「戻れない」
「おまえから呼ばれるのは初めてのことだな。どうした」
桃華宮の中院を一望できる亭台で、蓮型の石卓を挟んで、瑛明は中相と対峙していた。いつものように早朝からの政務帰りである。
しかし「体調不良が続いていると聞き、心配で」という名目での急な来訪のため、いつものような昼餐の支度はない。それでも璃音は、淡々とした様子で他の侍女とともに火鉢を運び込み、茶の用意をしていく。瑛明はただ黙然と、璃音の手際いい仕事ぶりを目に映していた。そうして考えていた。
中相に言ってしまえば、もう引き返せなくなる。本当にいいのか――?
ここ数日、もうどれだけ繰り返したのか分からない自問自答をもう一度繰り返しているうち、「では、私はこれで」璃音が一礼を残し、亭台を下りて行った。
遠ざかる足音が聞こえなくなる。ああ、いよいよだ――瑛明は密かに、大きく息を吐く。そうして、意を決して顔を上げた。
「下がりたいのです、宮中から」
対面の中相は僅かに目を見開いたが、無言のまま瑛明を見つめることしばし。
「下がって、それでおまえはどうしたい?」
「……学校に、行きたい、です」
「ほお」中相は、ゆっくりと茶碗に手を伸ばした。しかし全く離れていかない視線に、続きを促されていると瑛明は解釈し、
「后になれない以上、俺がこの姿でここに居ても何もできません。それであれば本来の姿で果たすべき役割を果たしたい。でも俺は、ここのことを何も知りません。知っている人もいません。だから学校に行って、知識も人脈も広げて、使える人材になりたい。そして陛下のお役に立ちたい――父上のように」
中相は、今度はハッキリと眉を開いた。そうしてふっと笑い、「面白いことを言う」
そうしたたった今、院子の美しさを思い出したとばかりに顔を上げ、亭台の外に目を投げながら軽く息を吐き、
「まあ、頃合いか。間もなく新年、春が来ればおまえの喪も明ける。そうなってからでは話がややこしくなるからな」
瑛明はホッとして、だが僅かに驚いてもいた。
宮中に上がりたくないと言ったときには、縛り上げてでも放り込むくらいの勢いだったのに。いっさい理由も訊かれず、まして咎められもせず、あっさりと認められるなんて……。
「しかし」突如改まった声に、瑛明は中相に倣い院子に向けていた目を、正面に向けた。
顏前で両手を組み、僅かに視線を外している中相は、思案するように眉を寄せていたが、
「分かっているとは思うが――おまえが私の後を継いで中相になることは、できぬ」
なんだそんなこと――瑛明は笑ってしまう。
「位は何であろうと構いません。ただ陛下のお傍でお仕えできれば」
「それに」思案顔だった中相は僅かに言い澱んだが、その続きが何であるかは、瑛明には聞かずとも分かった。「おまえは、瑛明の名ではもう、桃花源にはいられない」
「そう、でしょうね」
生まれたときに見間違えがなければ。
間違いを正す間もなくここを連れ出されなければ。
帰ってくるとき、女装していなければ。
そんなことを思ったりもしたけれど、今となっては詮無いことだ。
物心ついたときからあり続けた自分を手放す――なんだか現実味がないし、ぼんやりとした不安もあるし、それしかないだろうと思っていたけれどやっぱり、どこか寂しくもあった。
だけど、その全てを上回ったのは安堵だった。
これでやっと、騙さずにいられる――。
依軒に挨拶をして帰る、という中相とは亭台で別れた。
「それは、陛下からか?」
去り際、中相がそう目を向けてきたのは、瑛明が纏っていた青の披風である。柔らかい日差しを受け、滑らかな光を放っていた。
「はい」
「よく似合っている。良いものを頂いたな」
院子へと下りていく中相の姿を見送り、その姿が見えなくなってから瑛明は顏を上げ、辺りに目を巡らせる。
院子を散歩して、芳倫とともに回廊を歩いて、居室の窓を開けて、もうすっかり見慣れた冬の風景だ。
なのにどうしてなのか――いつもより光り輝いてみえた。
亭台と同じ高さにある山茶の向こうには、桂花がある。すでに花はなく、代わりに緑の小さな実が葉群れに群生していた。そういや芳倫と一緒に、桂花摘みをしたな。そしてここで、三人で桂花茶を――そんなことを思い出し、口元が緩んでしまう。
そうか。瑛明はふと思った。
宮中から下がったら、もう芳倫には会えないんだな。




