「不去」
瑛明は天を仰ぐ。
ゆっくり、大きく息を吐いた。胸に蟠る何もかもを吐き出すように。
瑛明は鏡台の傍らにおかれた銅製の燭台に手を伸ばす。鳥を模したそれの細い足を握り、刺された蝋燭に火鉢の火を移した。
「まったく、あの人は!」吐き捨てるように呟き、地下道に続く階段に足をかけた。
足元を照らしながら階段を下りると、最下段に先ほど手から零れた鍵が転がっていた。
瑛明はそれを拾い上げ、首に下げた小袋に入れる。
地下通路に出ると、遥か前方にほの揺れる光が見え隠れしている。瑛明は右手で裙子をたくしあげ、大股で、速足で進んだ。
次第に目指す光が近づく。そして手にした光の揺れ加減で、先を行く姿がぼうっと浮かんでは沈む。間には誰もいない。瑛明はいっそう足を速め、距離を詰めていく。
間もなく手が届く――というところで追っていた姿が、いきなり駆け出した――と思ったとたん、いきなり前につんのめった。
「危ない!」
瑛明がざっと足を踏み出して右手を伸ばしたが、態勢を崩した姿には届かない。
だがその姿は、足を地面に滑らせながらもどうにかこらえ、踏みとどまった。瑛明は安堵の息を漏らしながらその前に回り込む。
「すぐ戻りますと申し上げましたのに」
すると王はついっと横を向き、
「邪魔をしては、悪いと思って」
「邪魔って……」感情は声にも表れたらしく、王は明らかにムッとした顔をして、
「それに、言っていたじゃないか。『下がるだけ』だって。そんな見え透いた嘘を、何度も聞く必要はないだろう」
「ああ」瑛明は小さく声を上げた。そうして今度ははっきりと笑ってみせた。
「あれは彼女に言ったのです。陛下にではない」
「やっぱり嘘なのか!?」
裏返る声に、瑛明は一つ頷いてみせた。「そうですよ」
瑛明の答えに、王は目を伏せた。じっと足下を見つめ、動かない。
だが、突如顔を上げ、
「何故? 確かに、今は桃華宮内しか動けないし、身内扱いだから一室しか与えられない。志按のところにいるより、ずっと不自由なのは理解している。でも、志按にはたやすく会えるようにしているし、四六時中監視をつけるようなこともしていない。できる限り要望に沿うつもりもある。なのに」
どうして――呑み込まれた声は、確かに聞こえた。
瑛明は、細く長く、息を吐く。ひそやかに。
「決して不自由も不満もありません。むしろご多忙の中、いつも細やかな配慮をいただき、恐縮しているくらいです」
「では」息を詰めた王が、ゆっくりと背を向ける。砂礫を踏む音が、僅かに反響した。
「私が嫌なのか」
「それは違います!」
反射的に上げた声が洞内に響き渡った。瑛明は滑るように、王の前に回り込む。そうして、唇を噛んだ。
こんな顔――させたくなかったのに。
瑛明は、じっと俯く目線に合わせるように僅かに身を屈めると、
「陛下には本当によくしていただいて、心から感謝しています。ですが私は、それに何も返せないのです。今の私は、陛下の力になるどころか、盾になることさえできません。私は、陛下に生涯お仕えできるだけの人物になりたいのです。このままここにいても――」
俺は、世継ぎを産める身ではないから――その言葉は、喉で止まった。
もう嘘はつきたくない。
でも、これを言ってしまったら――全て終わってしまう。
瑛明は天を仰いだ。
どうしたらいいんだろう――突き上げる思いをこらえるように、奥歯を噛み締める。
――何の音だ。
洞内に反響する、小さな音。蠟燭の燃える音より、ずっと微かな。
辺りを見回し、その音がすぐ目の前で発せられていることに気づいた時、瑛明の右袖が、くっと掴まれた。
「――行かないで」
気のせいかと思うくらいのささやかな声を上げた人の肩は、震えていた。しゃくり上げる声が、次第にはっきりと洞内に染みていく。
いつもは穏やかで、凛々しくて、冷静に周囲を見ている。なのに、時に激情家で、こんなにも危うい。
何で俺は、この方から離れようとしたんだろう。
こんな人――置いていけるわけがない。
「行きません」
瑛明は、自分の袖を握りしめる細い指に、自らの左手を重ねる。
そしてその手を押し戴くように、跪いた。
「行きません、どこにも。あなたがお許しくださるならずっと、お傍におります」
たとえあなたが――許してくれなくても。




