「客人」
数日後。
「瑛明さま、お待ちかねのものが届きましたよ」
前室から、渋い顔をした依軒が現れた。手には大きな青い包み。
先日、本の取り寄せを頼みに出た隙を狙い、無断で部屋を出た瑛明に怒りを感じてはいるが、自分が院子散策へと誘ったのだと璃音に言われた結果、表立って文句を言うわけにはいかなくなったものの、勝手な行動を許してはいない――それを態度で示していることに苦笑しながら、瑛明は眺めていた本を閉じて、立ち上がった。
「五冊とも?」
依軒の手から包みを受け取りながら、瑛明は訊く。
「ええ」
「ああ重かった」とばかりに大仰に息を吐いて、依軒は答えた。
「そう。ありがと」
瑛明はおざなりにお礼の言葉を述べると、「本を読みたいから」
そう言って、依軒に退出を促した。
あからさまに渋い顔を見せたものの、依軒は取ってつけたような一礼を残し、部屋を出ていく。
またしばらくは薄い茶を出されそうだな……包みを手に足早に歩きながら、瑛明は小さく苦笑した。
とはいえ、最近は黙って出ていってくれるようになったから、ありがたい。前だったら散々文句を言っていたし、さらに前だったら、そもそも俺の言うことなんか、聞き入れたりしなかった。
これは認められたということか?
いや、きっと俺と居るのが気詰まりなんだろう。俺と同じで。
母さんとは仲良しだったようだけど、だからってその子とまで仲良くなれるってわけじゃないよな。まして俺は男なわけだし。
「中相とはどうなんだろ……」
声には出してみたものの、まあ険悪なわけはないか、あの中相だしな。
そういや宮中に俺に会いに来たときにも、いつも依軒に挨拶してから帰ってたよな。やっぱりそう言う「気配り」って大事だよな。俺って生きるのに必死過ぎて、周りに気を配るってことが、全然できてなかったな……。
そんなことを思いながら、瑛明は卓上に包みを置いた。
件の本は、一番下に置かれていた。
瑛明は立ったままそれを手に取り、ぱらぱらと捲りだす。たまたま題名が同じなだけかもしれない、などと思いながら。
だが。
何度も読んだし、いい布の切れ端が手に入るたびに書き写しもした。だからもう、一言一句、余すところなく覚えている。
だから、分かる。これはやっぱり間違いなく、陶淵明の『桃花源記』だ。
他の四冊に較べて、随分と紙質がよかった。
こちらにも紙はあるが、表面はごわついていて分厚く、だいぶ茶色がかったものだった。それだって高級品だそうで、中相の蔵書の中でも、竹簡、木簡は少なくない。
でもこの『桃花源記』だけは、紙が滑らかで白く、冊子も薄い。だから、外界の書を持ち込んだのかと最初は思った。
だけど頁を繰るたび、その思いは薄れていく。冊子を閉じたところで瑛明は確信した。
――これは、中相の手蹟だ。
読みやすく美しいが、よく言えば流れるような、悪く言えば書き流している、曲線ばかりの細い文字で、一見女性の字かと見紛うのが瑛明の知る中相の字だった。
だけど手にした本を構成する文字は、「とめ」も「はらい」もきちんとしていて、筆にも強弱がある。楷書の見本かと思うような、誠実さが垣間見える、丁寧な筆運びだった。だから最初は分からなかった。
ふいに、あの竹庵で、筆を執る中相の姿が浮かぶ。
撫でるようにさらさらと筆を動かして、たちまち紙面を文字で埋めていた。だけど、これはそうじゃない。紙面を見据えて、一文字一文字、丁寧に。それも、外界からわざわざ持ち込んだ紙に――そう思ったら、唐突に込み上げてくるものがあった。
――あの人は一体、どんな思いでこの物語を見たんだろうか。
「おまえだけに」と竹庵の合鍵を渡された。
机を挟んで、様々なことを教えられた。
茶を飲み、菓子を食べて、雑談した。
俺の歌を瞑目して聴き入っていた。
いきなり現れた父親に困惑し、穏やかさのなかに見え隠れするただならぬ気配に警戒しながらも、「この人に認められている」――そう思えるたび、嬉しくて、心が躍った。
そう言う時が、確かに在ったのだ。
瑛明は開いていた『桃花源記』をそっと閉じた。
表紙の文字は、中よりもいっそう丁寧に書かれているように見える。心惹かれるものがあったんだろうか……そう思ったとたん、胸に迫るものがあった。
そんな自分を鎮めるように、瑛明は大きく息を吐いた。
そっと題字を撫で、「だとしても」敢えて声にする。
だとしても――あの人が、男の俺を宮中に上げて、陛下を欺いている事実がある。
そしてここに、中相が書写した外界の書がある。
地下通路の侵入者が分からない今――あの人に問うべきことはあるはずだ。瑛明がそう、自分に言い聞かせたとき。
叩扉の音。
間を開けずに扉がガタガタと揺れた。
「鍵? 瑛明さま、一体何をなさっているんですか!」
「依軒? 何で……」
瑛明はぎょっと背後を振り返る。
「ちょっと待って!」扉に向かって声を張り上げ、手にした『桃花源記』を、他の四冊の一番下に急いで突っ込む。
扉を開けると、依軒がいつもの怖い顔――ではなく、困惑の表情で見上げてきた。
「――どうしたの?」
頭に巡らしていた言い訳を言い忘れるほどの違和感だった。
「お客さまです。璃音さまが」低い声。
「璃音が?」
どうしたんだろう。何より、璃音が来るなら別に珍しいことじゃ……。思いながら、手早くいつもの重装備をしてから前室に入り、入口へと歩いていくと、
「やあ瑛明」
そこに立っていたのは、璃音と――王だった。
「久しいな、元気にしてたか」
「陛下……何で……」
言いながら璃音に目を向ける。王の前に立つ璃音は、曖昧な笑みを浮かべているだけだ。
「何でとは心外だ。ここ桃華宮は私の居宅でもある。同じ敷地にいる身内に会いに来ているだけだが」
同じ居宅って――確かに敷地は一緒だけれど、建物は別だし。そんな気軽に行き来できる作りでも、規則でもないだろう。
「今日は少しは暖かい。院子で茶を飲もう。依軒殿、芳倫を呼んできてくれ。璃音は亭台で茶の支度を。じゃあ瑛明、我々は少し院子散策でもしていようか」




