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糸遊~きみにつながるひかり~  作者: 天水しあ
第七章『背反』
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「思慮」

「難しい顔をしている」


 言われて目を上げると、中相が立ち上がっていた。

 そのまま歩み寄ってきて、瑛明の傍らに立つと、流れるように瑛明の右肩に自身の右手をのせる。


「少し痩せたな。きちんと食べているか?」

「はい。それはもう、しっかりと」


 胸が騒がしい。

 『家族』なんだからと思いながら、嬉しいような、気恥ずかしいような。

 だけどそれ以上に妖しく胸を騒がせるのは、全てを見透かされてしまうのではないかという――漠然とした不安。


「さぞかし心労の多い日々だったことだろう。本当に申し訳なかった。国学に通うまでの間は、ゆるりと過ごすといい。あとは私が万事うまく取り計らおう」


 そうか……。


 そうだな、中相がそう言うんだから――きっとそうだ。


 ずっと誰かが傍にいる日々は、平和だったけれど時々、息が詰まりそうだった。

 しばらくはあの離れや竹林で、誰の目を気にすることなくゆっくりと。

 それからは男子として堂々と。ずっと夢見ていたことだ。


 だけど――どうしてだろう、心が鎮まらないのは。


「おまえは考え過ぎる」

 いつの間にか中相が顔を寄せていた。そうして耳元に流し込まれた囁き――瑛明の身体が、一気に冷え込み、抗った。


 違う。


 俺は何も――考えていない。


                   ◆


 自室の居間。瑛明は本を手にはしていたが、少しも読んでいない。

 あれから――中相と何を話したのか覚えてない。ただ心の内を気取られてはならない、その一心で話し、笑い、頷いた。


「どうぞ」


 依軒が傍らにお茶を置く。機嫌がいいのは、中相から帰り際に言われたのだろう。年末には呼び返すと。

 崔家では宮中から来た重鎮扱いだったが、こちらでは娘くらいの璃音に格下扱いされての籠の鳥、面白くないだろうな。


 熱い茶を口にして、ほうっと息をつく。

「ありがとう、しばらく本を読んでるから依軒も休んでて」

「かしこまりました」

 いつもなら「そうですね、私がいたらお邪魔でしょうから」くらい言うところだが、中相効果は凄い。そういう俺も――。


 思えば、俺は桃花源(ここ)に来てから何にも考えてなかった。


 外界では、毎日めまぐるしく考えていた。

 日々の暮らしが危うい時はその日の宿を、食料を、どうやって金を稼ぎ出すか。とりあえずの生活が成り立っても、いつまで続けられるか、この後はどうするか、もっと稼ぐにはどうしたらいいか。目に入るあらゆるものは「あれで何かを作って売れないか」「もっと改良して高く売れないか」そういう目で見ていた。


 どうしたら落ち着いた生活ができるのか、どうしたら盗賊にならなくていいのか――答えがあるものもないものも、とにかく毎日、時に絶望感から喚きたくなりながらも、ひたすら考え続けてきた。


 なのに。


 夢物語だと思っていた桃源郷が現実にあって、これまでの生活には存在していなかった父親が現れた。その日暮らしで無戸籍の身が、突如良家の子女になって敬して遠ざけられる中で、いきなり母さんがいなくなった。そうして宮中に呼ばれて――。


 ここに来て九か月余り、驚きと、悲しみと、喜びと――とにかく毎日が目まぐるしかった。

 『そうしないと』幼い弟妹の命が危ういと。崔家存亡がかかっていると。そう追われるようにして、この「今」だ。


 だけど――それが何だっていうんだ? 

 それがあの方をだましていい理由になるとでも?


 卓上には茶碗が置かれている。琥珀色の液が、碗の半ばほどまで残っていた。

 外界にいた頃は、茶なんて滅多に口にできない高級品だった。この琥珀色を目にするたびに心が躍った。こんな美味い飲み物があるなんてと感激さえした。なのに今は。


 衣食住に困らなくなって、いっそう稼ぐにはどうしたらいいかを考えなくなった。

 盗賊にならないだろうことが分かって、今を嘆くことも未来を思い悩むこともなくなった。


 そうして俺は考えることを放棄したのだ。


『私たちは、この世でただ二人、同じ気持ちを持って生きていると、ずっとそう思い続けていた』


 『こうなる』かもしれないって、少し考えれば分かることだったのに――。


 ダンっ!


 突然、下から突き上げるような大きな音。

 いままさに卓上を叩こうと、振り上げた拳が行き場をなくした。


 あれ? 俺まだ叩いてない、よな?


 それでなくても一人きりの静かな室内、すぐには事態が呑み込めなかった。「何?」口ごもりながら瑛明は、本を手にしたまま立ち上がった。

 音は、部屋の角、衝立の向こうからだったと思う。そろそろと、そちらへ足を向ける。ちらりと浮かんだ考えは、「まさか」とすぐに打ち消した。だが。


「瑛明」


 衝立越しから聞こえたのは、いつもよりは低い、けれど耳慣れた声だった。

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