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糸遊~きみにつながるひかり~  作者: 天水しあ
第八章『足音』
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「因果」

 「ぐえっ」頭上から、潰れた声。


 襟首を掴む指が一瞬強張り、息が詰まった。

 同時にびしゃっと生温いものが、頬に飛んできた。

 二つの刺激に瑛明の身体が跳ねた時、襟が男の手からするりと外れた。


 何――? 瑛明は、僅かに動く首を傾けて、必死に息をつきながら、背後を振り仰いだ。

 その目を、怪しい閃きが掠める。


 「え……」声が漏れた。


 何かが――変だ、そう思う間もなく、目の先がぐらりと揺れた。僅かな迷いもなく、それは、一気に瑛明に覆いかぶさってくる。


 「ちょっ――!」驚きの余り呑んだ息に、濃密な臭気が流れ込んで来た。肩口に顔を埋める男の首に、白木の柄が突き立っているのが見えた。


 筆? いやこれは、俺の……。

 目だけを動かして、男の横顔を見た。


 生きていない。


 悟ったとき、瑛明は自分でも訳が分からない奇声を上げ、投げつけるように「それ」を横に跳ねのけていた。

 仰向けになり、僅かに身を起こした瑛明の目の先には、蓋の転がった黒櫃。そして。


「陛下……」


 その姿を目にし、声にしたら、詰まっていた気道が楽になって、身体の力が抜けた。起こしかけていた上体が、ぐらりと揺れる。


 「大丈夫か?」駆け寄ってきた王が滑らかに膝をつき、背を支えた。覗き込んでくる心配げな眼差しに笑いかけようとしたが、頬が硬直して動かず、それを隠すように頷く態で俯き、取り繕うように「大丈夫です」それだけをやっと声にした。

 そうして目の端をかすめる何かに、ぎこちなく目線を流す。


 そこには、ただうつ伏せに、無様に手足を投げだしている一人の男がいた。こちらを向く濁った白目を見た時、瑛明の耳奥にじわりと蘇ったのは――中相の声だった。


『殺すものは殺される』


 気づいたら、男に飛びかかっていた。首に突き刺さる柄に手をかけたとき、

「抜くな!」

 鋭い声に、身体が固まる。振り返ると、声の主は、まっすぐにこちらを見つめ、

「もう遅い。これ以上、場を汚すな。それに――秘密路を知られたのだ。どのみち生かしてはおけない」

 静かな声だった。


「……そう、ですね」

 知らずそんな声が漏れたとき、口中に血の味がした気がした。

「とりあえず、こちらへ」

 その言葉に、柄から手を放し、瑛明は立ち上がる。

 その傍らにはいつしか王が立っていた。そっと添えられた手に背を押されるようにして誘われたのは、衝立の向こう、鏡台の前。王は瑛明を鏡台の椅子に座らせると、「すぐ戻る」そう言いおいて、黒櫃の中に消えた。


 目をつむり、細く長く、息を吐く。

 そうしたら、下から笛声が響いてきた。長音が一回、間を置いて、中音が三回。誰か――恐らくあの姉弟を呼んでいるんだろう。


 膝に置いた手を握ったら痛みが走った。見れば、掌に赤い筋が数本走っている。

 いつ切ったんだろう。そんなことを思いながら掌を見つめていたが、それが小刻みに震えていることに瑛明は気づいた。


 なんだこのザマは。

 死体を見たのなんて、初めてじゃない。男に迫られたのもだ。


 たとえ嬲り殺される目に遭おうとも、ずっとお傍にいる。そう陛下に申し上げ、中相に逆らってまで此処に居る。なのに何だこの有様は。俺は陛下を護るどころか、むしろ……。


 階段を上がってくる足音が聞こえる。こんな状況でなければ、聞き逃しそうなひそやかな音。そう、安寧の世の証として、品格を損なうことなく、ただ「居る」ことだけを自らに課し、日々を送っている方なのだ。

 虫も殺せない優しい面立ちをして、きっと人を打ったことだってないんだろう。なのに。


 黒櫃から姿を現したその人は、柔らかい笑顔を見せた。「ひどい有様だな」


 そう言われ、瑛明は慌てて傍らの鏡を覗き込む。薄い上衣には、不釣り合いな赤黒い染みが点々としていて、肩口は解けていた。下ろした髪も乱れていて、引きちぎられた髪が、所々で跳ねている。

 乱れた髪の下から覗く蒼褪めた顔、やけに口元が赤いと思ったら、口の端が切れていた。

 足下に目を落とせば、裙子スカートの裾は破れていて、所々が濡れたり、黒ずんだりしている。本当に、ひどい有様だった。


 この姿を見られてたのか、そう思ったら、もう笑うしかなかった。「そうですね」


「痛むか?」

 目の前に立った王が、膝上に投げ出していた瑛明の右手を取った。傷口を避けて、そっと掌をなぞる指先が冷たい。

「そうですね、少しだけ」

 「こっちは?」ひんやりとした指先が、口の端に触れる。瑛明は掌に落としていた目をあげ、声の主に小さく笑いかけた。「少しだけ」


 見上げていた目が僅かに細められた。

 その目がにわかに改まり、ゆっくりと近づいてくる。瑛明が目を閉じると、指先が離れると同時、口の端に柔らかい感触が触れた。


 「こんなことになるなら」押し殺した声。


 左肩に重みを感じ、瑛明が目を開けると、自分の肩口に額を当てている王の横顔が見えた。


「志按がおまえを下がらせたいと言ったとき、許せばよかったな」

 

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