「制御」
「はい、そこまで!」声が聞こえた。
両腕がじんじん痺れ、足元には手にしていたはずの棍が転がっている。
目を上げると、棍を手にした王が、自分を見下ろしていた。幾分冷めた目が、「何をしている」そう語っている。
「じゃあ次は私。陛下、今日こそはお相手していただけますよね?」
そう言って、転がった棍を拾い上げて瑛明の前に立ったのは、勝負を止めた声の主、芳倫である。
濃淡のある桃色の短衣と裙子は、この院子の季節を先取りしたかのように、華やかだ。
「瑛明さま、敵は私が取って差し上げます」
こちらを振り返った笑顔は、春めいた柔らかい日差し以上に輝いて見えた。まさに、屈託のない笑顔だ。
「なにをおっしゃいますか」瑛明はその肩を引いて、半ば強引に横に並ばせると、
「貴女では無理ですよ。ましてその格好では。それに、以前も申し上げましたでしょう? お互いに『得手不得手』があると」
「確かに、私は武術は得意ではないけれど……」
不満げに口を尖らせながらも、語尾が消えている。
芳倫の素直な反応に、瑛明がそっと目を外して、僅かに口元を歪めていると、
「瑛明さま、今、貴女が思ったことを当てて差し上げましょうか?」
尖った声に隣に目を向けると、尖った目が自分を見上げている。
「いや、そんな……」瑛明が曖昧に笑っていると、芳倫はふいっと横を向き、
「でもお二人だけ男装だなんて……」
そう。
瑛明は、長衣、褲子、高革靴という、見事なまでの男装である。
政務の合間、王はしばしば桃華宮を訪れるようになった。
院子を散策したり、お茶をしたり、たわいない話など、ほんの短い時間を三人で過ごすだけだったが、それでも目に見えて顔色が良くなっていき、瑛明と璃音は揃って安堵した。
王は芳倫が用意する甘いものを気に入っているらしく、喜んだ芳倫は思考を凝らして様々なものを用意し、さらに王が喜ぶ姿を見て、彼女も喜ぶ――そんな姿を、瑛明は微笑ましく見ていた。そういや、市でも甘いものを喜んでいたな、などと思いながら。
対して瑛明は、王から武術の相手を求められるようになった。練習着として璃音が用意してきたのが、男装だった。
立襟で肌の露出が極端に少なく、身体の線が出にくいゆったりめな衣装のため、むしろありがたい。しかも動きやすいときた。
最近は、「いつ陛下が来てもいいように」と、普段からこの格好である。
本来ならば真っ先に文句を言いそうな依軒は、「この方がごまかしがきく」の一言で黙り込んだ。ほっとするとともに、「やっぱり依軒もそう思ってるのか」と心がざわついたのも事実だ。
「私だけ仲間外れみたいじゃない」
むくれた様子でそんなことを言う。
あくまで「身内」として接する王と過ごす時間が増えるにつれ、同じ「甘いもの好き」としての心安さを感じるようにもなったのか、芳倫は王の前でも素の反応を見せるようになってきた。あれだけ完璧な令嬢ぶりだったのに、これじゃいつもの甘えた小姐じゃないか。
「ただ動きやすい、ということですから」
瑛明が曖昧に笑って見せると、「だったら私だって」ムキになって言い返してきた。
瑛明は困惑しつつ――いや待て。これは「私たち、ちゃんと仲良くやってますからご安心を」と言外に示しているのかも。
前に「少しお痩せになったみたい」と心配げに言っていたし。
甘いものを中心にせっせと美味しそうなものを用意しているのも、彼女なりの心配りなんだろう。激務の王を励ましつつ、心配の種を減らしているんだな――そう思ったら、この駄々っ子みたいな態度にも納得がいく。
瑛明は、今度ははっきりと傍らの令嬢に笑いかけると、
「貴女には裙子がお似合いですよ」
「え? そうかしら」
すると芳倫は一転、目を輝かせて口角を上げるから、瑛明は苦笑する。
あーあ、頬染めちゃって、何をくるくるしているんだか。
すねたり喜んだり、陛下の御前だというのに、完全にいつも通りだな――そう思ったら、知らず口元が綻んだ。
可愛らしいことだ、相変わらず。
そして今、こちらに目を向けているあの方も、同じように芳倫を見ているのだと思うと――綻んだはずの口元が、少しだけ強張る。
お似合いだと、思ったはずだ。
二人が並ぶ姿は、一幅の絵のようだ。
家柄も姿も、美しく釣り合いが取れている。二人がいることが自然だと思ったはずだ。
なのに。
「陛下、そろそろ」渡廊から璃音の声。
「そうか、ではまた」そう美しく笑って、王はさらりと踵を返した。あまりにあっさりと背を向けられて戸惑っていると、いきなり身体を後ろに引かれた。
見れば、芳倫が右腕に絡みついている。
「さあ、私たちも行きましょ。私が部屋までお送りしますから」
「お送りって、目と鼻の先なんですが……」
ぎこちなく笑って応じると、「あら? じゃあ私のお部屋にまっすぐに遊びにいらっしゃるの?」大きな目がさらに見開かれて、こちらを見上げてきた。
「いやあの」返答に困りつつ目を投げると、探していた姿は渡廊を大股で進んでいて、やがて角に差し掛かる。こちらに見せる凛とした横顔は、たちまち見えなくなった。
一度も――振り返らなかったな……。
「どうしたの瑛明さま? 怖い顔をして」
気づいたら顔を覗き込まれていた。あまりの近さに驚いて、慌てて目を外しながら、
「え、ああ、負けちゃったからかな」
あはは……と軽く笑って見せたが、芳倫は険しい顔をしたまま、
「何か他ごとに気を取られていたのではなくて? 身を入れないと危ないわ。相手がお優しい陛下でよかったわね、お気遣いいただいて。そうでなかったら、怪我なさってたわ」
作っていたはずの表情が強張る。
そうだったのか、俺は気を遣われていたのか。
しかも見ているだけの芳倫だって気づいたのに、実際に手合わせをしている俺が気づいていないなんて。
なんてことだ。
そんなことも分からないほどなのか俺は。
瑛明は思わず天を仰いだ。
早く言わなければと思っていた。取り返しがつかなくなる前に。
感情が「形」にされてしまう前に。
だってあの方は知らない。俺と違って、決定的なことを。でも俺は――。
あの方を止めなければ、そう思っていた。
だけど違う。
本当に止めなければならなかったのは、俺の方だったんだ。




