「胸騒」
翌日。
目が覚めてから、どことなく気が重い。
「はあ……」思わずため息をついてしまい、「瑛明さま。いくら冴えない天気で気鬱になるとはいえ、何度目ですか」と依軒にたしなめられた。
「おお寒い」と言いながら火鉢に寄る丸みある背に、「それ、何度目?」とやり返すことは、やめておく。
そう。
確かに朝から日差しは雲の中で、薄ら暗さと寒さで、昼を過ぎた今になっても、なんとなくどんよりしている。
しかしそれ以上に――瑛明の心を重くしているのは、昨日の自身のとった行為だった。
あれを渡したのは――いくらなんでも、よろしくなかったのでは?
「あれ」とは『桃花源記』。瑛明が外界から唯一持ち込んだ私物だ。
漁師が見出したこの地は理想郷として描かれ、多くの人がこの地を探した。この物語が書かれたのは相当前のはずだが、桃花源を探しに出たまま行方知れず――真偽は別として、そういう人の話を、瑛明は外界で何度か聞いたことがある。
ワケありの失踪理由に使われてる可能性も大いにあるが、それだけ桃花源の地は、誰もの心にある理想郷だということだ。
そんな桃花源の地の住人が、外界の絵物語をどう見るのか――自分だったら、理想の地と余りにかけ離れた現実に、苦い思いを抱きそうだ――そう思ったから、誰にも見せない、存在さえ言わないでおこうと決めて、中相にさえ見せたことがなかったのに。
どうしたら少しでも陛下の御心を慰められるか――気づいたらあれを璃音に手渡していた。だけどやっぱり、あの内容は良くなかった気がする。
ましてこの、陰謀が渦巻いている真っただ中で。
そこへ振鈴の音。渡廊から訪問者が鳴らすものだ。
「はいはい」言いながら依軒が居室を出ていった。
足音、扉の開く音、話し声――しかし瑛明は、眉間に皺を刻みながら、虚空を睨みつけていた。
「ちょっと待て」そう、呟いて。
「瑛明さま、陛下からご信書です」
差し出されたそれを、瑛明はひったくるように受け取ると、
「読んでくる」
そう言って、信書を手に寝室へ向かった。
「そんな怖い顔をなさらなくても、別に覗いたりは……」依軒が後ろで抗議めいた声を上げた。
いつもはその場で読むのだから、当然だろう。だけど瑛明は、何ら取り繕うことなく足早に寝室へと入った。
扉に背を向け、牀台脇に立ったまま、誤って破ったりしないよう気をつけながらも、急ぎ書を紐解く。
もどかしく開き、忙しく目を動かして――ある一点で、視線が止まった。
瑛明は書を固く握りしめ、書面を凝視したまま、茫然と呟いていた。
「どういう――ことだ」
『おまえの、大切な物語をありがとう。聞けば、この地では私に初めて見せてくれるのだとか。おまえの心遣いが、とても嬉しい。興味深く拝見させてもらった』
そんな文言で信書は始まっていた。
続けて、ある日の主従のやりとりが紹介されていた。
◆
「なあ志按、桃花源に迷い込んだ漁師は、あのあとどうなったんだと思う?」
「そうですね……。きっと大法螺吹きと、周囲から奇異の目を向けられたことでしょう」
「じゃあ、漁師の言葉を信じて、ここを探す者はなかったんだろうか」
「そんなことはないでしょう。理想を追い求める者は、いつどの場所にもいるものです。きっとこの地を目指し、何人もの高尚の士が、津を問うたことでしょう」
◆
『子供心に、何て美しい表現をするんだろうと感動したのを覚えている。そして今、この物語を読み、まさに志按の言うとおりだった。志按の思慮深さを、改めて思い知った』
「いや、それは違う……」瑛明は呟いていた。
【南陽の劉子驥は高尚の士なり。之を聞き、欣然として往かんことを規る。
未だ果たさず。尋いで病みて終はる。
後遂に津を問ふ者無し】
――この文章を、知ってこその言葉ではないのか。




