血に濡れた鎮魂歌(3)
そんな中、あの男に出会ったのは家を追い出されたあの日と同じ、雨が強い日だった。周りに沈むのはアカを纏う魔獣の残骸。歪すぎて、原型も分からぬそれ。だんだんと、手にかけていくことが快感となっていた。切り刻んで、叩き切って。それが残酷だと誰も言わない。だから、狂ったようにいつだって。
雨音に紛れる足音。視界の先に居たのは1人の男。腕を下に下げた。地に溜まるは天から降り落ちる雫の破片。頬を伝っていくそれを乱雑に拭って、目の前の男を見た。
「坊主、そう警戒すんなって」
カラカラと笑う男。無表情の俺は剣を握る力を強めるが足は動かせない。まるで地に強く強く、縫い付けられているように。それは本能。この男は俺よりも遙かに強い。それを身体が分かっている。見た瞬間、俺も分かっていた。脳で瞬時に判断された。この男は危険だと。
雨に濡れる中、男は笑いながら俺に向かってこう言った。細めた瞳はいつの間にか黒から琥珀色に変わっていた。
「なあ、死んでんな坊主」
そう言われた意味が、分からなかった。死んでいる? 何故? 俺はココに生きているのに。生きるために、ここに居るのに。何を言ってるんだ、この男は――?
男をじっと見れば、男は寂しそうに笑った。まるで、何かを失ったかのように。対峙していたのは数秒だったか数分だったか。ほんの一瞬のような出来事だった。
バシャ、と背で水が跳ねた。上から落ちてくる雫が強さを増す。目の前は影と真っ暗な曇天だった。そこから降りてやまない雨は俺を押し倒して覆い被さるあの男をひたすらに打ち続ける。首にかけられた手が、それを物語っていた。ああ、俺は死ぬのか。生きるためだけにここに居た。生に執着しているはずだったのに、感情は酷く穏やかだった。
剣は水溜まりに転がって、透明な水の中にアカが混じり始める。俺を押さえつける男の瞳は酷く酷く、哀しそうだった。
「……お前、俺と来いよ」
「は?」
唐突に、何を言いやがるこの男は。現に俺に手をかけて、今にも殺そうといるくせに。
「生きたいくせに、諦めた面しやがって」
「んなもん、お前には関係ねぇだろ」
「言っとくけど、俺は思えなんて簡単に殺せるんだからな」
だろうな、とは思ってた。膨大すぎる魔力。それをここまで押さえ込むとは。ただの冒険者とかじゃなさそうだった。だから、この男の口からその言葉を聞いた時は納得した。そうだったのか、と。
「俺はこの世界に飽きて、厭きた魔族だ」
魔族。人とは違い、人ならざる者。膨大な魔力を持って全てを塵にさせる敵。その敵が世界に厭きて飽きた。聞いたこともない話だが、その感覚は俺にも分かった。縛り付けられた世界の概念。その全てを投げ捨てて、感情もないもかもをいらないと排除してこの世界にただ居るだけの。生にしがみついているだけの無力な存在。
「だから、お前は俺にもう一度この世界がまともだったことを証明しろ」
全ては狂った歯車が用意した舞台の1幕に過ぎない。それに頷いた俺はその時何を思っていたのかすらも分からない。差しのべられた手が温かかった、そしてそれが導くのはいつだって光のある場所だった。そう、信じていた。信じていたからこそ、その一つの結末に何も言うことはない。
瞳を閉じて、息を吐いた。そうして、苦しみ朽ちていく姿を俺はどうやったって免れることはできないと、心の奥底で知っていたはずだった。
―*―*―*―*―*―*―*―
思えば、それは決められていた運命だったのかもしれなかった。俺がアルノードルベイル家を追い出されるのも、ヴァルダに拾われるのも、そして――――
「レイ?」
「あ?」
俺の隣に居る少女はカレア。ヴァルダに拾われて1年。俺は15歳になっていた。ヴァルダが住み始めたのはとある辺境の森の中。本気でこんなところに住むのか!? と思ったが本気だったし、いざ住んでみれば住み心地はいい。住めば都、とかそういうのは置いておいてだ。もちろん、家は森の木を切って作り上げた。ヴァルダが魔術でくみ上げた代物だ。
あれ以来、俺は殺しを行ってないし剣を常時握ってない。敵は居ない、生きるためだけにしてきたその行いはヴァルダが居ることによって抑制された。最初の頃は落ち着かなかったが、次第にそうではなくなった。
カレアはこの辺境の森の近くにある街に住む少女だ。数ヶ月前に森で木の実を採集していた時に鳥の魔獣に襲われたところを助けた。それ以来来るようになっている。
「大丈夫?」
「ああ」
ため息をついて、返事をする。ここ最近あまりよくない現象ばかり起こっている。この森の魔獣共はヴァルダが一番の強者であることを知っているからヴァルダを警戒して人を襲いはしない。むしろ、俺はなつかれている。魔獣は本来、人をあまり襲わないらしい。俺が幾千と殺したであろう魔獣もそうだったのかもしれない。なのに、カレアが来てからはそれが増えた。それは何かを警戒しているように。
「そう、なら……」
「カレア?」
ギャアギャアと、魔鳥が煩く騒ぎ立てる。その瞬間、風が頬を横切る。液体が頬を伝う。平和ぼけしていたであろう思考回路。目の前の、少女は嗤っていた。ぞわり、とわき上がる警戒心と恐怖。一気に距離を取る。
カレアの手に握られていたのは鋼鉄で作られ、人の肉を意図もたやすく裂くことができる彼女の半分ほどの背丈の刃。
「何で、避けるの?」
「カレア、お前……」
「楽しかったよ、でも、ね」
彼女はまた嗤った。仄暗い、狂気を纏うその笑みは。まるで彼女ではなかった。彼女じゃなかった。背筋が凍り付く感覚に襲われる。ひとたび平和ぼけしてしまったらこうも鈍くなるのか。気づけなかったのか、違和感に。
何故魔鳥に襲われていたのか、何故街に店があるにも関わらず森にまで木の実を摘みに来ていたのか。何故、ヴァルダに会おうともしなかったのか――――。
「君はこの世界に要らない存在なの」
蒼かった彼女の瞳は黒に染まっていた。滑り落ちていく言葉。要らない存在。もしそうだったとして、何故知っている。
「だから、殺してあげるね」
鋼鉄の刃が俺に向かって突きつけられる。咄嗟に生成した剣で受け止める。少女の力ではない強さに舌打ちをした。どういうことだ、何で。
「お前は誰だ」
「……面白いことを聞くね」
「答えろ」
カレア出会ってカレアでない者。目の前の少女は感情を無にして答えた。
「私は世界の管理者」
「……。」
「君は世界に要らないと決定された存在だ。だから、君はあの日に死ぬ予定だった」
あの日――――それは、多分。やはり、そうなる予定だったのか。世界に見放されていたとは、知りもしなかったし何とも滑稽なことだろう。所詮はそんな世界だというのだ。切り捨てられた存在は、居場所なく朽ち果てる。それを世界が望んでいたというのに、なのに。
――――世界に抗うように、仕立て上げられてしまった運命はなんと哀しくて滑稽なものだろうか。
「あの魔族が君を殺さなかった。だから、世界が狂っている」
魔獣の沈静化、洞窟の増加、闇人狩りの施行、そして――――
「カルセド・アルノードルベイルが行方不明になっている」
全ては定められた世界の概念。それをねじ曲げ変えた俺を排除することで元に戻るらしい。それはそれで本当に滑稽なことだ。そうしないと世界は戻らない。狂った歯車は延々と回り続ける。回り回って、巡るのは欠けた世界で成されていく物語。
「だから、俺が死ねばいいと」
「そうだ、そうすれば元に戻る」
「……悪いが断る」
まだヴァルダに恩は返せてないし、まだ生きたい。生にしがみついて、ただがむしゃらに生きていた頃の俺じゃない。持っている剣を握り込み、一歩踏み出す。風を切る音と同時に少女の懐に入る。切り裂かれる頬。瞳を見開く少女から距離を取る。
「おま、え……!」
「悪いが、俺は躊躇いなんて持ち合わせていないからな」
かつての、1年前の感覚が蘇る。人を殺すのに何の躊躇いもなかったあの頃に。ただただ、それが義務のように、機械的に行っていたあの頃に。少女は唇を噛みしめて、俺を睨む。そして、低い声で呟いた。
「ならば、その命を持ってこの世界に逆らったことを後悔するがいい!!」
少女は俺の間合いに瞬時に入ってきたかと思うと、俺の構えていた剣にその身を沈めた。絡みつく、肉を裂く感覚にほんの数年前のことなのに恐怖を感じ――――思考が過去に持って行かれていることに気づいた俺は、無意識に詰めていた息を吐きだした。こう、すぐ感情に引っ張られて過去に思考が持って行かれる癖はどうにかしないといけない。過去に思いを馳せたところで、何も変わることがないのは明白な事実なのだから。ようやくこっちに意識を戻す事ができたと思ったら、甲高い女の声が耳を劈いた。