「呪縛」
翌日。
瑛明は舟上にいた。
天上の日を浴び、川面は煌めいている。
川辺に茂る緑樹の遙か奥には、切り立つ岩山が林立し、人気はまるでない。
古の聖人よろしく、釣り糸を川面に投げて釣果を待っている。
本命は今朝方仕込んでおいた、やはり竹で作った仕掛けだから、のんびりしたものだ。
瑛明は舟を木陰に入れ、笠を顔に載せて横になっていた。
聞こえるのは両岸に迫る葉のさやぎと、流れる水音。時折鳥や、猿の哀切ある声が響く。初春の空気は温かく、舟の揺れは心地いい。
昨日は城市に下りたから疲労が残っている。
だのに瑛明の目はさえていた。
きっと『あの名』を口にしてしまったからだ。
『しあん』さま――その名は、いつも僅かな希望とともに多大な苦しみを連れてくる。
『あなたは王家の血筋なのです』
ヨタ話だと思っているはずのに、どこかで信じてしまっている自分も、またいる。
それというのも母さんという存在のせいだ。
母さんの所作は、明らかにそこらの女とは違う。
立ち振る舞いは優雅で、言葉遣いには気品さえある。いや高慢と言ったほうがいいか? 読み書きもできて刺繍の腕は確かで神業にしかみえない。それを喜ぶ有金の奥さんがいたから、今までなんとかやってこれた。
だけど生活必需品ではない刺繍は、いつだって売れるわけじゃない。売れなければたちまち生活が困窮する。
そうすると母上はふらりと家を出て行く。
しばらくして煙草とか酒とか、吐き気がする男の臭いをつけて帰ってくる。そうして溜めた金で、俺に学問や武芸を習わせた。
『戸籍がないから科挙も受けられないのに、どうして母さんがそこまでする必要があるんだよ! 塾なんか行かないで、俺が働くから……』
『いけません。おまえをきちんと育てなければ、私はおまえのお父上に顔向けできません』
『ナンだよ父上って。どんなに偉くたって、母さんがそいつを立ててたって、結局俺たちに何もしてくれないじゃないか! どうせ今頃、俺たちのことは忘れて新しい家族と――』
ピシャリ。
俺の頬を張った母上の手と唇が、わなわなと震えていた。一瞬、何が起こったのか分からなくて、だけどたちまち頭に血が上ったとき、不穏な音が聞こえてきた。
見れば真っ青な顔をした母さんが、聞いたこともないような呼吸音を発していて、「ちょっと……」と声をかけようとしたら、いきなり倒れた。
ピクリともしない母さんが死んでしまったと思った俺は、思いっきり取り乱した。俺の狂騒を聞きつけた近所の婆さんが、見かねて母上を介抱してくれたようだが、そこのところは全然覚えていない。
もう何年も前のことなのに、思い出すたびにあの、胸を引きちぎられるような苦しみが体を突き上げてくる。
そのとき悟った。
俺の父親である夫の存在こそが、母さんの生きる縁なのだと。
だからもう、絶対に『しあん』様のことを悪く言ってはいけないんだと。
だけどそう心に決めてから、いったいどれだけの時間、同じ生活を繰り返しているのか。
男たちが母さんに寄り付いて、女たちが陰口を叩いて、好悪入り混じったあまたの目が母さんに向くようになって――そのうち「あの女はいつまでも老いない。妖怪では」と噂がたってその土地を追われる。その繰り返し。
さて、趙のオヤジはいつ気づくか……。
――強い違和感がした。
笠をどけると、辺りは深い霧に包まれていた。




