「衝動」
依軒は書を手に出ていき、瑛明は一人になった。
立ち上がり、書机を離れる。ゆるゆると歩いて部屋の真ん中に置かれた卓子に向かうと、椅子を引き、いつもの定位置に座った。
卓上には、何も置かれていない。
向かいの席は、もうずっと、空いたままだ。
何だろうこの、言いようのない不安は。
周りには必要なものは勿論、無くても困らないものまで、様々なものに溢れてる。着るものにも食べるものにも困っていない。その日暮らしの外界の日々とは全く違う。
なのに――何もない。
何だこの、腹の底からこんこんと湧き上がってくるような、感じたことのない恐怖は。部屋の静寂が、耳奥で反響しているみたいで、うるさい。
このまま一人でここにいたら、おかしくなりそうだ。
でも――部屋を出て、話しかけてくるだろう女官と、にこやかに取り留めない話をする気にはならない。ましてそのうち戻ってくるだろう依軒の、小言なのか嫌味なのか、そんな言葉を聞きたくもない。
芳倫の邪気のなさに対峙するのは、今は余りにも、辛い。
誰にも会いたくない――ただ、一人以外は。
瑛明は卓上に手をついて立ち上がった。空いた左手で胸を強く掴みながら、大きく息を繰り返す。
ダメだ。決めていたはずだ。
次に会うときは本当のことを言うとき。そうでなければ、会ってはいけない。これ以上、偽りを重ねてはいけない。
だから、それが果たせそうにない今、一目だけでもなんて、思っちゃいけない。
一目だけ姿を見られたら充分――なんて、絶対に無理だ。思えるはずがない。
瑛明はにわかに身を翻した。部屋の隅にある鏡台へと向かう。足早に。
そうして鏡台の傍らに置いた、ただの黒櫃の蓋を開け、取り出した手套、蒙面、深衣を身に重ね、部屋を出た。
依軒の不在時に勝手に部屋を出るなんて、あとでどれだけ面倒なことになるか。
そして体調不良を謳って引きこもっている身でありながら、日も出ていないこんな寒空に、侍女も連れずに出歩いているところを見咎められたら、さらに面倒なことになる。それでなくてもこんな、あやしい格好で。
瑛明は、鈍色の空の下でも、そこここで春のほころびを見せている院子に目をくれることなく、そのまま渡廊を進んだ。
建物の角を曲がり、院子に背を向け、桃華宮の奥へと入っていく。「ちょっと散歩に」という言い訳も使えない行動だ。
幾度か角を曲がり、やがて瑛明がたどり着いたのは――かつての自分の部屋である。
固く閉じられた扉の奥には、まるで人の気配が感じられない。修繕という名目での居室替えだったはずだが、何かがされているわけではないようだ。
宮中に招かれ、半年近く過ごした場所である。あんなことさえなければ、今もここに居て、今朝も対面にはきっと……。
そっと扉に触れる。
すると僅かに、扉が揺れた気がした。
「まさか」
瑛明は呟いて、手に力を込める。すると扉は、低い音を立てて、確かに開いた。
「嘘だろ……」口に上った言葉を慌てて呑み込むと、瑛明は辺りを見渡し、慎重に扉を押した。僅かな隙間から身を滑らせ、素早く扉を閉めた。そのまま小走りに前室を抜け、閂を抜いてて次の扉を押す。瑛明はかつて一日の大半を過ごした居室へと足を入れた。
卓子も棚も衝立も、そのままあった。
だけど、かつての居室を満たしていた日用品や装飾品やらはすでになく、室内は薄汚れた感じさえして、もの悲しさを感じる。
もう何もない、空っぽの空間。
忌まわしい出来事に、見舞われた空間。
なのに――何故なんだろう、寒々しさを感じながらも、どこかほっとしてしまうのは。
瑛明は室内に目を巡らしていたが、やがてゆっくりと、居室の片隅へと足を向けた。
かつて鏡台が置かれていた衝立の向こうには、あの黒櫃が置かれている。




