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糸遊~きみにつながるひかり~  作者: 天水しあ
第八章『足音』
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「無力」

「誰」


 声にはしたものの、答えが返るはずがないことは分かった。

 黒櫃の蓋を開けて中を覗き込んだ時、双眸には見慣れた柔らかい光ではなく、不穏に冷えた光があったから。


 ただならぬ気配に、突き落として蓋をするという選択肢はないと悟った瑛明は、即座に後ずさった――直後に黒櫃から、黒い影が飛び出してきた。

 目元だけを露わにした黒装束。

 瑛明より一回りは大きいその体つきも、やけに爛々と光る眼つきにも、まるで覚えがない。だが、瑛明を害そうとしている気配は、相手の全身から明瞭に立ち上っている。

 あからさまな邪念に、知らず身が強張った。

 

 なんで。

 どうやって。

 何のために。


 相手を見据えながらも、様々な疑問がわき上がってくる。胸がうるさい。息が苦しい。


 ――落ち着け。


 自らに言い聞かせ、瑛明は密かに呼吸を整える。いつしか浅く、早くなっていた呼吸を意識的にゆっくり、深く。


 次第に鎮まっていく自分に、瑛明は再び問いかけた。

 ――どうする。


 上背も幅も俺よりある。しかも弛んでいない。

 飛び出してきた動きを見ても、そこそこ鍛錬は積んだ身だ。そんな相手を、長い宮中生活で鈍り切ったこの身体で倒すのは――無理だ。

 とはいえ大声を上げて人を呼んでは秘密路が露見する。そもそも、そんな声を上げる暇をもらえるかどうか。


 ――だったら。


 瑛明は相手を見据えながら、じりじりと後退する。等間隔を保つように、相手も歩を進めてきた。

 どん、と腰に軽い違和感。ついさっきまで座っていた卓にあたったのだ。

 僅かに態勢が崩れた――「あ」支えるようにとっさに卓上に右手をついた――と同時、瑛明は卓上の茶碗を掴み、相手に投げつける。間髪入れずに態勢を変え、ひるんだ相手目がけて、思いっきり椅子を蹴り上げた。

 陶器の割れる音が派手に鳴る中、瑛明は飛びつくように扉に駆け寄り、さっきかけたばかりの鍵を開けた。


 ――「三十六計逃げるに如かず」だ!


 だが。

「開かない? なんで!」

 押しても引いても扉は開かない。


 まさか依軒。俺が逃げ出すと思って、こっそり戻って鍵をかけたのか! 

 なんだってこんな時に――顔面から血の気が引いていく。


 気配に振り返ったときには、もう遅かった。

 しまった――とっさに横に身を引いたが、なびいた髪を捉えられる。

 「放せっ!」瑛明の声に、答えだとばかりに、男は思いっきり髪を引っ張ってきた。

「痛い痛い――抜けるって!」

 瑛明は声を上げながら身を捩り、男に一瞬背を向けたところで胸元の匕首を抜く。振り向きざま一歩踏み込み、両手に握った匕首を、男の右手に躊躇なく突き立てた。

 くぐもった呻き声を上げる男の指に絡まる髪束が抜けるのも構わず、瑛明は部屋の反対へと駆け出した。

 とりあえず寝室へ。何とか凌いでいれば男も諦めるだろう。さっきの騒ぎで、そのうち依軒が……。


 「うわっ」何故かそんな声が自分の口からあがり、背中に強い衝撃、息が止まった。目の前には天井。頭がくらくらする。

 ついさっき、自分が男に投げつけた茶で濡れる床で足を滑らせたのだ――混乱しながらも、そこまでは分かった。だが、自分の浅薄な行動を悔いる暇は、瑛明には与えられなかった。男が飛びかかってきたからだ。


 反射的に身を捩ったが、男の懐から逃げることはできなかった。背にのしかかった重みに、呻き声が上がる。一瞬、息が止まった。

 肩越しに見上げた男の目――どこか、この事態を面白がってる余裕をみせていたそれが、今では明らかに血走っている。怒りに震える手負いの虎、そして、捕食者の目だ。

 うつ伏せになりかけだった瑛明の両足はがっちりと組み敷かれ、上体は胸元に抱え込んだ両手ごと、男にのしかかられ、動けない。

 どうにかと身体に力を込めたが、僅かばかりも態勢を変えることはできなかった。


「放せって!」

 押さえつけられ息さえ苦しい――しかも濃い血臭が容赦なく流れ込んでくるから、吐き気さえする。無駄だと分かっていながら、息も絶え絶えな声を上げるしかなかった。どうにか動かせる目を動かしたら、男の冷えた目に突き当たる。ふっと口角を上げられた。


 ――喰われる。


 背中に、足に、じっとりとした熱気を感じる。男の荒い呼吸が、露わになった首や肩にかかり、血の気が引いていく。腰に固いものを押し付けられたとき、瑛明はかつてない、絶望的な恐怖に支配され、身体が強張った。


 殺される。

 いや、暴かれる。


 嫌だ、こんな形で俺の何もかもが暴かれるなんて。こんな形で――!

 ありったけの力で暴れようとしたが、察したように男が腰に膝を押し付けてきて、難なく封じられる。

後ろ襟に手がかけられた。歯を食いしばって、目を固く閉じる。


 ――陛下!


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