうちに全身の筋肉が麻痺する。生理機能がほぼ停止し仮死状態になるが意識と聴覚は存続する。効果はほぼ1か月も持続する。0.1CC投与量を間違えただけで生死を分かつ危険なものだ。おまけに音だけを聞き続けるという状態が災いし、この世に戻って来ても余程屈強な精神がなければほとんどの者が発狂する。
「…ってことは、あそこの奴らはこれで眠っていると…いつから…」
ガトーの科学者が排除したがるわけだとリュウは改めて苦笑する。トラドはミヤコの廻りに怪しい影が付きまとっているのを知っていた。それを自分なりに始末していたというわけだ。
「…いくら軍人でも神経持たないよなあ…」
謀反者とはいえほんの少し同情するリュウだった。
翌日。校庭の苗に水をやっているとミヤコが顔を見せた。
「おはよう」
今朝もまた怖い面持ち。
「せっかくのお祝いだったのに。どうしていなくなっちゃったの」
口をとがらせ睨む顔。なぜかそんな表情も愛らしく感じるのだからミヤコと出会って女性に対する価値観がずいぶん変わった。
「ちょっと町に野暮用でね」
決まり悪そうに笑ったリュウの涼しい綺麗な整った顔。今まで男の人になど全く興味がなかったミヤコですらとても素敵な人だと感じているのだから、イザラが言うように女性にもてるのは当然だ。自分より5才も年上なのだからつきあう女性がいてもおかしくない。どう見ても男の子のような自分をリュウが相手にしてくれるはずなどない。今までの優しさや笑顔は仕事だったからなのだ。なぜか涙がこぼれた。
「…ミヤコ?」
ミヤコは宿舎へ走り去った。
「女遊びばかりしているから嫌われるんだよ」
イザラの小意地の悪い声が飛ぶ。
「…女遊びってなんだよ。僕は下調べのために…イザラ! おまえ何かミヤコに言ったんだな」
イザラははんと鼻を鳴らして苗を見つめる。
「ベイズは植物にも快適な場所なんだな。どうして今まで無視されて来たんだろう。不思議だよ」
「話題を変えるな!」
「おまえ本気?」
メガネを外し整った知的な顔をリュウの目の前に近づけるイザラ。
「…それは…」
「彼女はいずれ帝王の座に着く身だぞ。それを忘れるなよ」
イザラは穏やかな笑みを残し宿舎へと歩いて行く。
リュウは自分の首にかけているエメラルドの椎の実を握りしめた。愛おしいと思う。守るべき者としてではなく明らかに別の意味で。それが愛情であることも分かっている。しかし、リュウがどんなに恋焦がれても叶う思いではない。帝王となる女性の相手は豪族からは迎えないのが決まりだ。力の均衡を保つための策として。
女泣かせと言われる自分が年端も行かぬ男勝りの少女にこんな思いを抱こうとは思いもしなかった。リュウは朝日の採光を顔いっぱいに受け溜息を漏らす。
「…撃沈か…」
その日、ベイズに大量の椎の実が送られてくる。残りのプランターに植え込む。果たして椎の実は芽を吹くのか。リュウは半信半疑で観察を始める。
ミヤコはイザラになついたようで食事も共にしている。嫌われた方がかえってすっきりすると自分を慰めてみるのだが、考えれば考えるほどミヤコへの思いが膨らんでしまう。
「深刻だねえ」
「また病気が始まったんだよ」
夕食後コーヒーカップをぼんやり見つめていたリュウは聞き覚えのある兄たちの声に飛び上がって驚く。
「…ど…どうして…あ…兄上達がここに…」
長兄ジャンがコーヒーを片手に椅子に座る。
「援軍を頼んだのはおまえだろう」
「…でも…精鋭を2、3人と…」
次兄ショウがリュウの頭を殴る。
「寝言を言うな。我ら以上の適任がいるか!」
リュウはあっさりと頷く。リー一族の誉れとまで言われる軍きっての強者である兄ふたり。援軍のレベルに申し分などあろうはずがない。
「カー一族が自ら動いているのであれば、リー本家として正面から阻止することを誇示するには我らが出向くが最良だ。父上も承知してくださった」
「マー一族のダイヤを頂き、リー本家が守る姫だ。相手への牽制は充分だろう。先程トラド公に謀反者の引き渡しもして頂いたしな。うまく行けば大事にはならぬかもしれん」
ショウが笑う。
「ま、リュウがそれなりに健闘してくれたということだ」
「母上がイサヤ姫の操をえらく心配されているぞ」
ジャンがリュウの肩をぽんと叩く。
「…母上まで…」
リュウは一気に落ち込む。
「男の甲斐性とまでは言わぬが、女の目を肥やすためならば咎めぬ。子だけは気をつけよ」
そう言って笑っていた母までもが自分を信じてくれていないとは。深い溜息を漏らすリュウの姿にふたりの兄はぎょっとし顔を見合わせる。
リュウの女遊びは本当に病気のようなもの。本人に悪気はないし相手もこの見目麗しい男の相手ができるのならと進んで服を脱ぐような女ばかりだ。目の前で容姿端麗な女が服を肩から滑らせるのだから、愛情だなんだと難しいことを言う前に健康な男子ならば当然の生理現象として事に及ぶ。女を知っていてもリュウは愛することを知らない。ところが、どうやらこのベイズで初めて愛することを知ってしまったようだ。
「まずいね。完璧にマジ。冗談通じてないぞ」
ジャンが苦笑する。
「ま、今まで悩んでないんだから、良い経験だよ」
ショウが笑う。
「こんばんわ」
イザラがふたりに挨拶をした。
「なんだ。イザラもここに居るのか」
「父上が進展はと言っていたぞ」
イザラは硬直する。そういえば自分のやるべきことを忘れていた。ミヤコの先生役を買って出て以来、トラドのところへも行かずにサッカーとミヤコの講義に明け暮れていた。やるべき事を予定通りに進めなかったことなどイザラの今までの人生では一度もない。やはりベイズは不思議な場所だ。
「…イザラさん…こちらは…」
イザラの後ろにいたミヤコはリュウとよく似た二つの顔をまじまじと見つめている。
「リュウのお兄さん。上のお兄さんのジャン。下のお兄さんのショウ」
「初めまして。ミヤコ」
デュエットのようにふたりに名前を呼ばれ戸惑う。おまけにリュウ同様とても綺麗な顔の男の人だ。ミヤコはうつむく。リュウもその兄達も、そしてメガネをかけているとはいえイザラもとても美しい顔立ちをしている。女の自分よりはるかに。神様はちょっと残酷ではないかと文句を言ってみたくなる。
「サッカーうまいんだってね。明日、是非見せてもらえるかな」
「…えっ!」
ショウが微笑む。
「イザラは用事があるから、明日からは私が先生をしてあげるよ」
ジャンが微笑む。
「…あのう…」
ミヤコはどう対処して良いのか呆気にとられ立ちつくす。
「ミヤコおいで」
リュウはミヤコの手を捕まえ食堂を出るとプランターへと足早に進む。
「…リュウ…痛い…」
プランターの前まできたリュウは慌てて手を離した。ミヤコは手首をさすっている。あまりにも力一杯掴んで引っ張ってしまったようだ。細いミヤコの手首が赤くなっていた。リュウはミヤコの手首をそっと両手で包む。
「ごめん。痛かったよね」
今夜のリュウの顔はいつものように優しくない。
「兄たちは教育院しか卒業していないから勉強はイザラのように教えられない。あのふたりにあまり関わらないでくれるかな」
「…リュウ…」
リュウは溜息をついた。
「ごめん。僕、ちょっと変かも」
「えっ?」
すぐ側に立っているミヤコをリュウは抱きしめる。
「…ミヤコをシフォンへ連れて行く。それだけは絶対に約束するから」
リュウはミヤコの唇を塞ぐ。驚いてもがくがリュウの腕をほどく力などない。
「…よけい嫌われたかな」
リュウはゆっくり唇を離すと静かにミヤコを見つめた。その物憂げで寂しげな表情にミヤコは戸惑う。
「…き…嫌いよ…嫌いよ…嫌い…」
リュウの胸を拳で何度も叩いたがそのうち力が抜けてしまう。そして瞳から涙がこぼれ落ちた。リュウの腕を振り払いミヤコは宿舎へ走って行く。
嫌いになってくれて良い。それでよい。リュウが守らなければならないのは将来帝王となるイサヤ姫だ。1年後に無傷で姫をシフォンのリー屋敷へ送り届けるのが自分の任務。それ以上の私情を挟むことは軍人としてやるべき事ではない。
リュウは両手を見つめる。軍人として何人もの命を奪ってきた。その罪滅ぼしのように植物を育てている。ガンを握り剣を振る厳つい手にミヤコのぬくもりが優しく残っている。この暖かさの為ならば命も捨てよう。リュウは手を固く握りしめた。その顔に迷いは一切なかった。
翌日、リュウとイザラの姿は教育院からなくなっていた。
今日は半年に一度の里帰り。教育院を学生が一斉に飛び出して行く。昔はその日の晩、家で過ごし翌日は教育院に戻ることになっていたが、ここ数年は、ベイズ出身者ではない者が居るため、もう1日実家に居られることになっている。
いつもならるんるん気分で飛んで帰る家なのだが、どうも気分が重い。首に掛かるダイヤモンドの話もしなければならない。なんと言えば良いのか。いや、どう話せば自分が納得出来るのか。未だに分からない。それでも、店を出る帰り客の嬉しそうな顔を見ると父の料理が食べたくなる。陽気な母の笑顔が見たくなる。
裏手の通用口へ向かおうとして路地を曲がった時、誰かに腕を捕まれた。が、目の前に一瞬閃光が走りまばたきをする間に解放される。違う。腕は赤く染まった何かに捕まれているが自由がきく。自分の腕を凝視しようとして再び腕を捕まれた。
「むこう向いて!」
「…リュウ?」
リュウはミヤコの腕で硬直している手首を引き離すと放り投げた。その先にはうめく男が何人も転がっている。
「ご両親には話をしてある。ここは危険だからトラド先生のところへ行くよ」
リュウはミヤコの手をしっかり握ると走り出す。病院の前には剣を手にしている屈強な男が3人いた。リュウはミヤコを背にかばう。
「目をつぶって。ゆっくり3数えて」
リュウは携帯用のサーベルを振り払う。
「そんな子供だましのサーベルで我らに勝てると思っているのか!」
あざ笑う男達が一斉にリュウに飛びかかる。細くしなる鋭いサーベルの刃が次々と男達の体を傷つける。ミヤコが3数え終わる前に3人は血まみれで転がっていた。リュウはミヤコを胸に抱え込み病院へ入る。そこにはジャンとショウが待っていた。
「レストランの裏手に8人、病院の表に3人、転がってます」
「よし、これで89人か。あと10人ほどだな」
「トーマがまだベイズから出ていない」
「あいつは自分で戦う奴じゃないでしょう。僕は転がしてきた奴らを回収してきます」
リュウはにっこり笑って出て行く。
「トラド公。姫を頼みます。我らも残党狩りに行ってきます」
ジャンとショウも出て行った。
ミヤコはトラドに駆け寄る。
「…先生…」
「怪我はないかい?」
「…え…あ、はい」
トラドは満面の笑みでミヤコを見つめ、血で汚れているミヤコの手を拭いてやる。
「奥の部屋に居なさい」
トラドに入るよう指示された部屋のドアを開けるとそこにはイザラが居た。
「外はだいぶ賑やかなようだね」
「…イザラさん…」
たくさんの機械が置かれた部屋。イザラはテーブル上の機械をしきりに操作している。
「ベイズっていうところは実に不思議だよ。このICチップの情報は伝達されるのに他の電波は総て遮断されてしまう。変、変…と…こんなもんかな」
機械から信号音のようなものが流れ始める。
「成功かな。こちらベイズのイザラです。聞こえますか」
暫くしてテーブルの機械に声が届いた。
「感度良好。イザラよくやった」
「ありがとうございます。これで懸案事項が1つ解決です」
「こちらも片づきそうだぞ」
「…兄は…」
「傷は負っているが命に別状はない。やはりカーの狸親父に言いくるめられたようだ。カザラにも手出し無用ときつく言ってある。心配せずとも大丈夫だ」
「ありがとうございます」
「そちらが片づいたらゆっくり遊びに来るが良い。レーナが心配しておる」
「はい」
「ところでトラドは…」
シェナの声を掻き消す爆音と共に病院の壁が崩れ落ちた。
イザラは咄嗟にミヤコをかばいうずくまる。トラドが慌てて部屋に飛び込んでくる。分厚い壁が崩れ落ち、ぽっかり開いた穴からトーマが苦笑しながら入って来た。
「医者がこんな防御壁の中にいるなど怪しい限りだ!」
トーマが手にしているのは軍用小型ビーム砲。普通ならばベイズへの転送認証作業でチェックされ絶対に持ち込めない金属製武器。
「ミヤコとか言うそうだな。椎の実を出してもらおうか」
トーマはビーム砲をミヤコに向ける。
先程の砲撃で背中に大怪我をしているイザラをトラドが抱きかかえる。
「ミヤコ。絶対に渡しちゃダメだ。良いね」
痛みに顔を歪ませるイザラ。
「…イザラさん…凄い怪我…」
「これくらいじゃ人間死なないよ」
苦笑するイザラを胸に、ミヤコを背に、かばいながら後ずさるトラド。
「リー一族を敵に回す気か」
トラドがトーマを睨み付ける。
「敵にはしないさ。軍もろとも乗っ取る。彼らに明日はない。そして現帝王の血を引く者も皆いなくなる」
トーマはビーム砲を構え直す。
ミヤコはトラドの背から躍り出る。
「残念ですが、私の手元にあるのはあなたが欲しがっているエメラルドの椎の実じゃないわ」
ミヤコはダイヤモンドの椎の実を掲げた。僅かな光にも美しく輝く椎の実。
「…それは!」
「これは、マー一族の宝玉。これでは帝王は継承出来ないんですってね」
ミヤコは小さく笑って見せた。
「小癪な! エメラルドはどこにある」
ミヤコは一瞬ためらうが真っ直ぐトーマを見つめる。
「…リュウが持っている」
「…あの女たらしのいかさま軍人か。今どこにいる!」
「あなたのお仲間を捕獲すると出かけたわ」
トーマはビーム砲をミヤコに向けたが発射できない。マー一族を敵に回せばどうなるか。たとえ帝王になれたとしても一日天下。いや、その前に抹殺される。ダイヤモンドの美しい輝きはトーマを躊躇させた。
「馬鹿! そんなものぶっ放したらエメラルドも消えるんだぞ!」
ミヤコの後ろからリュウの呆れかえった声が飛ぶ。リュウは散らばっている機材を舞うように飛び越しミヤコを背にかばうと、首に掛かるエメラルドの椎の実をトーマに見せた。
「おまえが欲しいものはこれだよな」
リュウの揺らすエメラルドの椎の実は高貴に美しく輝く。
「本物は消えたりしない!」
「…はあ? 阿保か!」
「ほざくな!」
トーマはビーム砲を発射させる。目のくらむ閃光と爆音が辺りを包む。何かが焼け爛れた異臭が拡がり黒い煙が立ち込める。瓦礫が崩れ落ちる音があちらこちらでしていた。
ミヤコは深く息を吸い込んだ。
「もう大丈夫だね」
リュウの声が近くで聞こえたが視界は真っ白で姿はどこにもない。
「…リュウ? どこにいるの?」
泳がせた手を捕まれる。
「ごめん。僕が側に付いていながらこんなことになって」
「えっ?」
「ビーム砲の閃光を浴びて一時的だけど視力を失っている」
「…あ…」
トーマがビーム砲を発射させる直前にリュウはレーザーガンでトーマの肩を撃ち抜いた。砲火はリュウ達を僅かにそれ病院の壁を焼き壊した。呻くトーマにリュウは筋肉弛緩剤を投与する。
「…リュウ…その量じゃ…」
トラドは苦笑する。
「そこを何とか先生が助けてやって下さい」
「…私にカー一族の馬鹿息子を助けねばならん義理などない」
その厳しい顔は医者ではなく帝王を思わせる冷徹さを浮かべたものだった。
リュウは腕の中のミヤコを抱き起こす。
「…リュウ! 目が…目が…」
目が焼けるように熱く言葉も出ないほどの激しい痛み。ミヤコはリュウの胸にしがみつき半狂乱だ。トラドはミヤコの目を診る。
「…ビーム砲の閃光をまともに見てしまったようだ。ま、3日もすれば治る。さて、イザラの治療もせねばならん。リュウ。手伝ってもらうぞ」
「はい」
翌日ミヤコはベッドの上で意識を取り戻した。
「…イザラさんの怪我は…」
「大丈夫。バイオドームで半日眠らせたから。もう、ぴんぴんしてるよ」
「…良かった」
リュウはミヤコの頭を撫でる。
「勇敢だったね」
ミヤコは首を横に振る。
「ごめんなさい」
「えっ?」
「…私…リュウに注意が向くように仕向けた…」
「ミヤコはエメラルドの椎の実を持っていないんだから当然だよ」
「…リュウが危険になるのに…」
ミヤコは涙をこぼす。
「…ミヤコ…」
「…リュウは大切な人なのに…」
リュウはミヤコの涙を指で拭う。
「僕はミヤコを守るために居る。約束を守るためにね。だから気にしなくて良いんだよ」
「…リュウ…」
「ミヤコは優しいね。ありがとう。とても嬉しいよ」
温かいリュウの言葉がミヤコにはとても寂しく響いた。リュウの優しさは任務だからなのか。リュウに抱いているこの淡い想いは断ち切らねばならないのか。そして自分はやはり帝王にならなければならないのか。考えても答えなど何一つ出てこない。
トラドの診断通りミヤコの目は3日で快復した。
リュウは相変わらず苗に水をやり土を眺め椎の実の芽生えを待っている。ミヤコはリュウの組む練習プログラムでサッカーを続けている。毎日図書館へも通っている。イザラは10日に1回ミヤコの先生をしにベイズへやって来る。イザラの系統だった学習指導が功を奏し、広く深くバラバラに蓄積されていたミヤコの知識が整理整頓されると成績は驚異的に上昇した。
そして1年。
何十個と植えた椎の実から3個芽が吹いた。リュウはイザラに自動散水装置をプランターに設置してもらう。これで毎日水を撒く人間が居なくても植物は枯れない。これからは月に一度の割合で管理をすれば大丈夫だ。リュウは色とりどりに咲き誇る花たちを眺め実験成功の膨大な観察記録を手にシフォンへ帰る準備をする。
ミヤコは教育院を首席で卒業した。ベイズ出身者のICチップ情報は教育院の成績からスタートする。右肩の古傷の脇に埋め込まれたチップ。夢にまで見た表の世界をやっと自分の目で確かめることができる。卒業のお祝いにイザラも駆けつけてくれた。
一年前より少し大人びたミヤコ。その笑顔は絶世の美女と言われた母親の面影をほんの少しうかがわせる。サッカーで鍛えた長い手足はほんの少し背が伸びた分すらりと見える。
「いつの間にかレディーになったな」
イザラがリュウを小突く。
「余計なことを言うな」
心の奥底に沈めてある感情がうごめくのを必死でこらえているリュウの横顔に苦笑するイザラ。
「そんな精神状態でこれから先やって行けるのか?」
イザラは殊更心配そうな表情でリュウの顔を覗いた。
「…ぼ…僕は軍人だ」
「ふーん。その前に単なる男だと思うがね」
「…イザラ。何が言いたいんだ」
「一つ屋根の下で生活するんだろ。おまえには理性なんてないから。感情を無理矢理押し殺しているうちに微弱電波を支配できなくなるんじゃないかと心配してるのさ」
「…さっさと改良策を考えろ!」
「ほんじゃ、じっくり100年かけてみるかな」
わなわな震える美しすぎる顔のリュウ。肩をふるわせ笑うイザラ。
「ミヤコをよろしくお願いします」
ミヤコの両親はリュウに深々と頭を下げる。
「ご心配なく。リー一族の名にかけてお守りします」
リュウはふたりに敬礼する。
シェナ・リーはミヤコを養子にしリー本家で預かることにした。これは取りも直さず帝王教育をするための布石だったのだが。
ミヤコは1年間自分なりに考えていた。帝王になることがどんなことなのかと。権力があれば何でもできると言ったリュウの言葉は、ミヤコの脳裏に魅力あるものとして焼き付いている。卒業と同時にリー本家から出された養子の件。リー家の思惑は分かっていた。ならばダメもとでと出した、シフォンの研究院で勉強したいという条件を、シェナはすんなり呑んでくれた。その瞬間ミヤコの好奇心は研究院へ注がれていた。
総てを自分の思惑通りに推し進めてきたシェナ・リーの、これが最初でそして人生最大の失敗策だったことを知るのはもう少し後のことである。
ミヤコはリュウとイザラに付き添われポートセンターへとやって来る。
相変わらずの雑踏。イザラが顔をしかめる。
「このうるささだけは馴染めないな」
同感だと言わんばかりにリュウも肩をすくめ苦笑する。
「さ、転送の手続をするよ」
「はい!」
現帝王ウー一族の血を受け継ぎ、リー一族の証のクローバーを体に宿し、マー一族の宝玉を胸に頂く、快活で聡明でサッカー大好きの女の子ミヤコはあこがれの空と太陽を求めて地上へ羽ばたこうとしている。溢れんばかりの好奇心と探求心とほんの少しの不安を胸に転送ポートへ向かうミヤコの笑顔はどんな宝石よりも美しく輝いていた。
ミヤコ・リー15才。ベイズ出身。ベイズ教育院首席卒業。ゼンのポートセンターへの転送を許可する。
ノアール帝国に新しい風が吹くのはこの2年後のことである。
玉座に座るのはトラド・ウー。リュウは医師として忙しい毎日を送っている。イザラは軍の開発司令部総責任者として重責を笑顔でこなしている。そしてミヤコは探査用宇宙船のブリッジで無限に拡がる宇宙の未知なる世界に好奇心を燃やしている。