「仕掛」
バンっと大きな音を上げて開いた扉に、依軒の丸っこい背中が、思いっきり跳ねた。
キッと振り返った彼女が、「なんですか、はしたない!」と声を上げるのにも目をくれず、瑛明はまっすぐ書机に向かう。
座るなり、傍らの硯に水を落とした。そうして墨を磨りながら、
「中相って、いつ戻るの?」背後に立つ依軒を振り返ることなく、訊いた。
「さあ……。視察のお役目次第ではないでしょうか? 長くても一月くらいかと思いますが」
――発ってから十日は経ってる。急がないと。
「地方視察って、年に何回くらい行くの?」
「そうですねえ、一、二回というところでしょうか?」
――まあ、本当に、地方に行くこともあるんだろう。むしろないとマズい。
「だいたいこの時期?」
「この時期はそうですね、新年行事が明けて、城内が少し落ち着く頃合ですから」
――ちょうど、桃の時期だ。母さんが桃花源を出た時と、俺たちがここに来たのと同じ。
「何故、そんなことをお尋ねに?」背後からの声に、不審の色が滲む。
「え? どんな感じなんだろうって思ったから訊いただけだけど、そんなに変な質問?」
瑛明は振り向かず、さらりと答えながら筆をとり、墨を含ませる。量も磨りも十分とは言い難いが、判別できる文字が書ければ、それでいい。
瑛明はさらさらと筆を走らせたあと、一度それを置き、左傍にある竹巻を広げる。
ざっと目を流してから再び筆をとり、紙面に何事かを書き加えた。
それを手に、瑛明は勢いよく立ち上がると、
「これ」
振り返り、墨の乾かない右手の紙を、背後に控えていた依軒に突き出した。
「中相居なくても、本は持ってきてもらえるんだよね? じゃあ、この五冊」
勢いにたじろいだように、依軒はおずおずと紙面を手に取り、しばし眺めていたが、
「…四、五冊……あら? 最後の一冊は、棚の場所を書き忘れていますわ」
「目録の文字が滲んでて、読めないんだよ。でも竹庵のどこかには必ずあるから、くまなく探してって」
「そんな無茶な。この本は、中相様がお戻りになってからに――」
依軒が言い終わるのを待たずに、瑛明は声を上げる。
「それは陛下が読みたいとおっしゃってるんだ。陛下に、『中相が戻るまでお待ちください』って、俺に言えって?」
「……」
依軒は上目づかいで瑛明を見据えたまま、口元を固く引き結んでいる。
そのじっとりとした目を、瑛明は顎を上げて見下ろしたまま、微動だにしなかった。
先に目を外したのは、依軒だ。
はあっと、これみよがしな溜め息をつくと、再び紙面に目を落とし、
「この本、なんとお読みするんですか?」
瑛明はひそかに息を吐き、口を開いた。「『とうかげんき』」




