「流れ者」
「誰もいない――な」
竹林の中、伸びる影は竹以外には自分だけ――もう何度目かの確認だ。ほてほてと歩いている――ように見せかけていきなり振り返る――そうやっていつも、帰路を辿るのだ。
というのも――あれは半年余り前、ひどく蒸し暑い夏の日だった。
どうにか市で商売を始めた矢先、比呂の姿を見つけた。三年ぶりの再会ですっかり青年らしくなっていたが、あの頼りなげな顔と間延びした喋り方ですぐに分かった。
とはいえ女装している自分に気づかれてはコトだ――顔を合わせないように逃げ回っていたが、あの日バッタリ出会ってしまった。
「あれ? 君、どっかで会ったことない?」
「常套の口説き文句ですね」
苦し紛れにそんなことを言って笑って逃げたのだが、比呂の視線がずっと追ってきているのは分かった。それに気を取られてヘマをして面倒な客に延々と絡まれ、それでなくても蒸し暑いのに、帰り道にはもう、心身ともにヘトヘトだった。
どうにか家に帰り着き、うっとおしく貼りつく衣装を脱ぎ捨て井戸水を被った。
とたんに「うわああっ!」と間抜けな叫び声。
振り返ったら、そこに比呂が立っていた。
以来、振り返り振り返り家に帰るのが瑛明の習慣になった。
「さすがにもういいだろ」
少し西に傾いた日差しを背に浴びながらも、足取り軽く歩き始めた瑛明は上機嫌で帰路につく。背負った籠には、菜っ葉やら袋やらが放りこまれていた。竹細工と竹炭を売った金で買った薬と、多数の顔なじみからいただいた売れ残り様々である。
「平和だなあ……」
一間とはいえ家あるし、野放し状態だった竹林の管理って仕事をもらって日々が送れてるし。筍食べ放題だし、伐採した竹で籠でも炭でも細工物でも、何でも作って売り放題だし。近くの川で魚取り放題だし。鶏たちはせっせと卵産んでくれるし。
妻子持ちのくせして母さんに言い寄ってきた野郎が、妾になることを断られた腹いせに貸家を追い出してくれたときには本当に参った。いくら温暖な江南地方とはいえ、さすがに野宿生活は辛い。行き場を求めてうろつくうち、何十年に一度という大雨に出くわし洞窟に閉じ込められたときは終わったと思ったけど、雨があがった洞窟内で、倒れてる俺たちを発見したのが、趙の成金オヤジ。そいつが母さんに一目ぼれして、家と仕事を提供してくれたってんだから、人生分からない。
でもこの生活が来年も続いてるかって言うと……分からない。
これまでずっと、一つ所に落ち着くことなく生きてきたから。
落ち着かない理由の一つは、自分たちに戸籍がないことだ。一般的に戸籍がない者というのは、税を逃れて北から逃げてきたもの、奴隷が雇主のところから逃亡してきたもの、犯罪者というのが相場だ。だから自分たちはその末裔ってことなんだろう、きっと。
だから瑛明は、母親以外の身内を知らなければ、何処で生まれたのかさえ知らない。寄る瀬のない、かつ尋常ならぬ訳あり母子は、ただ二人で身を寄せ合い、流れ流れて生きてきたのだ。
「王家からのお迎えはいつかなあ……」
思わず口にして、瑛明は自ずと失笑する。
子供の頃はその話を信じて、「俺って王家の血筋なんだってさ」なんて近所の連中に言ったら、「何言ってんだ娼婦の父無し子のくせして。もうちょっと真実味のある話作ってこいよ」とせせら笑われたっけな――おのずと口元が歪む。もう十年も前のことなのに、未だに昨日のことのように思い出す。だから忘れられないんだろう。
「ああ、ダメダメ」
大きな声を出して瑛明は何度も手を叩いた。
気持ちが落ちてきたら、深みにはまり込む前に気持ちを変えるんだ。たとえばこうやって――夕暮れの川辺で泣いていたら、通りかかった旅人にそう言われた。
どうしていいか分からなくなったら、息を吸って、呼吸を整えて、とも言われたな。もう十年近く前の話だが、どこの誰とも知れない、今となっては顔も思い出せない男の教えをいまだに守っている。周りに色々なことを諭してくれる大人はいなかったから、他に縋る言葉がなかった。言われたようにしていたら、成果があった気もするし。何より金がかからないしな、そう思ったら、おのずと口元が歪んでしまう。
もっと楽しいことを考えよう。今日の夕食は何にしようかな、卵と、筍と、あとは――。
鶏の声が聞こえた。
もうじき家だと分かると俄然足が進む。
開け放しの門も垣根も壁も、全部竹で作られた小さな家が見えてくればなおさらだ。
「ただいま」
だが、笑顔で扉を開けた瑛明の足が、はたと止まった。