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糸遊~きみにつながるひかり~  作者: 天水しあ
第七章『背反』
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「止水」

「陛下。何で……」


 たまたまここには一人でいたけど、そうじゃない確率の方がよっぽど高い。

 そんなこと分からないはずないのに。何だってこんな。


 瑛明は長櫃の前に立ち、茫然と見下ろした。突如跳ね上がった心音は、今なお激しい。

 だけどどこかで、「やっぱり」と納得する自分もいることを、瑛明は感じていた。


 「開けろ」低い声に潜む感情も、正しく理解した。


 瑛明は天を仰ぎ、瞑目して大きく息を吸った。ゆっくり吐き出して、おもむろに長櫃にしゃがみ込むと、「分かりました。ですが……」

 言い終えて瑛明が目を上げるのと、「今の音は!?」視線の先にある扉向こうがざわつき出したのは、ほぼ同時だった。


「しばしお待ちください」

 長櫃に声をかけてから、瑛明が前室に向かって立ち上がった直後に、「瑛明さま!」バンっと勢いよくその扉は開かれた。現れたのは、依軒である。「どうなさいました!?」

 血相を変え、体当たりする気かと危ぶむ勢いで歩み寄ってくる依軒に、思わず後ずさりたくなる足をどうにかこらえ、「えーっと……」瑛明はいかにもさりげなく視線を外しながら、


「ちょっと、気分が晴れないものだから――つい、蹴飛ばしてみたりして……」

 その言葉に、依軒は瑛明の背後にある長櫃にちらっと目を落とした。そして再び目を上げると、「まあなんて、はしたない!」

 まったく予想通りの返しで、瑛明はつい、乾いた笑い声をあげてしまった。


 しまったと思ったがもう遅い。


 依軒の緩んだ頬がたちまち赤く染まる。そして大きく息を吸った。うわ、マズイ。これは長い説教だ――瑛明が慌てて、何とか取り繕おうと頭を巡らし始めたそのとき、


「依軒殿。芳倫さまがお風邪を召され、お話し相手もいらっしゃらなくて気が塞いでいらしたのでしょう。いかがでしょうか? 瑛明さまをお慰めするために、院子で花を摘んでまいりませんか?」

 主従が揃って目を向けた先に立っていたのは、璃音である。


 なんて絶妙な間――瑛明は思わず感謝の目を向けるが、璃音は相変わらず感情の読めない目をちらっと向けてきただけで、すぐに依軒に目を移し「さあ依軒殿」念押しの一言。  

「ですが、瑛明さまをお一人で部屋にお残しするわけには」

「そう長い時間のことではございませんし、院子にも回廊にも見廻りがおりますから大丈夫ですよ。ですが念のため――瑛明さま、そちらの扉は鍵をお閉めください」

「分かった」


 瑛明は「さあさあ」と追い立てるように二人を前室に送り出し、逆戻りは許さないとばかりに急いで鍵をかける。そうして二人が前室から廊下に出ていったのを扉が閉まる音で確認すると、すぐさま身を返し、小走りに長櫃に駆け寄った。


 首にかけた鍵をもどかしく引き出しながら、「お待たせしてすみません、すぐに――」急ぎ鍵を開け、蓋を外し、底板の鍵を外した――とたんに、今まさに蹴破ろうとしたかのように、勢いよく底板が跳ね上げられた。

 闇奥から突如伸びてきた手が、瑛明の右手を掴む。その勢いのまま引っぱられ、緩んだ指から鍵が零れた。硬質の音を立てながら鍵は階段を跳ねていき、やがて一瞬のきらめきを放って、闇に消える。


 「どういうことだ?」聞いたことのないような、腹の底から響く声。


 手首を掴む指は、声が漏れてしまいそうなくらいに強く食い込んでいて、向けられる眼差しには、隠しようのない怒りが揺れている。その激情は思わず息を呑んでしまうほどで――だが反するように、絶え間なく波打っていた瑛明の心は、すうっと静まっていった。

 まるで鏡面のように静まった心の底から込み上げてきたのは、ただ一つ。


 もう――戻れない。


「陛下、とりあえず中へ」

 瑛明は右手首を硬く掴んでいる手に、空いた左手をそっと重ねた。ふと目を落とすと、置いた指の下、血の気のひいた手の甲に幾筋もの朱が走っているのが見える。

「陛下、この手は……」

 目を上げると、咄嗟に横を向いた頬が僅かながら黒い。「転ばれたんですね。どこか痛むところは」


「そんなことはどうでもいい!」声と同様、荒々しく伸ばした手を払われた。


「一時の里帰り? 初めての新年は家族で? そんな話に私が騙されるとでも思ったのか。だとしたらまた随分、みくびられたものだな。――おまえが志按を呼びつけたと聞き、おかしいとは思っていた。まさかそんなことを画策していたとは……」


 何でと思ったのは、一瞬。


 そうだ、璃音はあくまで陛下の侍女。気を利かせたふうで席を立ったからと言って、何もかも見逃しているわけではない。そういうことか。

 でも――このご様子、それ以上のことは聞いていないようだ。


「――何がおかしい?」

 投げつけられた低い声に、瑛明は自分が笑っていることを知った。目を伏せたまま、今度ははっきりと口元に笑みを刻み、


「自分の不明さが」


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