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糸遊~きみにつながるひかり~  作者: 天水しあ
第一章『外界』
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「呪縛」

 翌日。


 瑛明は舟上にいた。


 天上の日を浴び、川面は煌めいている。

 川辺に茂る緑樹の遙か奥には、切り立つ岩山が林立し、人気はまるでない。


 古の聖人よろしく、釣り糸を川面に投げて釣果を待っている。

 本命は今朝方仕込んでおいた、やはり竹で作った仕掛けだから、のんびりしたものだ。


 瑛明は舟を木陰に入れ、笠を顔に載せて横になっていた。

 聞こえるのは両岸に迫る葉のさやぎと、流れる水音。時折鳥や、猿の哀切ある声が響く。初春の空気は温かく、舟の揺れは心地いい。


 昨日は城市に下りたから疲労が残っている。

 だのに瑛明の目はさえていた。


 きっと『あの名』を口にしてしまったからだ。

 『しあん』さま――その名は、いつも僅かな希望とともに多大な苦しみを連れてくる。

 『あなたは王家の血筋なのです』

 ヨタ話だと思っているはずのに、どこかで信じてしまっている自分も、またいる。


 それというのも母さんという存在のせいだ。

 母さんの所作は、明らかにそこらの女とは違う。

 立ち振る舞いは優雅で、言葉遣いには気品さえある。いや高慢と言ったほうがいいか? 読み書きもできて刺繍の腕は確かで神業にしかみえない。それを喜ぶ有金(かねもち)の奥さんがいたから、今までなんとかやってこれた。

 だけど生活必需品ではない刺繍は、いつだって売れるわけじゃない。売れなければたちまち生活が困窮する。

 そうすると母上はふらりと家を出て行く。

 しばらくして煙草とか酒とか、吐き気がする男の臭いをつけて帰ってくる。そうして溜めた金で、俺に学問や武芸を習わせた。


『戸籍がないから科挙も受けられないのに、どうして母さんがそこまでする必要があるんだよ! 塾なんか行かないで、俺が働くから……』

『いけません。おまえをきちんと育てなければ、私はおまえのお父上に顔向けできません』

『ナンだよ父上って。どんなに偉くたって、母さんがそいつを立ててたって、結局俺たちに何もしてくれないじゃないか! どうせ今頃、俺たちのことは忘れて新しい家族と――』

 ピシャリ。

 俺の頬を張った母上の手と唇が、わなわなと震えていた。一瞬、何が起こったのか分からなくて、だけどたちまち頭に血が上ったとき、不穏な音が聞こえてきた。

 見れば真っ青な顔をした母さんが、聞いたこともないような呼吸音を発していて、「ちょっと……」と声をかけようとしたら、いきなり倒れた。

 ピクリともしない母さんが死んでしまったと思った俺は、思いっきり取り乱した。俺の狂騒を聞きつけた近所の婆さんが、見かねて母上を介抱してくれたようだが、そこのところは全然覚えていない。


 もう何年も前のことなのに、思い出すたびにあの、胸を引きちぎられるような苦しみが体を突き上げてくる。


 そのとき悟った。

 俺の父親である夫の存在こそが、母さんの生きる縁なのだと。

 だからもう、絶対に『しあん』様のことを悪く言ってはいけないんだと。


 だけどそう心に決めてから、いったいどれだけの時間、同じ生活を繰り返しているのか。

 男たちが母さんに寄り付いて、女たちが陰口を叩いて、好悪入り混じったあまたの目が母さんに向くようになって――そのうち「あの女はいつまでも老いない。妖怪では」と噂がたってその土地を追われる。その繰り返し。

 さて、趙のオヤジはいつ気づくか……。


 ――強い違和感がした。


 笠をどけると、辺りは深い霧に包まれていた。

 

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