血に濡れた鎮魂歌(2)
俺の過去は順風なように見えて、捨てられ一瞬にして血に塗れた。そう、それこそが俺の運命が途絶えた日でもある。
――地に溜まるは天から降り落ちる雫の破片。頬を伝っていくそれを乱雑に拭って、目の前の男を見た。片手に剣を持った状態で。解くことのない警戒心をキリキリと張り詰めた状態の俺を、奴は軽く流す。強い殺気に当てられているにも関わらず、気にしてないようにというよりかは無視している。当時の俺の殺気は、普通の成人男性ですら怯えさせたというのに。
「坊主、そう警戒すんなって」
カラカラと笑う男。無表情の俺は剣を握る力を強めるが足は動かせない。まるで地に強く強く、縫い付けられているように。それは本能。この男は俺よりも遙かに強い。それを身体が分かっている。見た瞬間、俺も分かっていた。脳で瞬時に判断された。この男は危険だと。
雨に濡れる中、男は笑いながら俺に向かってこう言った。細めた瞳はいつの間にか黒から琥珀色に変わっていた。
「なあ、死んでんな坊主」
言われた意味は結局今になっても分からないままで。ただ、あの日俺はこの男と出会ったことで世界が全て変わった。一瞬にして変わりゆく世界の光景は、夜の黒からだんだんと朝のオレンジに変わっていくような、そんな光景に思えた。
血生臭いこの世界にいつから居て、もう何人この手にかけたかなんて覚えてない。ボンヤリと霞がかっていく過去に、いつから嘲笑を零していったのだろう。そんな腐った世界で、この男の言葉は確かだった。
死んでいた。家から捨てられて、生きる意味合いも持っていなくてただただこの手を血で濡らすことでしか満たせなかった飢餓感。苦しいと、思えば思うほど滑稽に思えて仕方のなかった世界はようやく壊されたらしい。
しかし、これは突如として整えられた残酷な運命を飾り、彩る始まりに過ぎず。そうして、世界はまた回り巡って罪を成していく。
背負うは永遠なる業――――誰かの、重たき哀しみと罪を背負うことになるとは知らず。
*・*・*・*・*・*・*
俺、スレイトラ・アルノードベイルは貴族だった。アルノードルベイル家といえば数多くの魔術師と魔剣士を輩出してきた王族にも名を連ねし名門貴族。幼い頃から膨大な魔力と剣の技術があった。周囲も期待していた。いずれは大物になるであろう、と。だがそれは俺が7歳の時に一変した。
弟が生まれた。俺よりも弱い魔力を持って、けれど魔剣士として、魔術師として。両方の際を持つ弟はアルノードルベイル家歴代の天才だと言われた。
俺より魔力量が少ないと言っても魔術師と魔剣士を十分両立できる程の魔力量だったし、天才でありながら努力家だった。俺が努力しても親は見てくれない。むしろ、彼らは「カルセドみたいになりなさい」という。
兄が弟のようになれと。弟は可愛いし俺のことも分かってくれていたから好きだった。弟を恨む要素なんて何もなかった。あの時の俺は、どうにもこうにもお人好し過ぎたらしい。今思えば、ただの甘ちゃんだ。だが、それは大人という庇護下の元で暮らしていたからだろう。
……いつしか俺のあだ名は「アルノードルベイル家の恥さらし」となっていた。別に気にしなかった。気にしてもどうしようもないし、その分もっと努力すればいいと本気で思っていた。けれど現実というのは残酷で、どうしようもなくこの世界を恨みそうになった。
『お前には出て行ってもらおう』
父からの、非情な宣告。それは俺が父の執務室に呼ばれた時に悟ってた。弟という天才が居ればクズは用無し。そういうことなのだろう。だから、嗤った。こんな世界だからこそ、こんな結末になるのだ。そう思うとやはり笑いが止まらなかった。
当時弟は5歳で俺は12歳。頭角を露わにしてきた弟が居る限り、この家は繁栄する。大人の自分勝手で汚い思惑に弟は呑まれていくのだろう。それでも、たとえ弟が可愛くても俺にとってはどうだっていい話に過ぎない。成長するにつれてできあがっていく人を切り捨てていく思考回路。こうしていかないと、こんな世界では生きていけないと思った。そうしないと、俺はいつか俺というまやかしに殺されてしまう。甘く甘い、何も知らない子供である俺に殺されてしまう。
父に家を出て行けと言われたこの日、俺の根底にあったあの幼い頃の、「努力をすれば報われる」「強くなればいい」というそれは簡単に潰えて消えた。
父に言われてからはい、としか言わず。俺は何も持たずに外に出た。その日は雨が降っていた。水音が跳ねる音がする。待って! 、と声がした。雨に濡れた弟は、俺を追いかけてきた。
『……カルセド』
『待ってよ、兄様! 何でお家を出て行くの!?』
幼すぎる弟は知らなかった。知らされてなかった。だから、きっと。弟を抱きしめて、耳元でゴメンな、と呟いた。弟はその謝罪の意味を今でも知らないだろう。弟からゆっくり離れて、俺は背を向けて歩き出す。
ぐっしょりと濡れた服も張り付く髪も、心の奥底でぐるりと黒い渦を巻くその感情さえもが鬱陶しくて堪らなかった。まだ12歳の俺はこの時から、こんな世界に何も思わなくなった。
この手を生きるためだけに血に染めた。血に染めて、感情をも殺していつしかそれすらも不必要なものとして認識して。狂っていくように剣に血を吸わせた。滴り落ちるアカを無表情に見るようになったのはいつからだっただろうか。
思考回路さえも狂っていく。初めてこの手にかけたのは盗賊だった。剣術の才はあったから、そこに最早人を殺すことへの抵抗はなかった。無知なガキと思い、襲ってきた盗賊を一刺しした。盗賊もこんな年端もいかないガキが剣を扱えるなど想っていなかったのだろう。肉を立つ感触が手に伝わってくる、その瞬間の盗賊の顔は驚愕に満ちていたのは覚えている。ただ、それだけだった。
血に塗れたそれはどれほど重かったのだろうか。もう、そんな感覚を忘れてしまっていた。人の命は重きものである。そう教わったあの頃のことなんか記憶の片隅にもなかった。ただ無表情に無感情に。人であろうと獣であろうと――――魔獣であろうと。ただ屠っていく日々が続いた。
血塗れの俺を誰も気にかけなかった。たまたま見つけたギルドに立ち寄って、血塗れたその姿に慌てたギルドの職員に風呂に放り込まれたこともあった。アカに染まっていく手に何の感情もない。
ギルドの職員は俺をしきりに心配していた。この時、13歳――――正式にギルドに加入できる歳であった。それまでは盗賊を殺しその報酬を盗んだり、獣を殺したりして生活していた。ギルドに加入すれば、依頼をこなして報酬がもらえる。もうそんな、歳になっていたらしい。
ギルドには形だけ加入した。たまに立ち寄って依頼を受けたりしていた。殺すことに躊躇いのない俺が大抵行く依頼は魔獣の討伐ばかりだった。そうして、自分を保ち続けた。そうじゃないと、あの日の俺に殺されそうだった。人の優しさに触れて、おかしくなったのだろうか。そんな考えばかりが頭の中をぐるぐると回った。手に残る感触と、一面を覆い尽くす湿ったアカだけが信じられるものだった。
そうしていくうちに、また歳は回る。世界が動く。アルノードルベイル家の長男は学園に進学したらしい。そんな話を聞いても、何も思わなかった。思えなかった。捨てた感情を拾い上げて感傷に浸るくらいなら、狂っていく思考を落ち着けた方が何倍もよかった。いつしか、その狂った思考すらも制御の域に達していたから何が正しくて、何が狂っているのかも分からなくなったとも言えよう――そんな生活が、2年ほど続いたのだった。