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糸遊~きみにつながるひかり~  作者: 天水しあ
第八章『足音』
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「衝動」

 依軒は書を手に出ていき、瑛明は一人になった。


 立ち上がり、書机を離れる。ゆるゆると歩いて部屋の真ん中に置かれた卓子に向かうと、椅子を引き、いつもの定位置に座った。


 卓上には、何も置かれていない。

 向かいの席は、もうずっと、空いたままだ。


 何だろうこの、言いようのない不安は。

 周りには必要なものは勿論、無くても困らないものまで、様々なものに溢れてる。着るものにも食べるものにも困っていない。その日暮らしの外界の日々とは全く違う。


 なのに――何もない。


 何だこの、腹の底からこんこんと湧き上がってくるような、感じたことのない恐怖は。部屋の静寂が、耳奥で反響しているみたいで、うるさい。

 このまま一人でここにいたら、おかしくなりそうだ。


 でも――部屋を出て、話しかけてくるだろう女官と、にこやかに取り留めない話をする気にはならない。ましてそのうち戻ってくるだろう依軒の、小言なのか嫌味なのか、そんな言葉を聞きたくもない。

 芳倫の邪気のなさに対峙するのは、今は余りにも、辛い。


 誰にも会いたくない――ただ、一人以外は。


 瑛明は卓上に手をついて立ち上がった。空いた左手で胸を強く掴みながら、大きく息を繰り返す。

 ダメだ。決めていたはずだ。

 次に会うときは本当のことを言うとき。そうでなければ、会ってはいけない。これ以上、偽りを重ねてはいけない。


 だから、それが果たせそうにない今、一目だけでもなんて、思っちゃいけない。


 一目だけ姿を見られたら充分――なんて、絶対に無理だ。思えるはずがない。

 瑛明はにわかに身を翻した。部屋の隅にある鏡台へと向かう。足早に。

 そうして鏡台の傍らに置いた、ただの黒櫃の蓋を開け、取り出した手套、蒙面、深衣を身に重ね、部屋を出た。


 依軒の不在時に勝手に部屋を出るなんて、あとでどれだけ面倒なことになるか。

 そして体調不良を謳って引きこもっている身でありながら、日も出ていないこんな寒空に、侍女も連れずに出歩いているところを見咎められたら、さらに面倒なことになる。それでなくてもこんな、あやしい格好で。


 瑛明は、鈍色の空の下でも、そこここで春のほころびを見せている院子にわに目をくれることなく、そのまま渡廊を進んだ。

 建物の角を曲がり、院子に背を向け、桃華宮の奥へと入っていく。「ちょっと散歩に」という言い訳も使えない行動だ。


 幾度か角を曲がり、やがて瑛明がたどり着いたのは――かつての自分の部屋である。

  

 固く閉じられた扉の奥には、まるで人の気配が感じられない。修繕という名目での居室替えだったはずだが、何かがされているわけではないようだ。

 宮中に招かれ、半年近く過ごした場所である。あんなことさえなければ、今もここに居て、今朝も対面にはきっと……。


 そっと扉に触れる。


 すると僅かに、扉が揺れた気がした。


「まさか」

 瑛明は呟いて、手に力を込める。すると扉は、低い音を立てて、確かに開いた。

 「嘘だろ……」口に上った言葉を慌てて呑み込むと、瑛明は辺りを見渡し、慎重に扉を押した。僅かな隙間から身を滑らせ、素早く扉を閉めた。そのまま小走りに前室を抜け、閂を抜いてて次の扉を押す。瑛明はかつて一日の大半を過ごした居室へと足を入れた。


 卓子も棚も衝立も、そのままあった。

 だけど、かつての居室を満たしていた日用品や装飾品やらはすでになく、室内は薄汚れた感じさえして、もの悲しさを感じる。


 もう何もない、空っぽの空間。

 忌まわしい出来事に、見舞われた空間。


 なのに――何故なんだろう、寒々しさを感じながらも、どこかほっとしてしまうのは。

 瑛明は室内に目を巡らしていたが、やがてゆっくりと、居室の片隅へと足を向けた。


 かつて鏡台が置かれていた衝立の向こうには、あの黒櫃が置かれている。

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