「桃花」
あんなに晴れ渡っていたのに――思いながら慌てて身を起こすが、何も見えない。
だが先ほどはなかった、むせ返りそうなほどの芳香が辺りを満たしていた。
「何だこれ」
竹竿を握り直しながら、瑛明は白濁した周囲を見回す。
舟はゆっくりゆっくりと、川面を滑っている。芳香は増すばかりだ。この香り、これは……。
「わあ……」思わず声が漏れた。
たちまち霧が晴れた両岸は、いつのまにか春色に染まっている。
今までかいだこともない、強い桃の香り。一本の雑樹すらない見事な桃林が、延々と川沿いに続いている。水面を数多の桃の花片が流れて行き……「え」声が漏れた。
花が、舟とは逆方向に流れてる。――どうして上流に進んでいるんだ!?
両岸から迫る桃林。
香りの強さは目眩がするほど。
流れる水は、花片が溶け出したような見事な桃色。
まったく夢のような、人の世とは思えぬほどに美しい風景。これは。
まるで「あの物語」のようじゃないか。
そこまで思い至ったとき、瑛明は慌てて竿を放り出し、竿を取った。下流に向けて、必死に漕ぎ出す。
帰らないと。母さんのところに帰らないと。
だが舟はなかなか進まない。桃花が舟を水面に絡みつけているかのようだ。
竿で水を叩きつけ、かき回し、花片を舟から引き剥がして必死に漕いだ。全身から汗が吹き出し、腕も痛い。なのにまったく動いている感じがしない――焦る心を必死に押さえ込みながらとにかく漕ぎ続けた。
そうして、どれくらいが経ったのか――。
次第に川面から桃色が薄れていき、少しずつ舟が動いているのが分かるようになり、やがては漕がずとも舟が流れていると思ったときには、いつしか両岸の桃木は消えていた。
津に着くと、もどかしく舟を繋ぎ、竿も仕掛けもほったらかして瑛明は駆け出した。
呼吸が苦しく、胸が痛いのは、全力で走っているせいではない。言いようのない不安が、何度転びそうになっても止まることなく、瑛明の足を急がせた。
息を切らせて家の扉を開けた時、母は横になっていた。
――よかった、寝てる……。
安堵の息を漏らしたら、膝から崩れ落ちそうになった。
扉に縋ることで、瑛明はどうにか態勢を維持した。眠る母に背を向け、できるだけ静かに呼吸を継ぎながら、自らに言い聞かせる。とりあえず水でも飲んで落ち着こう。随分濡れたから着替えて。それから……。
「瑛明!」
思わず身体が跳ねた。
振り返れば、いつしか母が牀台から立ち上がり、こちらを見ていた。だけでなく、ここ最近の体調では信じられないくらいに素早く、こちらへと寄ってきた。めったに見ることのない驚愕の眼差しで。
「あなた、その香りは一体どこで」
「え? 何か匂う?」
怖いくらいに真剣な眼差しで見上げられ、気圧された瑛明が思わず後ずさったら、追いかけるように白い手が伸びてきた。
「これは?」
母の細い指が瑛明の肩からさらったのは、桃の花片。
「あ、それ? 今日川に漁に行ったら、うっかり寝込んだうちに桃林に迷い込んじゃって。――こう見ると、随分花の色が濃いよね」
動揺を押し隠し、陽気な声を上げる瑛明の目の前で、母が突然落涙した。瑛明は驚愕し、
「どうしたの母さん、具合が悪いの?」
だが母は「そうではない」とばかりに何度も首を振った。
やがて濡れた目で息子を見上げ、新たな涙を溢れさせながら唇を震わせ、
「やっと……やっと私たちは帰ることができるんですよ、瑛明」