「忠心」
夕方、訪問者があった。呼び鈴で渡廊に出た依軒が戻ってきて言うには、
「間もなく璃音殿がいらっしゃるそうです」
「璃音が?」
「ええ」言いながら依軒が、部屋に点在する火鉢を消しにかかる。瑛明は読んでいた本を閉じて立ち上がり、片隅、すぐに着込めるように準備した諸々に袖を通していく。
「そこまでしなくてもと思いますけどね」いつもの依軒の言葉。
だけど、以前は聞こえよがしだったのに、随分と声が小さくなった。
それはつまり――気にし過ぎだと、言えなくなってきたということなんだろう。
ほどなく璃音が現れ、差し入れだと菓子やら果物やらを持ってきた。
依軒はそれを受け取ると、それは丁寧に謝辞を述べた後、「間もなく夕食ですから、明日いただきましょう。この部屋は温かいですから、涼しい部屋において参ります」などと言いながら、そそくさと退出していった。
日は落ちた。
火を落とした室内は、あっという間に冷えてしまっている。
依軒の後ろ姿が扉向こうに消えるなり、瑛明は手にした茶を卓上に置き、正面に立つ璃音を見上げ、声を潜めて訊いた。
「陛下は、どうされている?」
父王の喪が明けたことで、新王としての勤めが本格的に始まり、色々な官吏が入れ替わり立ち替わりにやってきて、覚えることが多いと聞いた。朝議の場では左相派と右相派(実質は中相だろうけど)が喧々諤々と議論するのを聞き、諫め、采配を下すと。
まだ政務に不慣れな中、親世代の、あんなに濃い連中を相手にしなければいけないんだから、それは大変なことだろう。
しかも今は、それだけじゃない。
「政務はもちろん、それ以外も――大変お忙しくしていらっしゃいます。少し、鬱々としたご様子が見られるようになりました」
「そう……」
政務に追われながら、ただお一人で、会う者全てに疑いの目を向けているのだろうか。そんな日々に、息をつけるときはあるのか。
夜はきちんとお休みになれているのだろうか?
食事は? 何より――御身を狙う者が、実はすぐ傍にいたりはしないのだろうか。
何も分からない。わずかでも言葉を交わせたら、せめて一目だけでも、お目にかかれたら――。
「陛下も、瑛明さまにお会いしたいとおっしゃっておられます」
まるで心を見透かしたかのように、璃音が言った。
だけどその言葉が、やはり会えないのだという事実を如実に語っている。
「私に、何かできることはないのだろうか」
お役に――そう思って、ここに居るはず。
なのに。こんなことを口にすることしかできないなんて。だが。
「陛下をお慰めいただければ」
璃音にそう返され、瑛明は驚かずにはいられなかった。
これまで、いくつかの場面で「自分に何かできることは?」と璃音に訊いたが、そのたび「何もございません」とそっけなく返されてばかりだった。
まして返された言葉が、問題の解決に繋がるものではない――ただの気休みでしかない。そんなことを、璃音が言うなんて。
そんな瑛明の心の声を聞いたかのように、
「陛下は、瑛明さまからの信書をとても楽しみにしておられます。陛下はお忙しく、なかなか返事をお出しできませんが、それでもどうぞ、瑛明さまからお送りください。とりとめない日常ごとで構いません。陛下のお心を少しでもお慰めするようなお話を、どうか」
そういえば――俺が桃源郷に来たとき、陛下は連日のように信書を下さった。それが本当に本当に楽しみで嬉しくて、何度開き直したか分からない。宮中のできごと、子供の頃の話、面白かった本の話――。
「ちょっと待って」
言うなり瑛明は立ち上がり、足早に寝室に向かった。
牀台脇の小机の抽斗の奥、重ねた色とりどりの布の下から白い布を引き抜くと、瑛明は急いで寝室を出た。
「これを陛下に」
勢いに押されるように受け取ったものの、薄汚れた白布をしげしげと眺めた璃音が、困惑気味に「これは?」と問うてきた。
瑛明は言う。
「これは、誰にも見せたことないけれど、私が一番好きな物語です――そう、陛下に」




