「所以」
ふいに右肩に置かれた手に力が籠められた。
右肩に重みがかかり、左肩が軽くなる。上体を起こした王は、天を仰ぎ大きく息を吐くと、
「下がりたいなら、私はもう止めない」
なんてことはないという口調で、いつもの柔和な笑みを見せる。
だが、その見慣れた笑みは、瑛明の心を一気にざわつかせた。
なんだそれ。
そうやって一人で、呑み込んでしまうのか――今まで、そうやってきたように。
「じき璃音が来るから」言いながら肩から離れようとする王の手を、瑛明は咄嗟に掴んでいた。
だけでなく、自分の方へと引き寄せた。
「私は」
驚いたように見開かれた目を、瑛明は瞬きすらせずまっすぐに見上げ、
「外界に在ったとき、この身の寄る辺なさと不甲斐なさに、何度、命を絶とうと思ったかしれません。ですが情けないことに、自分で自分の身を決することが、どうしてもできなかった。だからずっと思っていました。『誰かが、手をかけてはくれないか』と」
さっと王の顔が変じた。だが瑛明は続ける。
「そして今日、まさにその機を得たというのに、私がやったことと言えば、必死に抵抗して、こんな姿になってまで、無様に逃げ回った。ただ『死にたくない』その一念で」
瑛明は、すっかり表情の消えた眼前に人に小さく微笑んだ。
「あなたのせいです」
どちらが先だったのか分からない。
お互いがおずおずと、相手の背に手をまわし、ゆっくりとその手に力を込める。
二人はただ無言で、お互いを抱きしめ合った。
随分時が経ったようにも、ほんの僅かな時間だったようにも思えるが、やがて階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
黒櫃から姿を現したのは璃音ともう一人――よく見たら、いつもの威儀正しい姿ではない、黒衣を着た璃律だった。璃音は、瑛明の姿を見るなり、細い目をわずかに見開いた。
「瑛明さま、お怪我は?」
そう寄ってきた璃音は、僅かに青ざめているようにも見えた。足音と言い、璃音でも動揺することがあるんだなとぼんやりと思った。
瑛明の傍らに立つ王には、璃律が寄る。
「陛下」
「私は大事無い。瑛明が怪我をしているから手当を。でもその前に――」
王が投げた目線の先を、姉弟が追う。
視線を遮る衝立の向こうを覗きに、璃律が動いた。目の前を通り過ぎるとき、璃律はいつもどおりに冷ややかな一瞥を投げて来た。居心地の悪さはいつも通りだが、そこに仄かな憐憫も透けて見えて、自分の不甲斐なさを改めて思い知らされた気がして、瑛明は唇を噛んだ。
勢いよく歩いて行った璃律の足が、衝立を出たところで止まる。それを待っていたかのように、
「この有様を――どう書く? 太史」
王はそう言って、妖しく笑った。
振り返った璃律は、険しい顔でじっと王を見つめていたが、固く引き結んだ唇を解き、
「俺はいま、この格好でお分かりのように職務中ではありません。そしてまた、一国の王が、こんなところにいるはずもない。ここにいるのは、ただの乳兄弟二人。俺は何をしたらいいですか? ご命令を――兄上」
「そうか」王はわずかに目を細めた。だがにわかに表情を改め、「始末を」
表情と同じく冷ややかな声で、王はそう言った。
僅かに表情を強張らせた璃律だったが、「分かりました」そう答えて、一つ頷いた。
璃音が床に転がっている黒櫃の蓋を手に、脇を通り過ぎて行く。璃律が衝立をずらしたずらしたことで、床に赤黒く蟠る塊が再び入り、知らず身体が強張った。
姉弟は揃って死体に寄ると、裏返した黒櫃の蓋にそれを乗せた。弟を先頭にしてそれを吊り上げ、足早に目の前を通り過ぎた。黒櫃に足を踏み入れたところで弟が持ち手を変え、後ろ向きに階段を下りていく。続いて姉が黒櫃の中に消え、燈籠を捧げ持った王が身を屈め、黒櫃の中に明かりを送る。
先に戻ったのは璃音だった。
「直に兄も参りますゆえ」
「うん」
そんな主従のやり取りをぼんやりと眺めていたら、王がつかつかと寄ってきて、「大丈夫か?」再び訊いてきた。
「はい」瑛明はしっかりと頷き、言葉を裏付けるように立ち上がる。
流れた王の視線を追って部屋の中央を見ると、璃律が床を拭き、璃音が部屋全ての扉と窓を開け終え、前室へと移動するところだった。そこでも、扉が開けられる音がする。最後に、ぎいっと慎重に開けられた重い扉は、渡廊に続く扉だったのだろう。すうっと冷やかな風が流れ込んできた。
そして忍び入る甘い香り――璃音が香を焚いたようだ。
璃律が立ち上がる。
床も綺麗に拭き上げられ、瑛明が蹴倒した卓子も割れて散乱した茶碗も、全て元通りになっている。つい先刻、依軒を下がらせて一人になったときと同じ風景だった。
だが。
ふと、目を横に流した。すると図ったかのように、こちらに目が流れてきた。
この部屋で、こうやって何度も向かい合ってきたのに、こんなにも、何かを喉に詰め込まれたみたいに、息が苦しいことがあっただろうか。




