かえるのうた
瞬くと、水田を囲む小川のほとりに咲くタンポポが揺れた。
タンポポは一体いつ、黄色い花から白い綿毛に移り変わるのだろう。人生で幾度も繰り返されては答えのないまま過ぎていくその疑問を今、じっくりと考えていた。
少し目をやると、びんぼう草が傍らに。オオイヌノフグリとクローバーが背比べしている。そのどれもがまるで太陽の光に張りつけにされたように微動だにしない。空はどこまでも高く、日差しは厳しく肌を焼き付ける。
まるで、絵画のよう。
美織はその動かない景色に見惚れてそう思う。雲は鮮やかな陰影を刻み、その場に留まっている。
遠くの樹木が俄かに揺れ、水田を彩る畔の草花たちが順を追って踊りだす。植えられたばかりの幼い稲の苗も一生懸命震えて見せる。風が自然に象られ、見る見るうちにこちらに近づいてくる。
来る―――そう思った瞬間、突き上げるような風が頬を張った。はためく帽子を抑え、水田に冷やされた風を吸い込むと、それは来た時のままの勢いであっけなく過ぎ去っていった。その一瞬の憩いが彼女の茹だった頬を宥めた。
「――――ちゃだよー。おーちゃー」
気が付くと水田の向こう側でおばさんと母さんが大手を振ってこちらに叫んでいた。
「わかりましたー」
美織は急いで立ち上がり、お尻に付いた土を払いながら、ありったけの大声でそう応えた。
★★★★★★★
田舎育ちの鈴木美織は年に二度、田植えと稲刈りの時期に帰省して実家を手伝うのが慣例となっていた。彼女の生まれ育った土地では、近所の数家族が協力して農作業をするという昔ながらの風習が今でも残っており、この日、美織は幼馴染である亮輔の家の手伝いに来ていた。
「美織ちゃん悪いね。わざわざ大学休んでまで来てもらって」
「いいのよおばさん。実家を離れて改めてわかったけど、私、農作業とか意外と好きみたいだし」
「ほんとうに? 農家の仕事なんて地味なだけで大変じゃない。どこが好きになるのよ」
農家の嫁を三十年近くやっているおばさんはそんなことを笑って言う。
「たしかに作業は大変だけどね。野花が綺麗だったり、風が気持ちよかったり、何より、終わった後に飲むお酒が最高だし」
「おう、美織ももう飲める口になったか。どうだ? 今日で田植えも終わりだ。夜にでもおじさんとこ飲みにくるか?」
表情を崩して響くような低い声でおじさんが提案する。つなぎの作業着を着たおじさんは、いつもより数倍格好良く見える。
「いけませんよ。あんたは酒癖悪いんだから。それに、あんたと美織ちゃんじゃあ飲むお酒も合わないだろうし」
牽制するおばさんを尻目に、母さんはクツクツ笑う。
「それがそうでもないんですよ。この子、帰省したときに旅行の土産だって焼酎一壜抱えてきたんですから」
そんな暴露があり、私は照れ笑いしながら亮輔を見た。彼は静かに笑っている。昔は色白だったのに、いつの間にか陽が染み込んだような健康的な浅黒い肌に変わっている。幼馴染は成長とともに筋肉質な引き締まった体つきになっていた。
「おじさんがよければ、その焼酎を持って遊びに来ますよ」
「本当に?」
おじさんが本当に嬉しそうに訊くから、美織も嬉しくなって何度も頷いてみせる。
「美織ちゃんがいいなら私は大歓迎だけど、ねえ?」
そう言っておばさんは亮輔を窺う。だが彼は生返事をするくらいで手に持っていたお茶を啜ってみせた。
「まったくもう。あんたもたまにはなにか言いなさいよ」
呆れた風なおばさんだったが、慣れた様子で話題を今夜のつまみの話に切り替えていった。
美織は黙って話を聞くばかりの亮輔をたまに横目で確認しては、外見ばっかり変わって昔と全然変わってないじゃない、とほくそ笑んだ。
彼は今も昔も一貫して無口なのだ、病的に。
★★★★★★★
この日で田植えは三日目となり、ほとんどの水田に苗が植えられていた。田植えは機械でおじさんが、力仕事の苗運びは亮輔が担当し、おばさんは補植を、母さんは空いた苗箱を洗う係、美織は田植え機で荒れた土を均し棒で均す係だった。
田植えの最中は実務的な指示や相談以外は皆ほとんど口を利かなかった。
美織も自分の仕事に集中した。田植え機が往復する際にできる轍の荒れを均し棒で丹念になぞっていく。水が多すぎず、少なすぎないよう配慮しながら隆起した土は削り、陥没した穴をそれで埋めた。力の要る作業ではあるが、コツを掴むとさほど重労働でもないことに気が付いた。それでも息が切れると、額の汗をぬぐいながら照りつける太陽を仰いだりした。
遠くで、田植え機のエンジン音がしている。さらに遠くで白い大きな鷺が飛び立つ音が聞こえる。水田では何も遮るものがないから、意外と遠くの音まで風に乗って届くのかもしれない。そんなことに気付くとどこか嬉しくなった。
苗出しを終えた亮輔が一息つく間もなくおじさんに促され、田植え機に乗せられた。おじさんの指導の元、彼は覚束無いまでも機械を操作し、こちらに向かってくる。一点を集中して見つめ、真剣な表情でハンドルを握っている。私はあれにやられたんだ。美織は改めてそう思った。
「どうだ? 男前に見えるか?」
気が付くとおじさんが後ろに立っていて満面の笑みを向けてきた。気持ちを見透かされた気になってひどく取り乱してしまう。ずっぽりと入った長靴が田から抜けずに大きく体制を崩し、危うく倒れ込むところだった。
「なんだ、案外、図星かい」
少し間を置いた真顔の問いにも、上手く返事ができない。体制を立て直すだけで息が切れた。
「あ、ちょっとお茶飲んでくるから、あいつのこと見といてくれるかい」
気を取り直して言った先には、一人で田植え機と格闘する亮輔の姿があった。
「一人で大丈夫なんですか?」
「なあに。あいつは慎重だから、危ないことはないだろうに」
ノロノロと蛇行する機械を見て妙に納得する。
「じゃ、端に来たら冷やかしでもしてやってくれや」
そう言って去っていくおじさんの姿を引き留める術もなかった。
心配ないと言われても美織は気が気ではなかった。速度が遅いと言っても初めて乗るのに近い乗り物だ。過去には畔に乗り上げ側溝に転倒して事故になった例もあると聞く。ましてや彼はおじさんと比較にならないほど蛇行して稲を植えていた。それは経験だから、と笑い飛ばしていたが、本当に滞りなく乗りこなせているのかは疑問が残った。
美織はその真剣な眼差しを見守る。亮輔は慣れない手付きながらも田植え機を操った。一往復、二往復してもおじさんは戻らない。そのうち、徐々に蛇行していた稲の列は直線に近づいてきていた。
「——————————」
均し棒を握り締めて固唾を呑んで見守っていると、微かに音にならない音が鼓膜を揺らした気がした。
「———エルノータガ――」
どうやら亮輔は瞬きもせずに前方を凝視している。
「キ—―テク―ヨ―」
ただ、よく見ると唇が微かに上下していた。田植え機のエンジン音は相変わらず辺りを切り裂いていた。が、その静けさの中に間違いなく、途切れ途切れにも音階が含まれているのが聞き取れた。
美織は思わず身を乗り出して耳を澄ます。そして、その音階と彼の唇が合致しているかを確かめた。
★★★★★★★
「好きなんだ?」
美織が見透かした視線を送ると理解できず、亮輔は無言で疑問の表情を向けてきた。
「かえるのうた」
そう告げた途端、彼は一通り頭を逡巡させた後、理解したと同時に真っ赤に顔を染めた。
「それ、誰かに言ったか?」
田植えを終え、焼酎を抱えて家に着いたばかりの彼女は頭をふりながらもほくそ笑む。
「他の誰かにも聴かれた?」
確証を得られないながらもその問いにも首を横に振る。あの時、あの歌を耳にできる距離にいたのは、きっと自分だけだったから。
「誰にも言わないでくれるか」
真摯な視線に射貫かれても動じない素振りをする。亮輔の困り顔が可愛くて、もっといじめてやりたい気持ちになる。
「いいじゃない、みんなに聴かせてあげれば」
美織は彼の切実さを受け流したように素っ気ない態度で門を潜ろうとする。が、亮輔は無言のまま体を寄せ、通せんぼしてきた。
「なによ」
土と太陽と、汗の匂い。距離の近さにドキドキしつつ、ツンとした態度で尋ねても、彼は何も言わない。
「何にも言わないならもうどいて」
そういって横を通り抜けようにも、彼はやはり彼女の前に立ちはだかった。
「・・・言わないでくれ」
本当にこの世の終わりのような声を出すから、むしろ笑えてきた。が、それはお首にも出さず、美織は亮輔を真正面に見据える。
「なんでもするから」
すると彼は思いがけずそんなことを言い出した。鼻歌程度を聴かれることが、この幼馴染にとっては何事にも代えがたいほど恥ずかしいということだろうか。美織は笑いを堪え、繕った怒り顔で彼を睨む。
「じゃ、明日、カラオケね」
そして反論を許さない口調でそう告げた。
「え? 俺、歌えないよ」
「歌ってたじゃない」
そう言って美織はわざとらしくカエルのうたをハミングして見せた後、
「家族みんなに披露するか、私だけに聴かれるか、どっちがいいの」
と問うた。
亮輔はしばらく考えた末に、明日のデートの約束を了承してくれた。幼馴染ではあったが、一緒に、それも二人きりで外出など今までしたことがなかった。思いもよらず得たチャンスに、美織は胸を躍らせた。
田植えを終えたおじさんの顔には隠しきれない疲労が見て取れたが、それを補って余りある充実感が漂い、酒の力もあってかいつもに増して饒舌だった。誰もが一仕事を終えた後の達成感や安堵に浸っていた。おじさんやおばさんはもちろん、母さんも、亮輔だって笑っていた。美織は手土産の焼酎を皆のコップに注いで何度も乾杯をした。
耳を澄ませばカエルの大合唱が続いている。少しだけ喧しい、でも、ひどく穏やかな夜だった。