表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
糸遊~きみにつながるひかり~  作者: 天水しあ
第八章『足音』
87/143

「胸騒」

 翌日。


 目が覚めてから、どことなく気が重い。

 「はあ……」思わずため息をついてしまい、「瑛明さま。いくら冴えない天気で気鬱になるとはいえ、何度目ですか」と依軒にたしなめられた。


 「おお寒い」と言いながら火鉢に寄る丸みある背に、「それ、何度目?」とやり返すことは、やめておく。


 そう。

 確かに朝から日差しは雲の中で、薄ら暗さと寒さで、昼を過ぎた今になっても、なんとなくどんよりしている。

 しかしそれ以上に――瑛明の心を重くしているのは、昨日の自身のとった行為だった。


 ()()を渡したのは――いくらなんでも、よろしくなかったのでは?


 「あれ」とは『桃花源記』。瑛明が外界から唯一持ち込んだ私物だ。

 漁師が見出したこの地は理想郷として描かれ、多くの人がこの地を探した。この物語が書かれたのは相当前のはずだが、桃花源を探しに出たまま行方知れず――真偽は別として、そういう人の話を、瑛明は外界で何度か聞いたことがある。

 ワケありの失踪理由に使われてる可能性も大いにあるが、それだけ桃花源の地は、誰もの心にある理想郷だということだ。


 そんな桃花源の地の住人が、外界の絵物語をどう見るのか――自分だったら、理想の地と余りにかけ離れた現実に、苦い思いを抱きそうだ――そう思ったから、誰にも見せない、存在さえ言わないでおこうと決めて、中相にさえ見せたことがなかったのに。

 どうしたら少しでも陛下の御心を慰められるか――気づいたら()()を璃音に手渡していた。だけどやっぱり、あの内容は良くなかった気がする。

 ましてこの、陰謀が渦巻いている真っただ中で。


 そこへ振鈴の音。渡廊から訪問者が鳴らすものだ。

 「はいはい」言いながら依軒が居室を出ていった。

 足音、扉の開く音、話し声――しかし瑛明は、眉間に皺を刻みながら、虚空を睨みつけていた。


 「ちょっと待て」そう、呟いて。


「瑛明さま、陛下からご信書です」

 差し出されたそれを、瑛明はひったくるように受け取ると、

「読んでくる」

 そう言って、信書を手に寝室へ向かった。


「そんな怖い顔をなさらなくても、別に覗いたりは……」依軒が後ろで抗議めいた声を上げた。

 いつもはその場で読むのだから、当然だろう。だけど瑛明は、何ら取り繕うことなく足早に寝室へと入った。

 扉に背を向け、牀台ベッド脇に立ったまま、誤って破ったりしないよう気をつけながらも、急ぎ書を紐解く。

 もどかしく開き、忙しく目を動かして――ある一点で、視線が止まった。

 瑛明は書を固く握りしめ、書面を凝視したまま、茫然と呟いていた。


「どういう――ことだ」


『おまえの、大切な物語をありがとう。聞けば、この地では私に初めて見せてくれるのだとか。おまえの心遣いが、とても嬉しい。興味深く拝見させてもらった』

 そんな文言で信書は始まっていた。

 続けて、ある日の主従のやりとりが紹介されていた。


         ◆


「なあ志按、桃花源に迷い込んだ漁師は、あのあとどうなったんだと思う?」

「そうですね……。きっと大法螺吹きと、周囲から奇異の目を向けられたことでしょう」

「じゃあ、漁師の言葉を信じて、ここを探す者はなかったんだろうか」

「そんなことはないでしょう。理想を追い求める者は、いつどの場所にもいるものです。きっとこの地を目指し、何人もの高尚の士が、津を問うたことでしょう」


          ◆


『子供心に、何て美しい表現をするんだろうと感動したのを覚えている。そして今、この物語を読み、まさに志按の言うとおりだった。志按の思慮深さを、改めて思い知った』


「いや、それは違う……」瑛明は呟いていた。


【南陽の劉子驥は高尚の士なり。之を聞き、欣然として往かんことを規る。

未だ果たさず。尋いで病みて終はる。

後遂に津を問ふ者無し】


 ――この文章を、知ってこその言葉ではないのか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ