「懸念」
耳をつんざく悲鳴と腹に来る怒号が、幾分遠くから聞こえる。そして。
「おい、おい!」――これはすぐ真下から。
ハッと目が開く。
ああ俺、一瞬、意識が飛んでた。
そうして地に伏している自分と、その下に抱えている姿に、事の顛末を理解した。
女性の悲鳴に振り返ったら、垣根に整然と立てかけられていたはずの竹が崩れ、弧を描いて地に落ちようというところ。
その先には、しゃがみこんだまま、両手に持った抽斗を店の奥に置こうと手を伸ばしている小さな背中。目がけて飛び込んだ。その頭を抱え込んだ直後に、息の詰まる衝撃。
頭にだけはあてないようにしたはずだったのに、地面に跳ね返った一本が額に当たったらしい。なんて間抜けな話なんだか。
「おい、おいってば!」腕の下で、声を上げながらもがくものがある。
身体を緩めたとたん、肩越し僅かに振り返った横顔が必死な目を向けて来て、「大丈夫か! 怪我は?」
そうだ怪我!
瑛明は慌てて身体を起こして抱え込んでいた後姿をひっくり返し、自分に向き直らせた。「お怪我は!」言いながら瑛明は、向かい合う姿の顔、両肩、両腕を、まるでその輪郭を確かめるかのように丹念に、両手でなぞっていく。
「だ、大丈夫、私は本当にどこも痛くないから!」半ば裏返った、切羽詰まった必死な声。見れば、目線を外している声の主が、僅かに顔を赤らめている。
非常事態――とはいえ、自分の行動が不遜であったと今さらながら思い至り、瑛明は「すみません」口ごもりながら、慌てて上体を起こし、小妹から距離をとった。
心音が激しい。
落ち着かなければ――そう自らに言い聞かせながら、意識的に呼吸の回数を減らす。
呼吸が静まったとたん、「おいあんたら大丈夫か」「誰か、お医者を呼んで来て!」「竹が倒れてくるなんて、管理はどうなってるんだ!」たちまち耳に押し寄せてくるのは、集まった人たちから上がる様々な声。「俺も妹も大丈夫です」そう言いながら瑛明は笑顔で周囲を見渡しつつ、心はまた別のざわめきに捉われていた。
あの竹、確かにしっかりと垣根に結び付けられていたはずだ。なのに何故……。
周囲にさらりと目を投げながら、そのままの流れで背後を振り返った。地面にばらついてる竹。その下に、確かに紐はある。あれは――瑛明が身を乗り出しかけたとき、
「血が!」声とともに白い手が、額に伸びてきた。
それを遮るかのように慌てて自分の手で額を押さえると、確かに鈍痛がする。引き剥がした指先には、僅かな朱色がついていた。
「跳ね返った竹が当たった、かすり傷です。腫れてるだけですし、冷やせば大丈夫です」
笑顔は正面に向けつつ、心は傍ら、竹の下敷きになっている紐にある。
今すぐ確かめたい。だけど――もし俺が懸念するような事態ならば、俺が『気づいた』と悟らせるのは、賢明じゃない。なにより、この方にそんな懸念を気取られるわけには。
「どうした!」人混みの向こうから、覚えのある声が張り上げられた。
振り返ると、そこには璃宇がいた。周囲が自ずと距離をとってしまう立派な体躯と鋭い眼光の持ち主が、驚愕に目を見開き、立ち尽くしている。
隣の小妹が小さく頷いてみせると、璃宇は、「大丈夫か!」大きな声を上げながら、こちらに駆け寄る。そうして兄妹の傍らに跪くと、左に目を向け、「お怪我は」小さな声。
「私は大丈夫。だが」
言葉とともに投げた視線の先を、璃宇が辿る。瑛明は左を向きながら右手を上げ、隠すように額に手をあてると、「これは大したことはありません。それより早くここを」
言いながら璃宇の目をまっすぐに捉え、袖の影で僅かに顔と目を動かし、背後を示す。璃宇は僅かに眉を開いたが――突如がっと瑛明の右手を掴み、額から引き剥がすと、
「おまえ、額を打っているではないか! 近くに我々の詰所があるから手当をしよう」
言うなり立ちあがると、遠巻きにこちらをうかがっている群衆に向き直り、「おい、おまえ!」いきなり一人の男を指さした。
「そこの小路に、竹を運んできた私の牛車がある。ここまで引いて来い。あと、おまえとおまえは、この店の片づけを手伝え。これ以上の怪我人が出ぬよう、壊れた品の欠片一つ残さぬように丁寧に拾え。あとの者は――作業の邪魔だから疾く散れ。間もなく鼓声だ、帰りが遅れては野獣の餌食になるぞ」
野太い声でテキパキと指示を飛ばしたところで肩越しにこちらを見下ろしてきて、
「車が来るまで、おまえたちはどいていろ」
「分かりました! じゃあ小妹、こっち」
威厳に押されたかのように素直な声を上げた瑛明は、小妹の背に手を添え、半ば抱えるようにしてその場を後にする。
入れ替わるようにその場に寄ってきた璃宇が、転がっている竹を片付け始めた。




